北海道大学大学院 教育学研究院准教授
加藤弘通さんインタビュー
問題児を問題児としてしまう普通の子たち
加藤:きのう、この本(『ひきこもる心のケア』)を少し読み返していて。序章、読みましたよ。僕もセックス・ピストルズはよく聴いていたので。
杉本:あははは(爆笑)。おお~。加藤先生もピストルズを。でも。
加藤:でも僕は年齢的には。
杉本:そうそう。
加藤:最初はね。僕はブルー・ハーツとか、※ラフィン・ノーズから入って。
杉本: 先生は僕よりひと回りくらい下ですよね?
加藤:そうです。73年。昭和48年生まれの43歳です。
杉本:ブルー・ハーツがテレビに出るようになったのは?
加藤:中学生くらいですね。衝撃でした。
杉本:ブルー・ハーツもいわゆるパンクの影響といいますか。ピストルズとか、クラッシュとかからの影響、ありますからね。
加藤:さかのぼって聴いたクチですね。そうやって聴いていると誰かがいろいろと教えてくれる感じで。
杉本:友だちが?
加藤:そうですね。
杉本:思春期の問題行動とかを先生は研究されていますけど、もしかしたら先生自身も問題児だったとか?(笑)。
加藤:いやいや。僕はね、何と言うんですかね。
杉本:あるいは親和性があったというか?シンパシーを感じたとか。
加藤:あの~。あるとき、同級生がみんな非行少年になっちゃったんですよ。一緒に遊んでいたグループなんですけど。これはどこかの本にも書いたのですが、僕は校内暴力世代の最後だったんです。
杉本:ああ、まだ残っていたのですか。
加藤:言葉が悪いですけど、暴力的な先生がいっぱい、抑えに入ってきたんですよね。
杉本:管理が始まる頃ですね。
加藤:そうです。丁度僕が入学した頃、ものすごく荒れていたので、僕が一年生で入ったときには上の学年はもういい、と。僕らの学年だけはもう荒れさせないと。コワモテの先生がバアッと配置されて。それで校舎も違っていて、授業のときは私たちの校舎に入れないように入口の鍵が閉められたんですよ。
杉本:校舎が違う?
加藤:はい。1年生と2年生、3年生とでは校舎が別でした。
杉本:へえ~。
加藤:それで。窓を割って2年生とか3年生が私たちの校舎に入ってきて消化器をぶちまけちゃう、みたいな。そんな時代です。
杉本:何でわざわざ1年生のクラスに入ってくるんですか(笑)。
加藤:そこら辺のことはよく分からないですが、それこそ上級生を抑えるために警察が学校に来たりして。
杉本:へえ~。
加藤:そういう時代だったんです。生徒の人数もすごく多い時代で、クラスも12クラスとか。そういう時代でした。
杉本:どちらのご出身ですか?
加藤:そのときはね。香川にいました。四国の高松という所なんですけど。
杉本:四国でそんな大クラスの学校があったんですね。
加藤:そうです。そんな中のある日、一緒に遊んでた仲間のひとりが、先生からボコボコに殴られ、その仕返しに行くぞ、となって。先生をリンチにかけちゃったんですよ。
杉本:あ。本当にやっちゃったんですか?
加藤:そう。それでその時のことを僕は知らなくて。翌日、僕が学校に行ったら。
杉本:その時、加藤先生はたまたま休んでいた?
加藤:たまたま休んでいたか、一緒に遊んでなかったときだと思います。その記憶も曖昧なんですけど。
杉本:なるほど。
加藤:ところが、その先生をリンチにかけた子たちとは、一緒に学校とか行ってたので、一緒に学校に行こうとしたら、その日から急に髪の毛を染めてたりして、「俺とお前は違うんだよ」とか言われて(笑)。で、要するに自分は取り残されちゃったタイプなんですよね。
杉本:ああ~。じゃあ先生はその時唐突に独りぼっちになっちゃったような感覚ですか。
加藤:そうですね。誰と遊んでいいのかよく分かんなくなっちゃって。中2のときです。
杉本:あ、中2ね。時期的に一番ですよね。
加藤:でも、そのときは非行少年って格好いいなと思っちゃったんですよ。
杉本:そうなんですよ。そういう時代でしたね。
加藤:その後、彼らはどんどん非行の道に突っ走っていくことになります。で、私は大学に入って「何で彼らは先生に仕返しするだけでなく、非行少年になっていったんだろう?」という疑問がありました。要するに、「自分と彼らを分けたさかい目って何だろう?」と。その好奇心から大学入って非行に関する研究とか読むとですね。非行少年が何かすごく可哀相な人、適応に失敗した人みたいに書かれていて、「それはないだろう」と。確かに先生からは・・・・。
杉本:うん。嫌われてるけど。
加藤:嫌われてるけど、他の生徒からは支持されてるだろう、と。それを最初の研究では、証明したいと思って、調査をはじめました。
杉本:ああそうですか。
加藤:それで荒れてる学校などの研究を始めたんですね。そうしたらそれはそれなりに証明されました。つまり、荒れてる学校と落ち着いている学校を比較すると、どちらにも問題児、いわゆる不良少年はいます。しかし不良少年に違いはない。違いがあるのは問題行動を起さない生徒のほうでした。具体的に言うと、荒れている学校の問題行動を起さない子は、先生との関係が悪くて学校が楽しくないと思っている度合いが強いのです。さらに彼らは非行少年と仲良くなろうとは思ってはいないんですけれども、でもそれに憧れをもっているみたいな違いがありました。
杉本:自分はできないけれども、そういうことをやっている子には観客として拍手を送っているみたいな?
