「思春期」というものの役割

 

杉本:いや、本当にそう思います。で、発達心理学的にも思春期から青年期にかけては利害関係ではない繋がり方を重視すると思うんですよ。さきほどの先生のお話にあったような、自分の好きな本とか何かに出会ったりすることで共通の仲間ができる。そこには利害、まあそこに内容の把握度の違いとか、ある種の競争意識も芽生えるとは思うんです。でもそれって何か平等なライバル関係とか、あるいは師弟関係とか。先輩後輩関係のようなもので、やっぱり利害ではなくて、お互いに高まりあおうぜ、みたいな。そういうようなものじゃないのかなと思っていて。そういうものを良しとする思春期青年期の思想がありながら、なぜ社会適応の話になっちゃうと途端にそれが胡散霧消しちゃうのか?ということなんですよね。いろいろ伺う中で、そういうことはおそらく加藤先生自身も体験してきた。改めてその時代のものを取り戻したほうがいいんじゃないかと思うんですけどね。

 

 

 

加藤:ちょっと大きな話をしていいですか?

 

 

 

杉本:ええ。どうぞ。

 

 

 

加藤:そう考えたときに思春期とかにヒントがあるんじゃないかというのは自分もすごく直感的に思うところなんですけれども。最近はちょっと具体的なところから離れて、「思春期って一体何なんだろうか?」と考えることが多くなってきてるんです。すると心理学でない所に目を向けてみると、思春期ってどうも人間に特有らしいことが分かってきています。例えばチンパンジーみたいに私たちとすごく近い存在でも、思春期・青年期はないのではないかと言われています。チンパンジーの場合、子ども期から一気に成人期に飛んで、子ども期が終わるとすぐに生殖活動が始まっちゃう。要するにモラトリアム期間がないわけです。かつ、思春期は精神障害とか、いろいろなものがこじれてしまう時期じゃないですか?ですからリスクが高い時期なわけですよね。にもかかわらず何で人類にそこの部分が発達して、しかも長くなってきたのか。

 

 

 

杉本:そうですよね。

 

 

 

加藤:そういう疑問に対して進化生物学者なんかはわりとシンプルな答えを言っています。そういう時期が人類にないとイノベーションが起きないんだ、と。つまり、人類が発展していくために、思春期という時期が有利に働くということです。

 

 と同時に思春期というのは抑圧される時期でもある。これは私の造語なんですけど、思春期・青年期というのは「出来るのにさせない時期」です。

 

 

 

杉本:ああ、わかります。

 

 

 

加藤たとえば性行為が出来るのにさせない。働けるのに高校はなぜかバイト禁止。でもキャリア教育はやっている、という矛盾した世界が成り立つわけですね。そうすると制限をかけられた中で現実的には、あるいは物理的には満たされないけれど、それをいかに思想的に満たしていくか、妄想でフォローしていくかが重要になってくるかもしれません。だから妄想がすごく発達しやすい時期なんだけども、それがひとつの発見につながる場合もあるんじゃないかと思います。社会がこんなじゃなかったらこんなことも出来るんじゃないか、みたいなね。転覆の思想、革命の思想じゃないですけど、そういうのが育ちやすい時期なのではないでしょうか。

 

 

 

杉本:学者を作りやすい時期ですね。

 

 

 

加藤:そうです。で、その時にそれがなぜ必要だったかというと、前の社会を踏襲していくというのは安定した環境の中では良いんだけれども、気候変動とかが激しく起きてしまったりとか、敵が攻め込んできたときには、イノベーションがないと生き残れない。だから思春期というのは実は人間を人間たらしめていて、文明を発展させる上では非常に重大な時期だったんじゃないかというのが進化生物学者たちなどが唱えてる話です。それには私も共感するところがあります。だから思春期には破壊的にもなるし、一回既存の価値観を否定したくなる。そう考えてみたとき思春期というのはやっぱり何というのか、社会を変えていくという意味では。

 

 

 

杉本:そうですね。変化のための。

 

 

 

