弱者バッシングが持つファシズム傾向
杉本 いまの大枠の空気感というのは「大衆の」というと、自分でも驚いちゃいますけど(苦笑)。傾向としては昔はどちらかというと左寄り傾向としてあったと思うんですけど、今はもう圧倒的に右寄り。保守的な傾向が強いし、リベラル系の人たちが危惧するというか、危険視するのがベースじゃないですか。ぼくもそう思っているわけで。もういささか嫌になっちゃったな、本当にたまんないと思ってるんですけど。実はそこに陥ってしまっているのがポイントだという面もあるんでしょうね。
北川 うんうん。え?それはどういう?今のは僕は大事と思うポイントですね。
杉本 いや、今は多くの人はネットニュース見て、NHKの報道を見て、そのまま信じ込んでるみたいな状況じゃないですか。それをまあ意識高いと言われる、あえて僕もね。そういうほうだと言いますけど、「いや本当に困ったもんだ」「メディアがアベ政権にジャックされてるぞ」って思ってるわけだけど。でもそういったところで状況は変わらないということがあるわけですね。そういうことを思ったんです。同じようなことをこの人(ロッジェーロ)も考えていて、それを嘆いて人々を一歩見下していたんじゃダメだろう、と言いたいのかなと思ったんですけど。
北川 そうですね。世の中のそういうアベ政権的な価値観。一番感じるのは、直接にアベ政権的なものを支えているかわかりませんが、例えば電車のベビーカーに腹が立つとか。
杉本 ん?
北川 電車にベビーカーが乗ってきたらムカつくとか、あるんですよ。いま。
杉本 ええ?
北川 何か「場所とりやがって、チッ」みたいな。
杉本 ええ?そうなんですか?
北川 本当にそうなんですよ。
杉本 それはちょっと分からないな。
北川 あと不倫に対するバッシングとかメディアで特に女性に対して。もうだいぶ前ですけど、ベッキーとかそうじゃないですか。不倫した人に対する世の中のすごい人間以下扱いの価値観とか。
杉本 マジですか?
北川 本当にそういうひどい価値観。わかります? ドラッグでのバッシングもそうでしょう?
杉本 わかりますよ。わかりますけど……。
北川 ぼくはこのへんが一番ヤバいと思うんです。これがファシズムだと。政権がファシスト的だとかそういうことのもっとはるか手前で、これはいったい何なんだ?と。差別していく対象が外国人だとか、女性だとか。老人だとか、ベビーカーの女性だとか。
杉本 弱い人たちじゃないですか。
北川 そうです。とんでもない勢いであたっちゃうわけですね。で、みんな「ダメだよ」と言うわけですよ。「それはいけないことだ」。それは当然そうです。けど、そんなことはいけないことだと感覚的には分かっているけど出てしまう。世の中どんどんそうなっちゃう。それがダメなことは当たり前なんですよ。でもあえてそういうところを踏み越えたい。まさに攻撃性と呼ぶにふさわしい感情が出てきてしまう。近代の、それこそさまざまなマイノリティの闘争を通じて積み上げられてきた常識、価値観があって、いま、そうした政治性が時に忘れられ、ポリティカル・コレクトネスとか倫理的正しさのみで「差別しちゃいけない」と。
それに対して一線を越える主張が世の中に出てきている状況。それがある層には多いにうける状況がある。ヘイトとかもそうかもしれませんし、ヨーロッパについてビフォもジジも書いてますが、右派、極右が政権を握っていく状況は、既存の世の中の枠から逸脱する過剰な欲望が極右側にのみ形を与えられて表現されてしまっているからだと。そちらに持って行かれちゃっている。さっきのプシコ・ナチの話もそうです。だとすれば、結局左翼は何をしているのか。それを自分たちのほうに持っていかないとダメだろうと。これは本当に本質的なことだと思います。
ただしオペライズモの教えからすれば、それは差別はいけないとか、お題目として文脈や状況をふまえずに普遍的なことを訴えてばかりいても、つまり何ら物質性に介入することなく正しいこと唱えてばかりいてもダメでしょう。そうした言葉の枠組みを乗り越えた欲望が出てしまっているのであって、ジジ的な言い方をすれば、その欲望を政治的な革命闘争に持っていけよ、となる。ヘイト、憎悪の感情を、階級憎悪へもっていけと。他方、ビフォだったならば、そうした攻撃性へのセラピーやケアとなる。もちろん、簡単ではないですけど。
杉本 だから弱いものいじめするなよ、っていう話なんですけど。それをどう表現するか。そう思っている側がね。それは正しさを言う側がまさにポリティカル・コレクトネスというものですかね。SNSで拡散しても、見る人間は最初から「その通りだ」と思っている人ばかりですから。
北川 うん、まさにそうですよね。
杉本 本当にそう思っているかは置いておいて、正しいことは正しい。弱い者いじめするなというのはもっともだし、もっともだけど気が付いたら自分も同じ目線に立っていることもあるかもしれなくて。結局あいまいな、もやもやした感じで終わっているわけです。それを視界に見える世界、現実の世界に可視化して行かねばならない、という感じなんですかね?この人が言わんとしていることは。
北川 そうなんでしょうね。
拾いきれない、はみ出していく気分をどうすくい上げるのか
杉本 「公共の世界に入ってくるな」というヘイト的な人物たちに対してね。カウンターみたいな感じでやっている人もいるみたいですけど。糾弾するというかね。「弱い者いじめじゃないか」と声を出して表現するのが普通のものとしてなったほうがいいということかしら?
