気がついたらひとり
杉本 現状がそういうことなんだということは、外部にいる人間として教えてもらったところなんですけど、そうはいっても『ポストモラトリアム』の中で村澤さん曰く、古典的モラトリアムの時代から、要するにキャラ交換とか、ペルソナ交換が必要な時代になって、それができない若者がリアルの内側に入れなくなり、排除されていく、という。
そこで本の中でも紹介されている栃木県の若者サポートステーションのミーティングはいまでもやられているのですか?
山尾 はい。やっています。
杉本 人は増えてませんか?逆にぼくなんかは増えなくちゃおかしいんじゃないか?と思っちゃうんですけどね(笑)。
山尾 うん。まあそうですね。
杉本 余裕がないというか、みんな忙しいわけですよね。その忙しさに適応できる人はマジョリティかもしれないけど、やはりそこで適応できない、ぼくらからみたら普通で真面目な、ごくおとなしい若い人なんじゃないの?みたいな人たちが取り残されていってるんじゃないかと。
山尾 ええ、ええ。そうですね。
杉本 そこらへんはどうなんだろう?という思いがあるんですよね。本当にリアクションが難しい若者たちなのか、あるいは単に真面目でおとなしいだけ。世の中のスピードについていけないから、という風になっているのか。そのうち学校に行けなくなった。バイトも出来ない、就職活動も難しい、一般的に元気がないと言われるような、ぼくはそうは認めたくないけど。そういう人たちが在宅時間が長くなってきて、だんだんコミュニケーション的にも“自分の中で”難しい人間なんだと結果的になってしまうような。
山尾 そうですね。集まってくるみんなは本当に事情がそれぞれなので、共通してこういうことだと言うのはなかなか言いがたい所ではあるんですけど。基本としてはみんな真面目というか、きわめて普通(笑)。ただやっぱり人と関わることについては失敗して傷つき体験ができて、そしていま大変なんだという人も居るし、もともとその子がそれこそ高度なコミュニケーションスタイルみたいなものに馴染まなくて気がついたらひとりだった、という人も居ますし。いろいろですね。でも全体としては真面目というか、普通です。で、ミーティングの場に集まってくると、みんな同じようにコミュニケーションに対する苦手意識を持っているので、みんな同じだという形で何となく安心できる。そんな形ですね。
杉本 わかります。だからクラスの中で何となく孤立してしまう子が、大学に入っても何となくひとりぼっちになってしまう。そうすると、どうしても「私ひとりだけだ」と思いがちになって、外に出ずらくなっていくという人たちが集まってくるから、「あ、自分ひとりだけじゃないんだ」という安心がまずあるということですよね。
山尾 ええ。そのひとつになっていくという経緯、プロセスでは、この中(『ポストモラトリアム時代の若者たち』世界思想社 2012)で少し書きましたけど、やはり「気がついたらひとり」なんですよね。さっきも言ったように、大学までちゃんと過ごしてきて、就職はしたのだけれども、その職場が大変なところで、まあ心身をちょっと壊してしまって、その経験があるから社会に出るとか何とかというのがちょっと怖いという風になってしまって。そうすると大学にいれば大学という居場所があるけれど、いったん出てしまうと居場所がなくなってしまうので、孤立するというのがありますし。あとは元々ひとりでいるのが好きなんですという人は、ひとりでいるという形になっていますし、「排除型社会」という風にはしたのですけれども、その社会の排除性というものはみんなが本当にひとりひとりに点数づけをして、「あいつは赤点だから排除しよう」みたいな形なのではやっぱりなくて、誰もそう思ってないけれども、社会全体としてなぜか結果的に人が排除される。そういう仕組みになっちゃっている所だと思うんですね。「排除型社会は良くない」と言っても、じゃあその排除型社会はどこに見えますか?というと、個別に見ると見えないかもしれないけれど、全体としてみるとそうなっているという。
杉本 ええ。だから責任の所在がはっきりしない。
山尾 そうなんですよね。
杉本 何でしょう?たとえばひきこもりと呼ばれた人が今年(2019年)、事件を起こしました。まあ、ひきこもりと簡単に言ってしまったことは、いろいろ波紋を呼んじゃいましたけれど、みんな誰も自分が彼を追い込んだという自覚を持ちようがないから、やはり無為な生活を送っている人は危ないよね、みたいな。何となく、別に深くも考えないで責めるというか。「こっちだって大変な思いをして頑張っているのに家で何もしないからこんな風になってしまうんでしょう?」みたいな。深い考察も理由も考えない。個々、個人的には、すごく問題を抱えていることもあるはずだけど、深刻さがわからないというのがやっぱりあって、その「わからなさ」という所が自分とつながるような話とは思わないで終わっているところが不思議だなと思います。
見えにくい排除
山尾 何なのでしょうね。特にいま、現状を誰も良く知らないという中で、例えばそういう大変になっている人がいるということに私たちは気がつきにくい。あるいは例えば行政の窓口で生活保護を申請するときに、明に暗にハードルがあったりする。でも行政の窓口の人はその人が憎くてそうやっているなんてことはなくて、まさに手続きとしてやるわけで、どこにも責任というのが見つからない。これはどういう形で申請したものを受理するかしないかという所でもあり、いまは割と給付の水準を切り下げている。つまり申請を通りにくくするようにしていますから、その背景には人権に対する日本人全体の感覚の欠如というか、何かがあると思いますし、あとは単純に費用の問題。そこにお金が入らない構造があるのかもしれません。その点での問題性はすごく見えてくると思うんですけど、じゃあひとりひとりがこの人を排除しようとしているかというと、そうでは必ずしもない。やはり「見えにくい」というのはあると思いますね。
杉本 *ジョック・ヤングの『排除型社会』のほうは、あの方は犯罪……。
山尾 犯罪社会学ですね。
杉本 ああ~。やはり。犯罪から最初は見ている人ですね。だからイギリス、アメリカとか欧米のほうは見えやすいという感じ?
