北川 ぼくは大学時代、怠け者でしたね。夜中にイタリアのサッカー見るか、サッカーゲームをするか、寝るか。「64」とかプレステのサッカーゲームですけど。日夜あほみたいにしてましたね。ズデネク・ゼーマン監督が率いていたローマの4-3-3の動きを再現しようとか(笑)。アルバイトもやってたんですけど、まともに続いたのはサッカースタジアムの設営と片づけのバイトだけでした。続いた理由は、やっぱりそれがゆっくりできる隙間だらけのバイトだったからです。ほかはもう続かない。しんどい。大勢で集合して、知らんところにバスに乗って連れて行かれる感じのバイトは一番ムリでした。それこそ逃走、脱走でした。淡路島で数日泊まり込みのバイトから船で逃げ出したりしてましたね。
杉本 その点では楽ですか?いまの仕事は(笑)
北川 うーん、楽とは言えない。でも多少やりたいことは出来てるというのと、毎日の時間管理をこちらで調整できる部分、さっきの言葉で言うと隙間が多少なりともあるというのはあるでしょうね。それがなくなったら無理かも。でも、まあ雑務というか、そんな仕事も増える一方です。たいした数ではないんでけど、ぼくにとっては処理できない量のメールとかがきて、しんどいと思うときは頻繁にあります。何日までに対応してくださいとか。ごめんなさい、無理ですと(笑)。メールは苦手で。おれひとつのメールを書くのに、どんだけ時間かけてんねん?って。まあ便利なツールなんですけどね。あ、研究の本を研究室で読んでると、暇ですねって思われへんか心配になってしまうと言っている人もいました。
杉本 大学の先生がいまはそうなんですねえ……。
北川 それで思い出すのはバイトで家庭教師をしたんです。時給もいいバイトでした。いまもこの話をすると思い出してしまうのは、受験がありますよね。全然勉強はやる気のない子でしたけど、まあやっぱり高校は行っとかなあかんって。で、家庭教師は受験の前までじゃないですか。だからそれが終わって、ぼくのバイトが「はあ終わった」と。でも受験の結果がどうだったとか、普通は連絡するじゃないですか?さすがに責任というか、感情的なつながりというか。でもまあいいかなと、それすらやらなかったんですよね。これは申し訳なかったな、と思ってます。せめてダメにせよ、受かったにせよ、たいしたことはしてないけど、まあ人間関係があるわけですから、「どうやった?」と。あかんかったら「まあそういうこともあるさ」、あるいは「よかったやん、合格したやん」。でも、もうそれさえ億劫になって。だから電話もしませんでした。ちょっと聞くのが怖かったのもあったと思います。で、このことをいろいろ考えて勉強していく中で思い返すと、感情労働とか、介護、保育とかのケアの「労働の拒否」のある種の束縛、難しさですね。それはホンマに「人でなし」になってしまう、みたいなね(笑)。
杉本 ははは(笑)。それは確かに物質労働とは違いますよね。
北川 ホンマに人でなしになるんやな、と。
杉本 製造業は相手がモノだから、俺がいなくてもいいべ、と言って拒否もできるけど。
北川 ねえ?
杉本 ええ。人を相手にするとね。
北川 介護職とか。
杉本 確かに。拒否、まあストライキをやるといっても……。
北川 でもね、ぼくはそれも必要だと思うんですよ。
杉本 ぼくもね。昨年(18年)の地震のとき思ったのは、「行ったって無駄じゃんか」という。自分がそういう感情を持つようになるとは思わなかったんだけど、「みんな行くのやめときゃいいのになあ」と思ったんです。札幌中心を見て、全体のことを考えるとね。でもぼくのお袋も介護を受けてますから、実際ちゃんと来てくれるんですよ。
北川 そうなんですね。
杉本 看護師さんとかそういう人たちですね。まあ自分の親もそうだし、医療介護関係者はね。命に直結するでしょうし。それは三陸の話のときも人々を生かすために東奔西走した行政の人たちも含めて。やはり悲しいかな、否定できないリアルですよね。それをNHKとかにすくい取られちゃうんだけど。でも否定できない。感情労働ってそういう所がありますよね。人をほっておけないというね。
北川 そうそう。
杉本 アナキストの人たちだってそれはねぇ?