北川 それは絶対そうなんですよね。それはもちろんぼくもそう思います。でも何というんですかね。今の最悪な世の中で何か形になれないもの、拾いきれないものが何かあふれているとは思うんですね。形を与えられないまま渦巻いているものもあるでしょう。それを苦しみとかしんどさとかと言うこともあるでしょう。それ自体はどうやっても、きっと消せないと思うんです。まさに潜在する物質的なものです。はみ出していく、溢れていく。それは本来どんなふうに表現されるか分からない。なおも自分の身体や精神の中にとどまっているかもしれない。鬱とかそういう形で表れて。でも自分の外に出てしまうこともある。ときに暴力的に激しく表現されることもあるでしょう。権利要求のような政治的な言葉で表現されるかもしれない。もしかしたら自殺で表現されることもあるかもしれない。つまり世の中で拾いきれていない「過剰性」です。
杉本 「これはヤバいよね」という実質で、もしかしたら一番インパクトがあるのは自殺かもしれませんね。
北川 それは本当にそうです。
杉本 この前の、親の暴力で死んじゃった女の子が残した言葉とか、東大を出て広告会社で過労死した高橋まつりさんの残したつぶやきとか。日本である種記憶に残る人物たちですね。でも、結局そういう人たちは死んじゃっているわけですから、悲劇として残っているわけで。何といったらいいのかなあ。明るくはない。解放感がないというか。
北川 ないですよね。もちろん例えば自殺だとそうしてしか現実から逃れられないというか、拒否、離脱できない…。
杉本 うまくぼく、説明できてるかどうかわからないですけど。この人はぼくが言ってることとどこかズレちゃってますかねえ?
北川 え?どっちの人ですか。ジジ・ロッジェーロですか。
杉本 ええ。この人はネグリやなんかのオペライズモの足らなさを言ってるわけですよね?
北川 まあ、いま現在の「ネグリ的な」オペライズモの足らなさです。しばしば「ポストオペライズモ」とか言われている現代的なものですね。「ポストオペライズモ」とか言うとなんか小難しいわけですが。事実ジジは「ポストオペライズモ」は英語圏の研究者が業績稼ぎのために作りだしたものだと言って批判しています。インテリのただの知的実践だと。先ほどの話ですね。彼は、自分はオペライズモの思想だと言っています。
杉本 そこで足らないところがあると言ってるんですよね。それは結局、もう一回尋ね返してしまいますけど、どこら辺が足らなさになっているんでしょうか。
北川 そうですね。いろいろあるし、いろいろな言い方があるんですけど、さっきの言い方を改めて言いなおしますと、「こういった労働者たちが資本主義に反対する主体になるだろう」みたいなことを彼らのイメージや知的議論の中ですでに決めちゃっていると言うんですね。それを投影しているだけだと。つまり認知労働、知的労働とか、そういう風な労働に従事する人たちのことですね。大工場の時代がイタリアからもなくなって行き、専門的な知的労働とかパソコンとか、今ならスマホやアプリ使う仕事とか、サービス業などで、脳みそとか、気持ちとか、感情、精神の力が主流になっていくとき、今度はそういった人々が闘争する主体だと。そういう読み方は労働が変わっていった意味では大事だけど、でもまるで自動的にそういった人々が闘争の主体だと設定してしまうのは、資本の側の視点に立脚しすぎていると。資本にとって重要となった産業部門が、自動的に闘争にとって重要となるわけじゃないやろうと。これは先ほどからお話してきた何らか個人のレベルであったり、ミクロなものの中に潜在するものをちゃんと捉え、政治的主体性を構築していくこととは全然違うことだというんですね。最初から誰が主体なのかが決まっていれば世の中のどこに可能性があるか探す必要なんかないし。最初から左翼的な主体をイメージしていては、自己満足だということを言ってますね。
杉本 机上の論理だということになるわけですね。