加藤:そうそう。そうです。でまあ、要するに学校が荒れちゃうかどうかというのは、実は問題児にかかっているのではなく、問題を起さない生徒にかかっているんだというのが私の研究の入り口だったんです。で、それをやった時に、学校が荒れた原因になっているのは問題を起さない子の「不埒な意識」なんですよね(笑)。
杉本:ふふふふふ。
加藤:で、その不埒な意識を持った生徒とは、「中学時代の自分のことだったんだ」って認識しました。だからその論文を書いたときに何か自分探しがようやく終ったような気がしました(笑)。
杉本:研究を始めたときにはそこまでの意識はなくって?
加藤:はい。なかったです。ただ彼らは、子ども同士からみれば、格好いい存在だと証明したかっただけでした。
杉本:それで終ってみたら、「どちらにもつかないオーディエンスの生徒たち」の意識の中に、それをやっちゃう、突っ走っちゃう子に対するシンパシーがあったんだということに気がついて。そして自分自身もそうだったという。それが分かったと。
加藤:そうです、そうです。キーになるのはあの時、「授業つまんねえな」と思って、「今日も誰かが暴れてくれればいいのに」と思った、この私のいけない感覚が(笑)、学校が荒れるか荒れないかという所を左右する原因だったんだなということに気づいちゃったみたいなのが最初の研究の出発点だったんです。
ポストモダンを通じて学問が面白くなる
杉本:あの、調子に乗って聞いちゃいますけど、その時先生は学校でね。勉強なんですけど。やっぱり出来たんでしょう?
加藤:中学校のときですか?
杉本:そうだと思うんですけどね。
加藤:うん。すごく出来たわけではないですね。いまでもすごく言われて傷ついたというか、ショックだったので覚えていることは、中学3年生の受験のときに。要するにトップ校のところと2番手校のところがあるんですけど。どっちを受験するか?といわれたとき、先生に逆に「どうしたらいいですかね?」と質問したら、「上の高校受けるなら、もっと頑張らなきゃいけない」と言われて。「じゃあ2番目の高校だったらどうなんですか?」と聞いたら、「2番目の高校だったらいまのままでも受かる」と言われて。「じゃあ2番目にします」と言ったら、「何て諦めの早いやつだ」と言われて(笑)。
杉本:ははは(笑)
加藤:(笑)普通は「頑張る」と言うはずのところを何て諦めの早い子なんだと言われて。で、親も姉は一番手の学校に行っていたので、私がもう、すぐそこで2番手に行きますと言ったので。まあちょっと親もがっかりしたかもしれません。
杉本:そういう事情も。そうすると2番手校に入ったことは加藤先生にとってどうでしたかね?
加藤:高校はそれこそ私は2番手校に無理せず入ったので、本来私は成績は上位に行かなければいけませんでしたが、実際には下位でした。
杉本:(笑)そうなんですか。
加藤:そこで思ったのは「もう浪人しよう」と。「どっかで1年頑張っていればいい」と。で、最初やったことのない部活に入ろうとサッカー部に入ったんですけど、まあちょっといろいろあってそこは辞めまして。あの、ギターとかに目覚めちゃったので。バンドとかに一生懸命熱を上げてました。
杉本:うんうん。ありそうな話ですよね。
加藤:でも才能の限界をすごく感じて。すごく上手な奴がいるので。あとから始めても。ああ、いくら頑張ってもどうにもならない世界というのがあるんだなぁというのを、ある意味あれですごく分かった気がします。研究なんかよりもよっぽど楽器を弾くというのは努力ではカバーできないすごい何ものかがあるんだなと。いまはすごく感じますね。
杉本:いやでも、すごいですよ。そんな話を聞いただけでも私はもう尊敬します。おそらく加藤先生、今も青春が続いている感じがするんですけど(笑)。
加藤:いや~。でもあまり学校とはいい思い出がないので。ですから、研究はやっぱり最初の頃は何かこう、「鼻をあかしてやろう」みたいな。
杉本:ああ~。なるほど。
加藤:不純な動機で研究してました。いまはそんなことはあまり思わなくなりましたけどね。
杉本:「鼻をあかしたい」という感じ、僕も非常に分かる感じがするんですけど。やっぱり学問的な方向に行ったというのは面白いというか。なかなか普通そういう選択肢はないですよね。
加藤:うん、確かに。私が卒業した大学のコースは、当時歴史も浅く、そんなに研究者を輩出してはいなかったので。
杉本:どちらの大学ですか?
