無意識の指令
杉本:で、本を改めて読ませていただいて、不登校・ひきこもりは自分の中にある「無意識の指令」、という風にも本のほうで書かれてましたけど、そうなることへの意味合いですよね。何でそういうことが起きてしまうのか。結局、不登校というかたちで学校制度に適応できなくなってしまうというのは、何か普遍性みたいなものがあるような感じがしますか?それとも何か現代的な課題があって起きていることではないか、という気がしますか。
丸山:一般的な意味で不適応はですね。どのような社会でも、どのような時代でも、どのような枠組みでも必ず100人全員が適応できるということはありませんから。必ず「不適応」というのは古今東西、営々と続いてきたことだと思うんですよね。でもすごくその時代のシステムが、何というのかな?昔から枠組みとか、そういうものはあったわけですけど。いまのシステムのほうが細かいのかなあ?すごく時代が進むにつれてシステムのひとつひとつの枠組みが細かくなって、それだけ増えているということなんでしょうね。全体として枠組みが増えているので、ひとつひとつが細かくなっているのかもしれない。そういう中で不適応が見えやすくなってきているというのはあるんじゃないかな、と思ってるんですよ。
杉本:システムが細かくなって、全体のこのシステムの構造が増えてきてるから、そこで不適応があぶりだされやすくなっているという感じなのでしょうかね?
丸山:そうそう。そうなんでしょうね。だから学校というものも通常の学校のシステムだと間違いなく不適応を起こすということは出てくる。そういうことですよね。で、それくらい人間というのはもともと動物ですからね。ロボットではないので。生身の人間があるシステムの中で育って行こうとする時、どうしても不都合があればそれ(不適応)は当然生じるわけですね。で、システムが細かいというのを僕が思うことのひとつは、そういう制度。指導するとか、生徒への見方が細かくなっていく。緻密になっていくというのかな?つまり昔は大雑把に、おおらかに、まあちょっとこいつは今週三日くらいさぼってなにかゴロゴロしていたなというのは昔はそんなに問題にならなかったと思うんですよね。でもいまこれがどういう動きになっているかというと、ある自治体では「一日休んだら電話をかけなさい、2日休んだら家庭訪問しなさい」とか、そういう風にどんどんどんどん、不登校に対する指導というものを強化していく方向に向かっていってるんですね。例えば別の例でいうと、いま話題になっている体育祭の組み体操であるとか、給食の完食運動であるとか。
杉本:完食?
丸山:完食。完全に食べる。
杉本:ああ、なるほど。
丸山:いわゆる全員が残さないというのをやってますよね。ああいうのは僕の時代にはなかったですよ。
杉本:ないですよ(笑)。なかったですよ、そんなの(笑)。
丸山:そういう風に、よくそんなことをする余裕があるな、と。先生方が。何でそんなことをわざわざするんだろう?大変なことを。だからそういう風に指導がいろいろと、やたらめったら工夫されているというか、ひとつのものを全員で作り上げるみたいなことが一番優れた教育実践だと思っているのかどうか知りませんけど。別に普段はそんなことやらなくていいじゃん、と思うわけですね。学校で授業をやって、部活をやってそれ以上何が必要なんだろう?と思うわけです。
杉本:そりゃそうです。
丸山:いろんなことをやってるわけです。いまの学校はね。
杉本:こまごまとしたところまで?一時期「ゆとり教育」とか言われた時期があったじゃないですか。その頃もこんな指導の強化みたいなことはあったんですか?
丸山:さあ。そこは僕はその時期のことは詳しくないですけど、ゆとり教育というのはまあ学校でね。円周率が3.14でなく、3で教えればいいというような、そういうような教え方が緩くなったということを批判されているようですけど。
杉本:でも総合学習とか、教科学習だけじゃない社会学習とかいうことを、まあ「生活の知恵」みたいなものを持たせようじゃないかという方向に一時期ベクトルが動いたんじゃないでしょうか?
丸山:ええ。だからそれがゆり戻しというか、それはダメだ、失敗だったということなんじゃないですかね。
杉本:ああ。じゃあまた改めて管理指導が強化されてる時代に入った?