北川 なってしまうと言っています。そもそもかつてのオペライスタが工場に注目したのは、そこが資本にとって最もカネになる最先端の生産の場所だったから、ということじゃなかったはずです。資本が最も弱いところを狙うという感じではない。工場を、労働者主体、労働者階級がいちばん強くなれそうな場所、いちばん戦闘性が爆発しそうな場所だと判断したからです。拒否やミクロな戦闘性がそこに潜在しているんやと。
身体性を欠いた世界の病み
杉本 むしろビフォさんなどはそういう技術をもった人たち、感情とか認知が仕事で吸い取られる人たちがだんだん心を病み始めているんじゃないかみたいな感じで、ポジティブに受けとめなくなっちゃいましたね。
北川 そうですね。
杉本 最初望んでいた初期のコンピューターのオープン・ソースみたいな革命で、これが新しいアウトノミアかもしれないと。自由で本当に市民同士のコミュニケーションで行けると思っていたら、インターネットで資本に食われて完全にそういう形でネットを操られるというか、プログラマーもそうですけど、「世の中の部分」に組み込まれたというか。結局それが革命の主体になるとはとうてい思えない。結局また取り込まれちゃったみたいなことは読んでいて感じるところでした。
北川 ビフォはそうですね。
杉本 そこはネグリは違うんですね。
北川 やはりね。その辺は何かが違いますね。ただ、ビフォは実際に、技術、テクノロジーをどう使うかをすごい具体的に考え、実際に実験してきたし、今でもそうだと思いますよ。でもネグリとかオペライズモがよく使う「敵対性」みたいなことも言わないですね。オペライズモも「敵対しつつ離脱しつつ」だと思いますけど、ビフォだったら離脱のみでしょうか。敵対とか、そういう政治の言語が邪魔なのかな。そこまでは言うかわかりませんが。敵対の政治もそうですけど、政治のいわゆる取り仕切る、統治するみたいな話もほとんど興味がないでしょうね。それはさっき新左翼の組織を取り仕切るといったことを含めてのことです。とはいえ、おそらく本人が喋ったら違うと言うかもしれませんけど、ビフォの書いたものを読む限りでは、ちょっと認知労働者とか、当時社会化されてきた労働者、知識産業の人たち、ともすればまあまあソフトウェア作れたりするような専門的技量をもった人たちを重要な主体としてイメージして論じてる感じはします。
杉本 革命の主体になるかもしれないのだけれども、そこが楽観主義的に行けちゃうのか、懐疑的なもの含みであるのかという違いがある気がするんですよね。そこは正直、「それは楽観的すぎないか」というのがビフォのような人の考え方の軸じゃないですか?
北川 彼はそうですね。もうどれだけ病んでるか。さんざん言ってますからね(笑)
杉本 革命どころの騒ぎじゃないぞ、という(笑)
北川 もう精神が破壊されているという。今のインターネットのやりとり、ツイッターなどのやりとりとか見てると、それはわかるわけですけど。
杉本 本当にね。この点に関しては完全にビフォの勝利かな、という感じですけども。
北川 ははは(笑)。やはり本当にもう高速の世界で大量の情報の刺激にさらされすぎている。人間はデジタル・ネットワークの結節点のひとつなんですよね。その中で生きるには人間の脳にも精神にもやっぱり大量すぎて、高速すぎて情報を処理できない。そういう身体性を欠いた世界で脳だけが肥大化しちゃうというのは、欲望が虚脱されたり、反動的な暴力につながると。ある意味感覚的にすごく分かる言葉遣いなんです。
感性の人、ビフォ
杉本 感性というか、やはり見立ての鋭さですね。だからもしかしたらネグリという人のほうは、どちらかというと社会思想家の傾向がより一層強いのかな。感性よりも。
北川 書いているものからすれば、絶対そうだと思いますよ。ネグリはそういうことより、「人間本質」なんかないんだから、そのときどきの社会の条件、技術の条件のなかで人間、労働者主体は改変されるし、自身をすすんで改変するのだ、という感じかな。政治的にもそっちを見たがる感じ。
杉本 やはり革命家の思想が抜けないというのか(笑)
北川 ははは(笑)
杉本 いや、分かってないですよ(笑)。ぼくは全くネグリを読んでないので。