加藤:そういう意味では「適応」ではないんですね。「変革」みたいな側面を持っている。なので、例えばひきこもりの問題なんかは齋藤環さんは「終らない思春期」なんてサブタイトルをつけていてそれはいいネーミングだな、と。それはなぜかというと、その問題を考えるときにこれは理想ですけど、この人たちをどうするかということではなくて。そういう面ももちろんあるかもしれないけれども、同時にこの人たちがこういう形で出てきた以上、社会の側は「どう変わる準備があるんだ?」ということ。それが問われている。それに対していまの社会を維持するための制度を足して行ってるだけみたいな感じだと思います。その時どれだけ本当は、これは僕らがよく言うように、「人文的な知」だと思うんですけれども、それこそ僕ら、「思春期的な想像力」を膨らませて、まあ大変だけどそこそこ生きているのも悪くない、みたいな社会はどこでどう出来るか?といったとき、それはいまの社会にあわせるという方向だけではなくて、もうちょっと別の可能性みたいなものを考える必要もあるのではないかと思います。

 

 

 

杉本:そうですよねえ。

 

 

 

加藤:そういう想像力をたぶん思春期みたいな子たちのほうがよっぽど創造できるんじゃないかと思うんですよね。

 

 

 

杉本:僕はね。勝手に頭の中で、「静かなプロテスト」って思ってるんですよ(笑)。静かなる反抗といいますかね。結局60年代とか熱い反抗の時期とかっていうのは、僕は子どものとき見ててやっぱり仰るとおり、世の中というのが必ず次世代によってある種の変化。だからこれも近代的思想に毒されてるのかな~と最近思ったりもするんですけど、次世代がこう、変化を加えていかないと。つまり人間って進化をして、人類が生き残っていくために何らかの変革進化みたいなものが必要じゃないか。それはやっぱり旧世代には気力的にも体力的にも無理だと。新しい世代が新しい目で何かこう、足りないところを訴える。それを旧世代が受け止めて変化をしていく。まあ単純に言って、政治的な言い方に変えれば、革新政党の思想ですね(笑)。あるいは考え方の革新みたいなことが必要だという。これも勝手な信念体系かもしれないけど(笑)。僕はそういう風に思うんです。

 

 ただひきこもりの人たちが基本的にこういう形で我々は変革を訴えてるのであるということは言わないから、やっぱりある種の力関係でいうと、「黙して語らぬ」身を動かさない人は外側から動かして動かして、世の中に入れさせて入れさせて。まあ親御さんなどは特にね。あると思うんだけど。あの、「困ったね」ということの対象者にされてしまっている。きっとでも、やっぱり大きな目で見ると「ちょっと違うんじゃないか」と思ったりするんですよね。

 

 

 

加藤:そうですね。どうしても僕はその中の低い年齢の人のほうに行っちゃうんですけれども。やっぱり中学生・高校生とか、20歳前後くらいの人までになってしまうので、そこがやっぱりすごい何か世代によって違う課題というものは出てくるとは思う。でも、いま話せるギリギリのラインはたぶんあると思っていて。その「なる」ことと、「続くこと」とか、その抽象度の問題ですよね。具体化していけばいくほど、外れていく人たちがいるとか、ある所にフォーカスが縛られていくゆえに、新しいマイノリティを作ってしまうということがあるので、そこはすごく慎重にならなくてはいけないと思ってるんですけど。ただその適応に対する強迫的な衝動性というのは、当事者も支援者も持っているし。で、「じゃあどうするんだ?」というときに例えばですけど、体罰で伝わるものがあるみたいなことをいう先生とかいるわけですよね。例えば愛情があると。でも愛情を伝えるのには体罰しかないんですか?という風に僕は問いを立て直したい。適応については、適応は適応でいいでしょう。でも適応するためにその支援の仕方しかないんですか?適応ってそのひとつだけですか?と。で、いまより少しでも自由になれたりとか。主観的に楽になれる方向だって別に探ってもいいのではないか。それは社会一般的な意味での適応じゃないと言われるかもしれないけど、例えばそれは趣味の世界を広げるとか、結果的にみんな仕事をリタイアしたときにという基準で考えると、そういう人たちのほうが豊かな世界を持っている可能性だってあるわけですよね?だからそういう可能性だって一通りは検討すべきだと思います。

 

 例えばもう年齢がかなり高齢化した人に社会で働いて、というのはたぶんその人にとっての理想的なモデルにはなり得ないと思うんですよね。ですからその場合は、競争的な関係性の中でどう生き抜くかなんてスキルの話はその人にとっては逆に不適応な話になるかもしれない。やっぱりそういう幾つかの可能性についてもっと私たちは自由に発想してもいいのではないでしょうか。それは学者も、当事者のかたも出来ることだと思います。でも実際はすごく不自由なんですよね、こういうことを語るのが。「じゃあお前どうするんだよ」とか、「それでいいのかよ」とか、すぐに怒る人たちが出てくるので・・・・。