新しい管理のかたち
丸山:うん、それはちょっと調べないとわからないですけど、もしかしたらそういうゆとり教育が失敗だったという、そういわれる中で新たにもうちょっと。こういうことだったらいいんじゃないか、とか。昔の苦役的な管理教育ではなくて、みんなで何か達成感を味わおう、みたいなね。何か新たな潮流みたいな。自己啓発的な何か。昔みたいな「押しつけ、押しつけ」じゃなくてね。もっとあおっていく方向、というのかな。
杉本:ははあ。なるほど。僕も自己啓発の本とか全く読まない人間ですけど、何かその「ポジティブ・シンキング」みたいな発想をこう、共有して。ひとつクラス全員で達成しよう、みたいな。そういう感じでしょうか。
丸山:はい。
杉本:ちょっとしたマインドコントロール的なノリがあるんですかね?
丸山:そうですね。
杉本:はあ。で、教師はそういう文科省の指導には逆らえないと?
丸山:まあまあ、どれだけ指導してるのか。むしろ現場から出てきているのかもしれないですしね。
杉本:う~ん。現場そのものからもそういう思考回路が出てきてるかもしれないと?そういうことですか。まあそれに対する生理的な反発とか、そういう自覚的なものじゃなくてもやっぱりついていけなくなった子が不登校に陥る可能性が高い?
丸山:そうそう。
杉本:クラスにいまはひとりくらいほぼ不登校の子がいるというのは本当の話でしょうか。
丸山:ええ。本当ですね。
杉本:なるほど。あの、話を聞いているとそうなる子のほうが生きものとしての自然反応のような気もするんですけど。どうでしょうね?
丸山:ええ。まあここら辺に間しては、僕は不登校のあと学校に行って、完全復帰して高校の最後3年間を充実して楽しんだクチですから。で、不登校中に学校へ時どき行ったときにもクラスの人たちが僕を親切にしてくれたり、いろいろ配慮してくれた。そういうクラスの人たちとの時間があったので、もうみんなで楽しく学校生活を送っていけたという。
杉本:別に誰かから言われたわけではなくてね。
丸山:ええ。だからそういう体験を僕はしているので、「学校へ行けないことのほうが」とか、「学校へ行ってる子のほうが」という感覚は僕はあまりないんですよね。
杉本:ああ、なるほど。
丸山:ええ。だからたまにいま仰ったようにね。学校へ行けないほうがまともじゃないかとかね。学校に行ってる子のほうがおかしいんじゃないかとかね。そういう議論はありますけれど、僕はそうじゃなくてまあお互い良いところもあるし、悪いところもあるよねという意味合いで思っていますけれど。ただ、社会的に差をつけて見られているという。学校に行けない子への偏見というのはこれはもう、問題ですけれども。人としての価値という話ではないんじゃないかな、という風には思っています。
あたり前が崩れる意味
杉本:うんうん。いや、本当に価値の問題ではないと思います。ただまあそういう、どの程度ね。社会的条件が背景にあって不登校になっていったりする子がいるのかわからないですけれど、とりあえずあたり前に学校に行くもんだと思っていた、あるいはひきこもりの人であればあたり前に働くもんだと思っていた人がそれが出来なくなってしまう。いままで本人の主観の中では「あたり前」のものだという風に思っていたもの。それが崩れちゃうわけですよね?そうすると、何と言ったらいいのかな。いままで味わったことのない、あたり前に出来たことが出来なくなる。行けた場所に行けなくなるということというのは相当なことで。
で、周囲もあたり前に行けていた子どもが家の中で身動きが取れなくなるということは、もともと不登校やひきこもりに強い認識があれば別でしょうけど、あたり前の家庭であれば、周りを含めて対応にはとても困っちゃうと思うんですけど。そういったことへの対応で、メルマガなどを発信する中、丸山さんの方にも何らかの形で働きかけとか、そういう相談がやってくると思うんですけど。まずはどういう風に対応を伝えていくスタンスですか?
