学校のやることは次のステージにフックをかけること

 

加藤:そういうことです。「教科書をどれだけ超えられるか」とか、まあ言葉が抽象的で申し訳ないですけど(笑)。「知的に跳ばせるか」に懸かっていると思います。特に思春期は。

 

 

 

杉本:先生が言う「跳ばす」といのはどういう感じですか?

 

 

 

加藤:そこにひっかかるということですね。例えばいい例か分かりませんけれども、「自慰」も勉強に繋がるんだと。例えば『童貞としての宮沢賢治』という本もあるんだよ、とか。それから思春期文学と言われる例えば私たちの時代だと大槻ケンジが※『グミ・チョコレート・パイン』という本を書いてますけども。ほかにもみうらじゅんの※『色即ぜねれいしょん』とか。全く本を読まない人でもそういうちょっとエロい要素とかが入っていれば読んでみようとか。他にももうちょっとレベルをあげると村上龍の『69』とか。思春期の話ですけれども、あの中にはチェ・ゲバラの話が出てくるので、チェ・ゲバラって何だ?ということに繋がる。学校がやることは何かというのはあるところまで生徒を連れてってやるというよりも、その次のステージにフックをかけられるような知識を共有させることではないかと思います。それが最初の「分かった」という感覚だと思うのです。全部分からせることはできないので、最初の分かったという、家では教えてもらえないような何かを「真面目に考える」みたいなこと。バカなことを真面目に考えられるようになるのが、たぶん思春期の発達だと思いますから(笑)。

 

 

 

杉本:あの~、陳腐な表現で申し訳ないですけど、知的好奇心みたいなものですか?

 

 

 

加藤:そうですね。

 

 

 

杉本:フックかけるのは。そうするとその年代が、生きて考えるひっかかりみたいな。何か引っかかるんだけどわかんねえな、みたいな。モヤモヤみたいなものに。いや、実は考えている人が既にいるよ、みたいな教え方?

 

 

 

加藤:そうそう。そうですね。で、「そういうことやって何の役に立つんだ?」と言いたくなる人はあまり先生には向いていないのではないかと。

 

 

 

杉本:ふふふ(笑)。

 

 

 

加藤:役に立たないことを考えるということが人間の特権なので(笑)。その「考える」というところを何というのか、学校の成果だと思っていただきたいです。

 

 

 

杉本:ただ役に立ちますよね。生きていくことに関しては。だって、優秀な頭脳で勉強して一流の大学に入って本当に生活の何か根本部分の所で崩れちゃってしまって、途端に地位から転落するみたいなこともあるわけで。そういう、人間って意外と素朴な部分で失敗しちゃうことってあると思うから。そこに気づかないままで大人になっちゃう人のほうがちょっと危ういというか。そういう人に上司になられても困るでしょうしね。自分が言うのはちょっと天に唾すると思いますけど(笑)、精神的に幼稚な人が会社の上司にいられても困るでしょうしね。

 

 

 

加藤:そうですね。「こけないように」ではなくて、「こけたとき」にも、別の道がひかれてる、みたいな・・・・。

 

 

 

杉本:ほぅ。

 

 

 

加藤:それは詩であってもいいし、文学であってもいいし。サイエンスであってもいいと思います。

 

 

 

杉本:青春時代に「こけて」も。

 

 

 

加藤:そうです。だからひっかかりがないと、無理して大人が用意したところに寄らないと逃げ道がなくなっちゃって。

 

 

 

杉本:むしろ本当に不登校、ひきこもりになっちゃう、みたいな?

 

 

 

加藤:せっかく逃げた場所で確保したものに対して否定的に関わられちゃったりすれば、何といったらいいですかね?せっかく「伸び」が出来ている知的なものを、それ自体を否定してしまいますよね。

 

 

 

杉本:う~ん。

 

 

 

加藤:だから何だろうな?とは思います。

 

 

 

杉本:こうやって例えばインタビューをさせてもらっても。僕、『家裁の人』というマンガが好きで(笑)。

 

 

 

加藤:ああ~。はい。

 

 

 

杉本:であるんですけど、ただ加藤先生がご存知かどうかはわからない。

 

 

 

加藤:読んでます。ある程度。

 

 

 

杉本:でも、想像しただけでは、分からないじゃないですか?

 

 

 

加藤:はい。

 

 

 

ユースカルチャーのプラットフォームは?