加藤:中央大学という所なんですけど。いわゆる北海道大学みたいに、先輩が沢山いてその中に大学の教員になっている人が一杯いるような大学ではない。私の学んでいた専攻は歴史も浅かったので。
杉本:中央大学ってそうでしたっけ?
加藤:文学部で、心理学専攻はその中でもまた新しいところなので。
杉本:なるほど。中央大学といえば、法学部ですもんね。有名なのは。
加藤:そうです。で、先輩がいない。大学院が出来たのも新しかったもので、もう1期生みたいな人がまだ大学院の先輩でいて、就職できるのかどうかも良く分からない。だから大学院に行くというのはかなりギャンブルでした。でも行ってみたら面白かったです。僕は大学院が小学校からの学校生活の中で一番面白かったですね。孤独だったですけど、勉強するのが初めて「面白い」と思ったのが大学院に行ったとき。大学4年くらいから少しずつ思い始めたんですけど。大学院は面白かったです。
杉本:大学4年目の大学院に入る頃からおそらく自由に学び始めたと思うんですけど。面白いなと思いはじめたのは最初のほうに話がありましたけど、思春期時の傍観者と行動を起す子との関係とかに気がついてからですか?
加藤:いや。それが違うんですね。実は心理学が嫌いだったんですよ。そこはまた天邪鬼なんですけど。大学3年の終わりか4年目くらいに僕らの時代は「ポストモダン」というのが流行っていて。
杉本:ああ~。はいはい。
加藤:その最後。またもや最後の流れに乗っていくんですけど。
杉本:僕はですね。大学入ったのは遅いんです。僕、20歳くらいのときなので。82~3年ですかね?その頃に浅田彰の本とか並んでました。全く手をつけませんでしたけどね。
加藤:ああそうですか。
杉本:(笑)はい。もう1ページも。「あるなぁ」という。流行ってる、という噂だけが聞こえて。
加藤:私はちょうど大学に入った頃、私の大学に浅田彰と並ぶもうひとり、中沢新一さんが教員として着任されたんです。で、僕は「中沢新一」という名前はまったく知らなかったんですけど、予備校に通っているときにちょっと早熟な人たちがいて、その人たちから中央大学に行くんだったら中沢新一という人がいるから、その人の授業を受けたほうがいいぞと言われて。で、授業受けてみたら、やっぱり本当に面白くて。で、何が分かったかといわれると困っちゃうんですけど、でも何かこういう風に考えることができるのが大学なんだという感じがあったり・・・・。それからやっぱりその時にはよく理解できなかったんですけど、それこそ浅田彰さんの『構造と力』を読んでいるのが格好いいという雰囲気がありました。
杉本:ありました、ありました。
加藤:で、無理をして読むんですけど。やっぱり分かんないのでそれは自分の勉強が足りないからだと思って、古本屋に行って有名な名前が出てる人の本をけっこう買ってきて、一生懸命読んでいたら、時々分かる時があったりすることが出始めて。それで難しい本を読むことの面白さにはまったんですね。
杉本:そうすると、ポストモダン系の本から入ったんですね?
加藤:そうです。社会学がもう圧倒的な力を誇っていて、当時はちょうど宮台真司さんがメディアにたくさん出始めた頃で。
杉本:ああ、そうなんですか。
加藤:はい。宮台真司さんもよくウチの大学に講演に来ていました。隣の大学だったので。
杉本:あの人は...。都立大学(現:首都大学)でしたっけ。
加藤:都立大学です。私たちから見るとすぐ近くの大学なので。たぶん学生が呼んでたと思うんですけど、年に数回講演に来ていて、その講演を聞いたら、ショックで。
杉本:あの人は出始め、トリックスターみたいな人だったですもんね。
加藤:そういうのもあって。あとは『完全自殺マニュアル』という本が出て・・・・。
杉本:ははは(笑)。鶴見済(わたる)さんですか?
加藤:はい。その人も講演に来たんですよ。岡田斗司夫さんと一緒に対談して。何かそういうものから徐々に入っていった感じですね。そうすると心理学って一番未熟な学問の感じがして。
杉本:ああ、そちらの系統の学問から見ると。
加藤:はい。で、その心理学に対してまたそうなんですけど、結局「鼻をあかしてやりたい」というので。
杉本:ああ~。
加藤:で、結局社会学の理論を使いながら心理学をやるというダメなパターンです(笑)。村澤(和多里)さんなんかも、たぶんポストモダンから入ってると思うんですけど。
杉本:そうなんですよね。
加藤:やっぱり心理学から距離を置くという。
杉本:サブカル大好きですから。あのかたは。
加藤:うん。たぶん似てると思います。
杉本:(笑)へえ~。
※ラフィン・ノーズー日本のパンク・ロックバンド。日本でハードコア・パンクシーンが形成される以前から、その中心的バンドとして活動していた。メジャーデビュー前である1980年代前半から、THE WILLARD、有頂天と並び、「インディーズ御三家」といわれる程の人気を博した