山尾 まあそうですね。民族とか、人種とかのエスニシティと、犯罪率を結びつける。*「保険統計的」対応、と言ってますけど。この地区は問題の多い地区だ、そこは重点的に取り締まれ、みたいな形でやっているというのは、かなり見えると思います。
杉本 なるほど。そこは日本の場合は見えにくいから、ひきこもりとか、ニートとか、不登校とか、そういう形でもう潜在的にはたくさんいるんだけど、何か社会全体としては悪い、良くないというだろうけど、さっき言ったその、「差別の主体」みたいなもの?だから白人にとっての抵抗する黒人、みたいな。簡単に言うと、敵・味方関係?(苦笑)。それが意識される世界。だから意識される絶対的な対立みたいなものが潜在的にあれば、学者などが出てきて「いやいや」みたいな。「それは排除でしょう」。そこに考える余地とか、考察による批判とかが入る余地が沢山出てくるんだけど、何かひきこもりとか、不登校とか、そこではなかなか健全でオープンなオピニオンが出てこない。もやもやとしてる。だからときどき形態はひきこもりなんだけど、実は精神障害でしたみたいな話になると、それはそれでまた差別になっちゃうから、言いにくいのですけど。まあ現象形態はひきこもりであると。時々突発的に個人の攻撃的な事件が起きると「ひきこもりは!」みたいな形で、犯罪予備軍だ、みたいな。でも何となくそれも、シュウと、話は立ち消えになる。いじめ自殺も同じですよね。いじめはひどいと言って燃え上がるけど、またシュウッとこう、熱が醒める。また10年くらい経って事件が起きると、また燃える。だから「論争のしにくさ」みたいなものがありますね。
山尾 そうですよね。
杉本 誰が排除されやすいか。ある種の国では、人種とか階級的に差別されやすい地域があるとか、そういう話になる。だからイギリスには労働者階級という確固とした層があるから、ケン・ローチのような映画監督が労働者階級について映画を撮るとこれが世界的に評価されるみたいなことがあるわけですけど、日本では全体の中で排除というのは一体どこにあるのか?先生の話を伺うと、どこに生まれるのか、誰が作るのかというのはちょっと見えにくいから、逆にこういった本(『ポストモラトリアム時代の若者たち』)が浮かび上がらせてくれる。スティグマ化・トラウマ化していくという問題で。やはりなかなか着目されて行かないんです。こういう形で論文化され、社会化されて投げかけられるみたいなことはね。そこがちょっと残念な所だなあというのがあって。
山尾 結局ひきこもりは問題だとか、いじめは問題だとかいうような言い方というのは、その現象を理解しようという営みじゃなくて、それはやはり「名づける」ことで安心できるということなんですよ。ひきこもりが問題だと言って、ひきこもりのどこが問題で、どう問題なのかというのは問われずに、「ひきこもりだから」というだけで。そこでは説明がないけど説明のない結論というものがある。
杉本 ひきこもりにしても不登校にしても、そうなってくると本人とか、特に家族の親かな。家族が困って専門家に相談するとか、そういう流れでいくと本人の言説が、何だか聞こえなくって。まあ徐々に出てはいるのですが。中年になった元ひきこもりの人で元気になった人たちが対抗言説みたいなことを始めているのはさすがに現在だなと思いますけど。かつてはそれが全然なかったのも事実ですし、そうすると代弁してるひきこもりを診てる医療者とか、あるいは家族の困りをジャーナリストがレポートするとかで代弁していた。
ぼくはやっぱり正直言って当事者が本当にどう思っているのか。それはもちろんひきこもっているわけだから、聞き取りにくいというのはあるんですけど、で、まあ家族はやっぱり……。「特殊な家族」ってそう無いから。ふつうな家族なわけで(笑)。「働いてもらいたい」とか、働かなくてもいいから、「とにかく社会参加を」「外に出てくれないだろうか」という話に方向性が寄ってしまうと、世の中でも何だか「そういう人たちだ」という形になって、「外に出れない病理性」という、とても困った、気の弱った子どもたちを抱えた親たちに迷惑をかけていて大変だ、みたいな。この進展のなさが20年以上続いているという感じがするんですね。この本の中でもどこかに書いてあったと思います。確かこの中で弱者が強者に挑んで、まあ犯罪者になるかもしれないけど、復讐を遂げる、みたいな。