 

杉本:だから大事なことって、「この人は『家栽の人』のマンガ知ってるか知らないか」ということを考えつつも、この「家栽の人」のテーマとか、問題性みたいなものに寄った話が出来るかどうかだというのは僕、聞く側としてはけっこうポイントなんだと思うんですよ(笑)。で、そこに繋がって、いや~、実は「家栽の人」というマンガがありまして、と言ったとき、「あ、知ってます」と言ってくれたなら、「あ、やっぱり」、見たいな形になっていける。このような対話での話題の持って行きかたということがけっこう聞き手としては大事なポイントだなぁという風にずっと話を聞いてて思いましてね。そのための引き出し。これを巡ってどういう話題が可能だろうか。

 

「家栽の人」というマンガはけっこうある意味で抽象度が高いというか、文学的な読み込みをけっこう求められるマンガなので、僕はそこも含めて自分の中では存在感が大きいんです。沈黙する状況とか、情景とか、そういうものが「語る何か」というのはほとんど論理じゃない部分の所で、そこになぜ引っかかるのか、ということがあったりして。なぜこういう展開になるのだろうか?その不思議さとか、さまざまあるんですけど。結局そう直感的には思うわけだけど、じゃあ「家栽の人」の魅力を話してくださいよといわれたときに、これきっと話せないです、僕は。

 

 

 

加藤:うんうんうん。

 

 

 

杉本:だからそれはその周辺に、いや河合隼雄さんという心理学者がいましてとか、仏教の哲学がありまして、とか。おそらくそこに広げていかないと、『家栽の人』というマンガの面白さって伝えられないんだと思うんですよね。どんなに大学の先生とか学究のある人に関しても。という風なことをいま思いました(笑)。

 

 

 

加藤:うん、なるほど。僕もけっこうマンガにはまってました。大学のときに、ひとりぼっちの時にマンガに救ってもらった覚えがあるので。僕のときはね。松本大洋にけっこう救われて。

 

 

 

杉本:ああ、そうなんですね。

 

 

 

加藤:だから僕ら世代。マンガで救われた人たちは多いと思うんですけどね。いまの若い人たちはあまりマンガを読まないかもしれないですね。

 

 

 

杉本:僕らの世代もおそらくそうだと思うんですけど。でもやっぱりいまの時代も当然のごとく、みんなごくごく普通の若者であれば魅かれる大きな共通のものはあるんでしょうねえ?

 

 

 

加藤:何かマンガは読まないですし、映画も見てないようですね。

 

 

 

杉本:あ、そうですか。でもゲームとか。アニメとかは見てるんでしょう?

 

 

 

加藤:アニメは見てる人多いですね。でもやっぱり細分化してる感じはしますね。アニメ見る人は見る人で、という感じで。僕らのときはやっぱり少年ジャンプというどでかいプラットホームがあって。ある種そこからどれだけ距離を置くか、みたいな。そういう基準軸みたいなのはあったと思うんですけどね。何かジャンプのことも知りつつ、あれとは違うものを読みます、みたいなね。それでマガジンとか、キングみたいなのを読んだりするんだと思いますけど。

 

 

 

杉本:もっと脱線すると※「ガロ」に行っちゃう、みたいな。

 

 

 

加藤:そうですそうです。たぶん僕もそのクチだと思いますね。何だかんだでジャンプは買っていた、みたいな。

 

 

 

杉本:そうか。じゃあ「こち亀」が終って感慨無量でしょうね。

 

 

 

加藤:ところがこの前空港行った時に買おうかと思ったんですけど、結局買わなかったですね。やっぱり線が変わっちゃってるというか。

 

 

 

杉本:ああ。じゃあもう随分読まなくなった?

 

 

 

加藤:読んでないです、僕は。もう20年くらい読んでないと思いますね。

 

 

 

杉本:いやあ、こういう話は楽しいなあ。何で出来なっちゃうんでしょうね、大人になると。そうでもないのかな?僕、お酒飲まないので、みんな仕事終ったあとにどういう雑談してるとか分かんないんですよ。

 

 

 

加藤:まあ、僕もお酒飲めないので。飲める人はいいなあ、っていつも思っています。

 

 

 

メジャー、マイナーの意識

 