 

 

 

杉本:そうなんですよ。本当にその通りで。でも僕、やっぱり思うんですけど、40過ぎてしまった世界。僕も55歳ですしね。会合とかで話している年代では一番歳が行ってるほうなんですけど、やっぱりある種の諦めの境地みたいな(苦笑)。あるいは仰られたように、現実問題競争社会に入っていくのは無理だよねという所から出てくる思考があるわけです。だから20代の人にね。僕の考えている、「いや~、諦めでー」とか、全然ピンと来ないでしょう?(笑)。僕の年代から、「いや、諦めの境地です」と言われたって、年寄りにそんな枯れた話された所でね(笑)。20代の進化の過程でこれから伸びて行きたいのに伸びていけない自分を、「何でだ?」って苦しんでいる人に対して、「いや、枯れた人間としてひとこと」って言った所で(笑)。何かしょっぱい話を、っていう風に思われるだけかな、というものもあるんですけれど。

 

 

 

 

 

狭めていくような考えを超えて

 

加藤:はい。私は「何がいい」とか、正解を見つけるんじゃなくて、やっぱり選択肢が増えるというか、「ああ、そういう生き方もあるのか」とかを知ることも大切なのじゃないかと思っています。べつにこうしなさいと言ってるつもりはないのに、こうしなさいととられちゃうことが多いんですけども、例えばとれる道筋は幾つかあって、たとえこう行ったとしてもこっちが開けてる、みたいな。行くと狭まってしまうルート、行けば行くほどルート狭まるよ、みたいな。脅し文句ってすごいあるじゃないですか。

 

 

 

杉本:ありますよねえ。

 

 

 

加藤:それよりも、その意味で多様性を強調すべきたと思うんですけど、いろんなパターンがあるのだから。で、その時に自分が知らなければ不安になっちゃうかもしれないですけど、もし知っていれば希望とまでは言わないけれども、「ああ、でも悪くないかな」とか、「よりましだな」とかいう、そういう思考が開けると良いかな。これは私、それ以上具体的なことはいえないんですけれども。何かみんなで狭めていくような。それこそ「北風」の作戦ですよね。

 

 

 

杉本:そうですね。

 

 

 

加藤:学校などで不登校支援を見てると、よく言われたのは別室登校しているお子さんとかいるじゃないですか?不登校との中間状態みたいな形で。で、別室登校している人に、あるタイプの先生たちがよく言うのは、その居場所(別室)が居心地良くなりすぎちゃうから、何かルールを決めて一日何時間しか使えないようにして、半ば強制的に教室に戻したほうがいいんじゃないか、というような議論なわけです。それでたまたま上手く行ったケースもありますけれど、でも理想としては、別室で学んで物足りなくなって教室に行きたくなる、物足りなくなったものを教室が満たしてくれる、学級がそのような空間であるということが教育なんじゃないかと思うのです。「教室では受けるに値するような授業をしてるんですか?」ということが本当は問われているはずなんですよ。

 

 

 

杉本:(笑)。

 

 

 

加藤:そこを問わない授業なんてみんな嫌いなものなんです。授業がそれほど面白くないのに、それに出ろというのはそんな虫のいい話はないわけです。つまりお互いが伸びなきゃならない。だから「不登校のこの子だけ変わるべき」というのは何か変ですし、妙な話です。でも、心ある先生はそこ(何はさておき良い授業をしなければということ)を理解してると思います。

 

 

 

杉本:そうなんだと思うんですよね。実はけっこう忙しさにかまけて忘れていく話で、やっぱり教職目指す人はそういう気持ちはあるんじゃないでしょうか。

 

 

 

加藤:そうです。元々はもっています。誰よりもいい授業をしたい、という思いを。

 

 

 

杉本:ええ。

 

 

 