山尾 ああ~。場所は忘れましたけど、「トラウマ化」のところで、昔いじめられた人が復讐したいとか、謝罪を求め、ということを妄想の中で繰り返すというところですね。
杉本 もちろん空想の中での囚われなのですが。これもまた、どう離れたらいいのだろうか。結局訴える相手はもうその人の立っている舞台にはいない。
新しい他者との出会いと基本的信頼
山尾 そうですね。この中では、この囚われに対してどう抜け出していくかというと、やはりよき「他者が現れる」ということですね。過去の、自分のある状態との対話。そこから抜け出せないループから別の他者へ。実際に対話ができる他者というのを作って行くというのがすごく大事で。それが「若者ミーティング」の中で、みんなと一緒にいるとおそらく「基本的信頼」というのが生まれて安心感が生まれ、で、その中でこの人と自分は話ができるという感覚を掴んでいくとこれはもう理屈とかではなくて、その過去の囚われから自分のいまの他者との出会いになっていくという形ができるんですよ。
たまたま当事者研究の本を読んでたんですけど、その本に書いてあることも同じことで、結局何か問題をこじらせてしまうことで、それを自分の中で解決しようとして自分へ閉じてしまうみたいな。閉じてしまうとどうしようもなくて、そこにたまたまどういうきっかけでか、それは分からないです。いろんなきっかけで他者が出来るとそういう自分の悩みとか、苦しみというのを外に出せるようになる。するとその囚われからだんだん抜けていくということなんですね。さっきの復讐の感覚にするんじゃなくて、『ポストモラトリアム』にも少し書いたんですけれども、またあの居場所に行ってみんなと話すために、じゃあテレビを見てネタを仕入れようとか。「現在を生きる」ことによって、そうなってみて初めて、過去の囚われから抜けていくという形。抜けようと思って一生懸命ひとりで頑張るんじゃなくて、むしろ頑張らなくても、たまたま人がいて関わってくるとグッとそっちに入っていくみたいですね。それを理論化するというのはすごく難しいんですけど。たぶんトラウマみたいなものは完全に消えるものではないと思うんですけど。それもありつつ、それとうまく付き合っていくというか。そういうスタイルは可能で、その時には自分だけじゃなくて、自分と他者がいる。「この人がいる」という繋がりを作る。それが大事みたいですね。
杉本 それはごく少数の人でも大丈夫ですかね?
山尾 それは大丈夫だと思います。
杉本 というか、そんなに広がらないでしょうねえ。やっぱりそういう内面の痛みみたいなものを共有するというのは、そうたくさんの人とは難しいかもしれません。ただ、そういうグループは昔に比べて沢山出来てはきているので、選択肢はあると思います。それが「信じられる」という側面はあるかもしれませんね。歳を取るにつれて。まあぼくも、こういう形で、対話させていただくことで、報われている側面はかなりあると思いますね。そこは方法論はさまざまで、確かにひとりだけの勝負で社会と直接かかわる、働くことで過剰に普通のランクを上げて世の中に入っていこうとするよりはるかにいいでしょうね。でも意外と気づかれていないのかな?基本的な信頼感を取り戻す作業のほうが現実的だよ、ということは。
山尾 ええ。そうですね。
*ジョック・ヤングー1942年、スコットランド生まれ。現在、ニューヨーク市立大学大学院センター特別教授、およびイギリス・ケント大学社会学教授。犯罪学、社会学の研究者。犯罪問題を中心に社会的にも積極的な活動を行っている。
*「保険統計的」対応―社会秩序にとって脅威になりそうな人々を、統計的推測に基づいて社会の中心からあらかじめ排除しておけばよいという考え方。