北川 ぼくもわかんないですけど。まあでも、文章もビフォよりかは断然硬いですよね。もちろん極めて重要なことを述べてきた人です。ただ書き物は、政治的内容のものでも、学者的なやり方が濃いと思います。数年前にローマのデリーヴェアップローディ(DeriveApprodi)という出版社のイベントにいったとき、フランコ・ピペルノっていうポテーレ・オペライオ、アウトノミア・オペライアの往年の指導者というか活動家の人が言ってたんですよ。イベントの初日にネグリが原稿読み上げながらけっこう学術的・理論的な話をしたんですね。それに*ロベルト・エスポジトってナポリの哲学者が応答してたんです。資本主義の議論のあるなしで、面白いくらい、かみ合っていませんでしたけど。それで次の日ぐらいに、ピペルノは、ネグリのことを外交官のようなトークをして帰りやがったと。たぶんですが、そんな記憶が。まあそれが良いか悪いかはさておき。ビフォとかはスッとね。何か入る言葉で考えてるし。やはりそのへんは誰に伝えようとしているのか?という問題になるのかもしれないです。
杉本 なるほど。
北川 まあでも、『ノー・フューチャー』は難しいほうだと思いますね。
杉本 ぼくはむしろ*『プレカリアートの詩(うた)』のほうが難しかったですね。こちらの本はもっと内省的に思考しているような感じでした。『ノー・フューチャー』のほうは序文がたくさんあって、最初は日本の読者に向けて。次が97年だったかな。で、次に87年から見た77年。序文が3つ最初に書かれていて、あとは北川さんの77年以降のイタリアの運動とか、廣瀬さんのビフォへのロングインタビューとかがあるので、スッと時間の経過の中で、時系列的に考えてきたことの概論のような形になっていて読みやすかったと思います。
北川 うれしいです。
杉本 特にインタビューは読み返してみると改めてわかりやすかったです。『プレカリアートの詩』はその内実みたいなものを掘り下げているので、ちょっと難しいですね。
北川 なるほど、そうかもしれませんね。
杉本 「詩」と書いて、うたとタイトルしているから、より一層文学的な感性の部分が入っている内容で、ちょっと大変でした。
北川 それは翻訳の櫻田さんの素晴らしい文学的感性ですよ。まあビフォはほんとよいですよね。
杉本 でも、知られていないですよね。
北川 う~ん、でもけっこう本は出てるんですけどね。
杉本 ネグリ=ハートで『〈帝国〉』とかは知っている人は多いでしょうけど。ぼくは絶対こちらを読んで……。
北川 両方好きですが、ぼくもそう思います。『〈帝国〉』、もう20年ほど経ちますね。『〈帝国〉』は、そこがダメだという意見もありますけど、国家とかでははなく、人々の身体や毎日の労働、主体性といった小さなスケールから世界政治を語るという点ではダイナミックです。ただ正直、とりわけ日本の文脈では、ビフォの議論のほうがかなりリアリティがあるようにも思えます。ビフォは最近新しい本が。
杉本 出されたんですか。
北川 フューチャビリティー(Futurability)。英語で「未来可能性」みたいなタイトルです。
杉本 へえ~。
北川 これは日本語への翻訳がなされたようですが(日本語版:法政大学出版局、2019)、最近のビフォの本の中ではすごく「前向き」なことを書いているんです。さっき言ったようにどこかで可能性みたいなものを見つけて人間たちの、この世界の潜勢力でそれを現実化させていかなければいけないということを積極的に考えてるんですね。やはりビフォのベースは「労働の拒否」なんです。特にどうやってテクノロジーを介して、労働しない世界を作れるか?という。
杉本 ちょっと先取りしちゃうといまはAIの話がリアリティとして出てきてるじゃないですか。で、『ノー・フューチャー』は本当に早かったと思うんですけど。彼によれば今考えると「77年はポストフォーディズムの幕開けだった。そして最後の共産主義運動で、ポストフォーディズムを初めて意識された運動であった」と。これはなかなか鋭い洞察だと思いました。
北川 すごいですよね。
杉本 それを現代に当てはめると、AIが出てきてまったく人間の仕事なくなるだろうという話をみんなだんだん言い始めてますけど。そういう話は?
北川 そういう話はしています。まさに結構かかわってくるところで、まあ、すごく両義的な書き方なんですけどね。