加藤:そこに点火してくれるような人が傍にいればいいんですけど、今みたいにちょっと忙しくなってきて、ちょっと話を聞くとこっちの仕事が増えちゃう、というか。物凄くそこもまた競争関係になっちゃうと、助けることが自分を犠牲にする、みたいな話しになっちゃうわけで。何だかみんなが過酷なんですけども。でもひとりくらいはそういう思想を持った人がいると意味が全然違ってくると思います。そう考えると、いかに別室登校のカリキュラムを充実させるか。どうすればここじゃ物足りないと思わせられるものを作れるかというのが、方向性としては新しい勝負になるはずです。にもかかわらずそこにいたくなくさせるにはどうするかということばかり考えている。別室登校の生徒に対してきちんとしたカリキュラム組まれているということも多くないですから。来たら来たときに、その場その場でこれやりなさい、みたいな状態になってしまっている場合も多いと思います。

 

 

 

教師の仕事は「授業」という本道

 

杉本:そうか。別室登校で来る子というのは、集団の授業は受けなくても、学びたい要望はあるんですね?

 

 

 

加藤:仮に生徒に学びたさが欠けていたとしても、そこを作るのが授業の醍醐味だと思います。ときどき話を聞いていて本末転倒だなと思うのは、先生がまず生徒との関係性を築いて、そのあとにはじめて授業が成立するというような話です。もちろん現実的にはよく分かる話なのですが、それよりも本来は、一回目の授業はモチベーションがなくてもいい。その代わり1回聞いたらまた聞きたいと思う面白い授業を組むことのほうが理想かと思います。つまり関係性を築いて授業をではなく、授業を通して関係性を作るという方向性です。そうしないと前者のやり方では、言葉は悪いですが、つまんない授業に導入するためのテクニックみたいなもので鍛えることになりかねないと思うのです。

 

 やはりどんな状況でも面白い授業ってあると思います。たとえば荒れてる学校なんかを見ていてとても不思議に思うのは、例えば5クラスあったときに4クラスは荒れてるのに、1つだけは授業が成立しているクラスとかあるんですよ。で、「何なんだ、このクラスは?」といつも思うんですけど。ひとつだけ言えるのは、もう何はさておき授業が面白いんです。先生の授業が。で、じゃあ具体的にどう面白いかというのもあるんだけれども、例えば廊下に座っているヤンキーとかにその先生が来たらその子たち教室に入るんだけれども、何を言っているかというと、「お前のために授業を作ってきたから、ちょっと聞いていけ」とか。で、授業に出させてあてたりとかするんですけど、授業終ったあとに「どうだった?」とか聞くと、「クソつまんなかった」とか言うわけです、そのヤンキーが。そしたらその先生、本当に悔しがったりとかして、「じゃあ次までにお前を面白いと言わせるために一生懸命準備してくるから,絶対に次も来いよ」みたいな。そういう繋ぎ方をする。で、実際授業も面白いんですよね。やっぱりそういう先生がいて、やはりそういうクラスは授業が成立するんですよね。それで何を言いたいかというと、学校が荒れると先生と生徒の人間関係作りがどうのこうのみたいな。何か教師から見ると本道からはずれたようなところにエネルギーを割かせる。

 

 

 

杉本:でもわかりますよ。人間ですからね。

 

 

 

加藤:でも、それで授業のために使う時間が減っちゃってしまって。授業がつまんなくなるとそれこそ私みたいなタイプの、そこに関係のない生徒がますます授業に不満を持って、さらに荒れていくみたいなメカニズムが働きます。だから、もう1回授業に戻ってもらえるような。そういう教師の本道に戻るみたいなやり方もあるんじゃないかなと思っています。

 

 

 

杉本:とりあえず授業は面白くすることは出来ると。

 

 

 

加藤:はい。そして成功している先生もいらっしゃいますね。

 

 

 

杉本:だけど大変そうですね。

 

 

 

加藤:そうですね。たぶん先生にとって酷なこともあるとは思います。

 

 

 

杉本:ええ。あの~、北大の※サステナビリティウィーク。この時期にやりますよね?それに前、関西の高校の先生がこられて、やっぱり荒れたクラスの担任されていた。いまは違う学校ですと仰ってましたけど。長くそこで教師をされていて、そのクラスの映像とかも出たりしてて、やっぱりかなり関わり方の密度が濃いんですよね。同じ次元まで降りながら。けっこう家の事情も大変そうな子もいたりとか。まあ先生にもタメ口聞いたりね。でもそれ、やっぱり「何だ?」みたいにならず、お互いにやれている。なかなかそれは先生も熱血漢ですごいなあと思って。また観察眼とかも鋭くて。いや、すごいなと思ったんですけど。ただこれをどの先生にも求めるのは(笑)標準としては無理だよなあと思いましてですね。