北川 助け合い自体は否定しないですからね。むしろ本質的なものです。でも、それが安い給料で賃労働化されている。自分の手の届かないところで決めれた賃金、条件、仕事。一人でものすごい数の利用者を担当したりしますよね。もし介護とかでストライキしたら、そういうのは人でなしというか、すぐにほっとくと死ぬやろ、みたいな話になるじゃないですか。お前、そんなひどい人間でいいのか?みたいな。でも現場が余りに酷いところだったら、どうするのか。とても耐えられない労働環境だったらどうする?介護とか保育とかは絶対要ることなのに、かなりきつい仕事みたいですからね。どんな自然災害下でもそれこそ仕事からは逃れない、犠牲になるしかない、みたいな…。そもそも賃労働じゃないはずの活動ですからね。ニュースでも、介護士による利用者への暴力とか、耳にしますよね…。低賃金ですし、過酷だし。辞める人も多い。もう辞めることでしか、拒否を表にできない。でも育児とか介護とか、ケアって、たぶんどんな時代でも、どんな場所でも、人間がずーっと行ってきたことでしょう?資本主義だろうがそうじゃなかろうが。本質的なものですよ。でも育児や介護は家庭内ですべきことで、だから無償労働だと思われているんですよ。家庭にだけ押しつけるのはありえない。今の社会の仕組みというか、労働のあり方を考えたら、負担の面でも無理です。家庭といっても、介護を担わされるのは、だいたい女性ですし。家庭に押しつけると、家父長制という支配関係を再生産してしまうという点でも問題。そもそも家庭の労働を、女性の無償労働にしてしまうことで、資本主義は生き延びてきたわけですし。
でも感情的な結びつきというのは、自律的な社会関係、仕組みを作っていく上でとても大事なことのはずです。相互扶助ですよね。だけど現状は、資本主義にはめこまれた搾取された労働であり、エネルギーも、人助けの気持ちも、ケアの気持ちも吸い取られています。
杉本 つまりドイツ式に社会保険を通して介護保険という形で要するに「給料で働く」という、労働者として働いていると側面があるわけですよね。で、同時に労働者だけどケアする人、福祉の対象になる人を相手にするわけだけども、まあ、「ほっておけない」と思ってくれてると思うんですよ。そこまで人に対してぼくも邪悪な目を持ってないから。素朴に「いつもありがとうございます」という感じに思っています。医療と福祉に関しては本当に感謝してるんです。公的にやってくれていることが年金生活の親と暮らしている身としては心底助かっている。だから国家によって救われている面もあるんですよね。本当にアナーキーでカオスな世界になったら見捨てるしかない。本当に人でなしの世界になる、そんな環境になると思えば難しい。実はこれも部分の話で済ますべきなのかもしれない。やはり未来に延長して考えるとそれは「俺もやりたくないのは良く分かる」というのはあるわけなんですよ、当然に。そういう人たちが給料を出すからやってくれと言われて。まあ仰られたように、いまいろいろあるわけでしょう?施設でも老人殺しちゃったとか、ぶん殴っちゃったとか。「人でなし」と思うし、でもおそらくいくら専門的な勉強をしてると言っても、そうはいっても人間なんだから、みたいな感じもある。
北川 それはもう大変ですよ。そんなん、絶対そうです。
杉本 むしろ他人だからできるという考えもあるけど、他人だって耐え難い普通の他人の介護をやるような局面になれば、モノ扱いになっちゃうかもしれないし、かつ今後出てくるなあと思うのは外国の人にやってもらおうということですね。言葉を選びにくいのだけど、それってどうなのかなあ?という。難しいですよね。感情労働が先進国の普通の労働の在り方の一般性みたいになってくると。
北川 そうですね。
杉本 黄色いベストの人がやっているようにマクドなんかはショーウインドウ壊してもいいかもしれないけれども(笑)。ああいう人たちだって介護労働者たちよ、ストライキをやれとは言わないでしょうし。
北川 でもぼくはなにかしらストライキというか、そういうのが必要な局面もあると思ってるんですよ。やっぱりね。
杉本 そうなっちゃったら、社会全体になっちゃうから(笑)
北川 ストップさせて。
杉本 人工透析している人も含め?