杉本:ええ。本当、そう思います。まだそこに青年期的なものが残ってるのかもしれないですしね。で、やっぱり思春期にしてもひきこもりの若者の話にしても、一緒に村澤さんの本のね。読書会とかもしてて。やっぱりそこで考えるのはいまの若い人は大変だなあ、圧迫感感じてるんだろうなあ、苦しいだろうなあとかいうことなんですけど。そう思いながらもこう、ふと風景全体を見てるとけっこうワイワイガヤガヤ若い人たちやってるから、「はてな?」と(笑)。これはマイナーな、マイノリティの話なのか。それともマジョリティもそうなのか?と。その点が私、ちょっとわかんないところなんです。みんなと合わせて生き生きやってるように見えるだけなのか、それともやっぱり生きものの自然な感覚としてみんな元気でやってて、時折、昔は当然いた集団に馴染めない人とか、本が好きだとか、そういう人たちが存在するのか。学生運動だってノレない人がいたわけじゃないですか。

 

 

 

加藤:うん。たぶんそっちのほうが多かったと思います。

 

 

 

杉本:ノンポリと呼ばれる人たちですよね。そういう人たちの苦しみとか、ということですね。で、そっちのマイノリティの話に結局俺はこだわっているのか、それともマジョリティにも通用する話なのか。ちょっと思うところなんですが、如何でしょうね。先生はどう思われますか。

 

 

 

加藤:ええ、私も何かマイノリティ・マジョリティにすごくこだわっていた時もありました。たぶん大学生の頃なんかそうだったと思うんですよ。で、なるべくマイノリティへ行こう、みたいな。でも、実はそれこそがマジョリティを意識してのマイノリティという意味でメジャー志向だったりするんですけど(笑)。

 

 

 

杉本:(笑)

 

 

 

加藤:自分って結局、メジャーを意識しながらやってる限りは全然逃れられないんだなと。

 

 

 

杉本:なるほど、投影みたいなものなのですかね?反対側へ行く、みたいな。

 

 

 

加藤:そうです。ですからひきこもりの話じゃないんですけど、最近すごく思うのは、要するに「マイナーかメジャーか」というのは、これはひとつの物差しだということです。チープな物言いのようで申し訳ないですけど、それ以外にももうひとつ物差しみたいなものが肯定されていいはずなのに。それこそ「役に立たない」という話とか、例えば授業なんかで話しをしていても、かならず「それだとうまく行かない。こういう人もいますよね」みたいな話が出る。だれも全員を救うなんて話をしていないのですが・・・・。新しい選択肢をひとつひとつ差し込んでいくしかないのだから、「ひとつ思いついたよ」みたいな話をしているのですが、「この人たちには使えないですから、それはダメではないか」と。それで批判したいんだと思うんですけど、それを若者にされるのは分からなくは無いんですけど、同業者にやられたりとか、全部の問題がきれいさっぱり片付くなんていう魔法はないってみんな知ってるはずなのに、その魔法でないからあなたのアイデアではダメだみたいな。そういう闘い方っていうのはむなしいな、というか(苦笑)。マイナー・メジャーで言うと、もうちょっと違う軸は無いのかな、と思いますね。

 

 

 

杉本:なるほど。

 

 

 

加藤:でもみんながメジャーなる所に一生懸命血道をあげて。それはそれで大切かもしれないですけど、でもちょっと疲れちゃいますよね。

 

 

 

杉本:それは確かにあるかもしれませんね。全部を救う理論なんてありえないですからね。全部というか、「全体」という意識から抜けられないというか。この前も川田先生の所でもちょっと言ったんですけどね。多様性とか言いつつ、単一化思考が何かここ最近強まっている印象があるんです、みたいな話をしたんですけど。何か言葉としては多様性、多様性って踊ってるんですけど、やっぱりいまの加藤先生の話を聞いても、考え方をひとつひとつ新しいものを加えていくしかないという話で言えば、それがやっぱり多様性の話だと思うんですけどね。

 

 

 

※『グミ・チョコレート・パイン』―大槻ケンヂの半自伝的小説。主人公ケンゾーは、グラビア雑誌片手に日々オナニーをしまくる孤高のオナニストで、クラスの生徒と差別化を図るためノイズバンドを結成する、というストーリー。

 

 

※『色即ぜねれいしょん』―みうらじゅん作の小説。ヤンキー体育会系の集まる学校で冴えない日々を送る、ボブ・ディランを愛する文化系の高校1年生の主人公がある日、二人の友人からフリーセックス主義の島に行かないかと誘われるというストーリー

 

 

※「ガロ」ー1964から2002頃まで青林堂が刊行していた漫画雑誌。大学生など比較的高い年齢層の読者に支持され、その独自の路線を貫き、漫画界の異才をあまた輩出した。初代社長兼編集長は、青林堂創業者の長井勝一(ながい かついち)。1998からは青林堂の系譜を引き継いだ青林工藝舎が事実上の後継誌『アックス』を隔月で刊行している。

 

 

 

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