 

 

 

加藤:そう、そうです。それはその方の人格にも関わるので。

 

 

 

杉本:そうですよね。みんな「金八先生になれ」というのはちょっと無理だろうなと思うので。そこらへんをね。

 

 

 

加藤:そういうときにもちろん全ての先生に授業上手くやれというのは難しいというのは、それはそれで問題だと思うんですけど(笑)。

 

 

 

杉本:あ、ごめんなさい。で、うまい授業というのは何か?というのは結構そのクラスクラスの状況によってまた違ってくると思うんですけどね。

 

 

 

加藤:違うんですよね。何なんですかね、それは私もすごい疑問に思って。だけどひとつ言えるかなと思うのは、そういう先生は授業のことを考えていらっしゃいますよね。ほかの先生は「授業どころじゃない」という感じで。言葉悪いですけど、それを言い訳にしながら生徒指導に明け暮れる、みたいな。

 

 

 

杉本:そうですね。でもけっこう善意でやっているのかなあ?という気持ちもするんですよね。やっぱりその、集団じゃないですか?1対集団だから、その中の集団が崩壊しないために、笑いをとったり、いろいろしたりということで、本当に授業に集中してもらえるような関わり方って相当な、何だろう?そこも研究の領域なのかもしれませんけど。おおむねそれなりに落ち着けない生徒も含めて面白いと思えるような授業ってきっとあるんだろうとは思うんですけど。現状でなかなかそれを、「これだな」というのは。実際どうなんでしょうねえ?

 

 

 

加藤:それに関してはまずひとつ言うと、わかんない授業って、かなりの「怒り」なんですよ。それは大学でもすごく分かっていて、授業がつまんないけど飲み会をいっぱいやる先生が人気が出るのかというと、そんなことはなくて。やっぱり「授業の力」ってけっこう重要。これがひとつです。で、たぶんさっきの支援者とひきこもりの当事者のかたの無限ループみたいな所とも似た面があって、つまり関わりを厚くするということはうまく行けばアタッチメントとかが育って良いことかもしれないですけど、嫌な奴と長くいればいるほど、崩れていく場合もありますよね?言うことを聞きたくないなと思っている人に、そういう教師がたとえ関わりを厚くしても、結局授業がわかんないのにベタベタしてくる、そして結果的に関係性が崩れるというのは、結構あることだと思います。そして、先生の人となりは変えることはできないけれども、授業は変えることができると思うんです。で、そのノウハウを持っているのが教師という仕事で、私は職業としてその部分は信頼したい。で、授業のことはプロ集団が処理すべき。心理学者とかが入ってとやかく言う話ではなくて、先生がたには授業に集中していただきたいと。その上で、授業がうまくいけば、荒れも必ず解消するとは言えないかもしれませんが、授業がうまくない先生よりも授業がうまい先生の関わりのほうが、生徒とのアタッチメントを育てていくという意味では有利に働くだろうな、とは思います。

 

 

 

杉本:そうか。う~む。

 

 

 

加藤:で、その時にやっぱり授業が根本的に崩壊しちゃっている人がお前のこと愛してるぞ、とか言って関わったとしても、なかなか難しいんじゃないのかなと正直思います。

 

 

 

杉本:まあ、ぼく「金八先生」って見たことないんですけど、語られる感覚でいうと、金八先生の話というのは授業そのものよりも、そのアタッチメントのほう、一生懸命にやってる熱血な先生というイメージですけど。実は学びの時代は学びそのものが面白くなることのほうが重要性が高いということなんですね。

 

 

※サステナビリティ・ウィークーサステナビリティ・ウィークとは、「持続可能な社会」の実現に寄与する研究と教育を推進させるために北海道大学が主催する事業です。約2週間を「サステナビリティ・ウィーク」と定め、人類が抱える諸課題をテーマにしたシンポジウムや講演会、ワークショップや展示を集中的に開催し、世界の研究者、学生、市民と共に、より良い未来のために議論を行います。2007年に産声を上げ、毎年全学を挙げて開催しています。とりわけ研究型・総合大学としての特徴を活かし、議題はあらゆる学問分野に及び、持続可能な社会を議論するのに必要な課題をほぼ網羅しています。(北海道大学ホームページより)

 

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