北川 だからどこに打撃を与えるかということですよね。その場合は患者や利用者に対してではないでしょう。雇用する側、国の労働制度というか。偉そうなことは言えませんが、この労働にふさわしいやり方を編み出すことが大事なんでしょうね。
例えば、かつて農民のストライキは、短時間で、とても激しいものでした。それは農作物を放置できない、腐るからです。工場労働者のストは、時間的には長い、引き伸ばせるものでした。ぎりぎりまで交渉しないとか。なので、こうしたケア労働ならではの拒否の形というか闘いの形。それこそ日本もそうでしょうが、世界のいろんな地域に目を向けたなら、過去、現在含めて、様々な闘争のアーカイブがあると思うので、それを掘り起こすとか、日本語にしていくことがきっと必要でしょうか。すでにあるのかもしれませんが。まあでも、世の母親たちは、子育ての経験の中で、工夫のある様々な拒否を実行してきたと思いますよ。今もそうでしょう。重要です。大掛かりなことで言えば、さっきちょっとだけお話した、移民の受け入れセンターで働く作業員と、そこの移民たちとの連帯もヒントになるかも。でも介護の対象者ではない、もっと動ける人たちなので、そこが違うかなあ。
まあ現場では、ムカつく利用者や家族なんていたりして、また難しいのかもしれませんが。保育士の人と付き合っている元学生がいるんですけど、いろいろ言うてくる親には、たまに短時間でもストライキして、びびらしたらなアカン、って言うてましたね(笑)。ケア労働者も、利用者の愚痴とかはメチャクチャ言っていいと思いますよ。当たり前ですけどね。ぼくは最終的に放り出して逃げ出す介護労働者がいても、最終的にはそれは否定できないとは思っています。ある意味で、その人の倫理感につけ込んだ搾取、低賃金のきつい労働となってしまっているのでね…でもこう言った途端に、自分のバイトの経験を思い出して、迷いが発生してしまうのですが(苦笑)。直接イノチに関わる仕事でもなかったのに。でもこうしたケア労働者の切実なところとしては、非正規、正規とか問わずに、労働の量も労働の時間もメッチャ減らして、人も増やして、保障充実させて、そして何より賃金をアホほどあげろってことですね。
ゆっくりとつながりあうことの大切さ
杉本 そう考えるとやっぱり資本制というものは、ある種栗原さん的に言えば、支配と奴隷の関係性ですよね。お金による見えない支配。賃金を渡せば担保されてる形になってるけれど、休めない。夜勤もある。つらい。昔の社会主義の国であれば、倫理性でガンガン強引に(笑)
北川 それはまずい(笑)。まして日本は道徳を押しつけますからね。
杉本 そうですよねえ。日本人の人は、「嫌だ」とは…。
北川 言わない。
杉本 そうそう。
北川 やっぱりね。やっぱり感覚的には、さっきのビフォの「ゆっくり」とか、「触れあう」とか。
杉本 ただ、老人問題ですよね。今後はね。
北川 そうですね。それは大きな話ですね。何かビフォも書いてましたよ。老いることを否定的に見てはいけないと。何か若さで元気でというのはある種近代の男性的な力強さみたいなもので、いかにそれをヒモ解くか、和らげるか、みたいなことです。
杉本 そうなると感情労働も否定的にはなれないですね。なかなか。
北川 まあそこは非正規、有期とかで賃労働化されているのでね…。とはいえ家庭、女性に担わせないやり方で。そのためにはまず一日のほとんどの時間を労働に奪われるようでは難しいです。だから、資本主義から脱する必要はありますよ。人と人がゆっくり関わることは、何より大事なことですから。
杉本 うん。そのへんはアナキズムの人たちはどちらかというと、コミュニズム的な支え合いのような話になっていくのでしょうか。
北川 そうですね。それ抜きでは生きてけませんからね。単純に生存のレベルでもそうですし、楽しく生きていくのもそうでしょう。でもね、そういう話にも、右翼は介入してくる。例えば、家庭内の育児とか高齢者の世話、ケア労働に女性の移民をいっぱい使いながらも、すぐにイスラムの脅威みたいな話をする。
杉本 ああ…
北川 「彼らはいっぱい子どもを産んで」とか、「家族を呼び寄せて」とか。で、人口比がどうこうとか、そういう話をして「脅威」をあおるわけです。
杉本 いろいろすごく大きな課題が現前化する前段階に来てるのかもしれないですよね。EUも大変だなと言うのはより現前化してるから、という風に多少思います。本当に現前化したときにどうなっちゃうのかなあ?
老いと若さを考えて
杉本 私も父親を送って、母親も呆けて往時の面影がなくなって。思うんですよ。時々。「存在って何かなあ?」って。やっぱり生き物なんだなあ、人間も、という。変なことを(笑)
北川 すごい。何か一歩退いた感じというか、余裕があるというか。
杉本 そうしないと。あまり現実的対応だけでやっちゃうとちょっとヤバいなという感じがあって。まあ僕はけっこう長いこと形式的なセラピーという形で付き合ってくれている先生がいて。愚痴ったりして。たいがい愚痴ってますよ。ここでも今、愚痴ってるわけで。
北川 ええ。それはメッチャ大事なことです。
杉本 でもその、マッチョでいられるということがね。できない人だからというのがあるのと同時に、やはり活気というものが社会には必要でしょうから、若い人に関して言えば、「何だ?この世の中のありさまは。みんな声を上げたほうがいいんじゃないか」と思っておかしくないと。栗原さんの本にも、「ああ久しぶりにこの本はキタなあ」という風に思っています。
北川 はっきり言ってますからね。栗原さんはね。あれは大事だと思いますね。回りくどく言わない。パンクやな!(笑)。重要な思想家なんですよ。
杉本 そうなんですか(笑)
北川 ぼくは大切なことを言っていると思ってますよ。
杉本 いいのは、ヘイトではないですから。ヘイトしてるのは体制に対してだけですし。弱者には絶対にしませんから。
北川 ええ。