丸山:はい。「あたり前」に出来たことが出来なくなるときというのは、例えばそれまでの長年の生き方、その人の生き方にどこか無理がずっとかかっていたと言いますかね。まあ、自分の場合は例えばエリート意識を持って、自分はもう良い大学に入る人間だと思っていたのが結局小学校から中学校へ行っても勉強を一向にする気にならない。中学校から高校へ行っても勉強を一向にする気にならないという中で高校は輪切りなので学力差というか、次が大学受験ということもあるし、そこでもう僕は行き詰っちゃったんですけれどもね。
そういう風に「自分の自己像」と「現実の自分」とのギャップであったりとか、そのような無理がかかったりですね。あるいはいじめられたりすれば、自我がとてもズタズタにされるわけで。だからそういうトラウマですよね。そういう風な無理をして、無理を重ねての疲労、心の疲労であるとか、疲れ果てた状態。いじめられたり疲れ果てた状態。それからトラウマになって心がズタズタだという風なのがまずは第一。それがあって学校に行けなくなったりする。そうしたらその学校に行けない自分に対してまた、そんな自分に対してショックを受けて傷ついてしまい、疲れてしまうわけです。で、そういう状況に直面すると、今度は何とか本人としては自分の力で解決をしようとする。自分はこんなことで学校に行けなくなったとか、社会に出れなくなったというのは、これは自分に根性がないから何とか頑張って戻ろう、戻らなきゃ、ってまた努力をする。周りもそういう努力をさせようとする。そうしたら今度はそれをやろうとしても結局はできない。で、ここでまたショックですから。三重の傷つきというか、まあ、トラウマですね。「疲れ」というか。それが不登校体験、ひきこもり体験の第一段階だと思っているんです。
杉本:ある種の悪循環をしていく?
丸山:悪循環ですね。だからもしそういう時期、最初の時期に僕に相談ということはね。最初の時期にスパッと相談に来るような親御さんはほとんど僕のような民間人にはまず来ないですね。だいたい不登校であればスクールカウンセラーに相談しようとかね。不登校でもひきこもりでもまずは行政。あるいはまあ、有名どころの人(笑)。有名どころへの相談ですね。ですから、だいたいそういう時期を過ぎた親御さんが来る。やっぱり一生懸命「戻そう戻そう」と頑張ったけれども、結局もうラチがあかないと。途方にくれた親御さんが来るんですね。だから不登校でもだいたい半年、一年はやっぱり過ぎているとか、ひきこもりだとそれ以上、もう数年経っていたという親御さんも結構いらっしゃいます。
ですから僕はそれはそこへ至るいきさつというのは、もうそのままそれを受けとめる以外にないし、もし渦中にいるときに素早く来られてもやっぱりその時には出来るだけ心理の、いま言ったようなメカニズムの説明、ということですね。特にそれが「いけません」とか「やめなさい」とかあまりそういうことは多分あまり言ってないと思うんですけど。むしろ何も言わずとにかく親御さん、まず相談に来られた親御さんのお話を最初の方でじっくり聞きますね。そうしたらその中で、伝えた方がいいなというようなポイントを説明する。つまり心理ですよね。「どうしてそういう風な悪循環に陥ってしまったのか」と。それに対して親がその悪循環を断ち切る役割ではなく、むしろその悪循環を促進する役割を演じてはいないだろうか?という所ですよね。そこはちょっと本人の心理メカニズムを説明することによって、親御さんが自分で考えることが出来るように少し説明やお話をすることになるでしょう。とにかくあまり否定を、まあ本人にしても親御さんに対しても、どんなに間違ったことをやっていたとしてもまさにそれはその全員にとってあたり前のことをしようとしているわけですからね。
杉本:はい、善意でね。
丸山:学校に行くことはあたり前。社会に出ることはあたり前。それが出来なくなった。じゃあ出来るようにしたい。こうなるのがまずあたり前なので。そういうあたり前のことを最初から否定しては、とても受け入れられない。
杉本:相談を受ける側はですね。
丸山:はい。そこは肯定はもちろんしません。「ああいいですよ」とは言いませんが。逆に「いけません」とか、あまり否定することは言わないです。