自分ごととして感じられた不登校問題
山下 新聞会だとか、つながりのあるサークルのなかで、いろんな社会運動に関わっていたんですよね。たとえば被差別部落問題だとか、在日コリアンの問題だとか、ゲイ・レズビアンの問題だとか、基地問題だとか。そういう社会運動の現場に参加したり、大学で学習会や講演会を開いたりするなかで、自分の視野が広がって、そこから考えることはたくさんあったなと思います。それは、それまでの学校教育では得られなかったものだったと思います。そういう流れのなかで保坂展人さんに出会って、そこから不登校やフリースクールの運動に関わるようになったんですね。不登校のことは、すごく「自分ごと」に感じられたんです。ほかのマイノリティの問題、たとえば部落の問題や在日の問題にも、すごく学んだことはあったんですけれども、やはり自分ごととしては考えにくい部分がどうしてもあったんですよね。不登校以外のことでは、障害者の問題には、すごく自分の価値観が大きく揺さぶられて、介助のボランティアなんかもしていました。
あとは、学費値上げ反対運動では大学側と激しくやりあって、私は除籍になりかけたんです。そのときは大学の職員が「君のことは絶対守るから」と言ってくれて防波堤になってくれたんですけど、結局は単位不足で中退してしまいました(笑)。
杉本 ははは(笑)。いい先生がいたんですね。
山下 教員のなかにも、問題意識ある学生を守ろうという人はいましたし、実際に動いてくれていたのは職員の人だったと思います。いま思えば、当時は、そういう人たちに守られるなかで、かなり好き勝手やらせてもらっていたんだと思います。とくに、いまの香港の情勢などを見ると、そう思いますね。
ですから、大学では、授業には出てませんでしたが、さまざまな出会いのなかで問題意識を持つ機会を得て、それを自分に結びつけて考えていく土台のようなものを培うことはできたのかなと思います。
杉本 新聞の紙面づくりのテクニカルな部分は、大学の新聞会で学んだんでしょうか?
山下 どうなんでしょうね。
杉本 あとでお聞きしますが「不登校50年証言インタビュー」では、かなりたくさんの、ほんとうに短期間に多くの人のロングインタビューがあがってますけど、やはりさすがだな、と思って。私はほんとうに素人仕事で(苦笑)。まったく手探りでしかやっていないので。なかなか聞き方も編集も難しいんですよね。山下さんのインタビューなど読むとちがいをしみじみ感じます。
山下 もちろん、大学のときに新聞づくりの経験があったことは大きかったとは思いますが、学生新聞なので技術や編集レベルとしてはお粗末なものだったと思います。
杉本 編集の仕方は先輩が教えてくれたりしたんですか?
山下 教えられるなんてことはなくて、ほぼぶっつけ本番でやってましたね。
杉本 ということは、原稿を出して注意を受けなければそれはそれでもう大丈夫、みたいな?
山下 ええ。編集としてはいい加減なもので、いま思えば、ずいぶん雑なものだったと思います。『不登校新聞』を始めたときも、学生新聞の経験しかなくて編集長をやっていたので、最初はけっこうメチャクチャだったと思います。
『不登校新聞』の成り立ち
杉本 『不登校新聞』ですが、発行された年から半年くらい購読していました。
山下 ああ、そうですか(笑)。ありがとうございました。
杉本 1号目に石井志昂さん(現・不登校新聞編集長)のインタビューが載っていたことを忘れていて、たいへん申し訳なく思ったことがあるのですが、そういうインタビューなどがある一方で、*奥地圭子さんとかの、僕などからすると難解な論文が載っていて、また一方で、少年少女たちのポエムやイラストが載っていたり……。
山下 カオスですよね(笑)。勢いでやってたところもありますから、いっぱい失敗して、怒られて、やりながらだんだんマシになっていったというのが実際のところだと思います。だからけっしてほめられたものではなかったんです。
杉本 注意するのは奥地さんなんですか?
山下 そういうこともありましたが、むしろ発行してから、執筆者や読者から怒られることが多かったです。
杉本 当時、山下さん以外に編集の実務能力を持っている人というのはいたんですか?
山下 それが、いなかったんですよね。しかも、当初はアナログ編集で、本文校正はもちろん、割付(レイアウト)や写真指定、見出しの写植まで、すべて伝票にして印刷所に入稿しないといけなかったので、作業量は膨大でした。
杉本 それはすごい。石井さんにもうかがったんですが、インタビュー記事などが多いなか、月2回発行ですよね。そう考えると、ものすごくたいへんなんじゃないですか?
山下 阿鼻叫喚の地獄絵図です(笑)。
杉本 (笑)それで原稿ができあがって「これでいかがでしょう」と話し手や書き手に送るわけですよね。そのあいだに話し手や書き手から修正が入ってくるという感じですか?
山下 そうですね。創刊当初の98年ごろは、まだ手書き原稿も多かったですからね。それをこちらで入力して、本人原稿とつきあわせて校正するんですよね。でも、どうしてもまちがいが生じることはある。執筆者の名前をまちがえちゃって、「人格を否定されました」と怒られたり、大きな見出しをまちがえてしまったり(見出しは意外にミスしやすいんです)、匿名でと言われて、本文はぜんぶ修正したのに、見出しの名前を残したまま発行してしまったこともありました。電話や手紙のお詫びじゃすまなくて、謝りに行ったことも何度かありましたね。そういう失敗がいくつもあって、痛い目にあいながら、ちょっとずつ進歩していったのかなと思います。
杉本 少し意外な気がしました。山下さんはそのあたりは最初からすごく緻密な人だと思っていましたから。
山下 いやいや、とんでもないです(汗)。
杉本 最初に新聞を出そうという話が出たのは、誰の提案だったのでしょう?
山下 オフィシャルに出していることではないんですが、一番最初は、奥地重雄さん(奥地圭子さんのおつれあい)と私のあいだで持ち上がった話でした。97年に「登校拒否を考える夏の全国合宿」が福島で開かれて、東京から車で行ったんですよね。そのときの車中で、重雄さんとおしゃべりしていたのが最初だったんですね。不登校をテーマにした新聞があっていいんじゃないかと言ったのは、私だったと思います。いまは少なくなってますけど、一昔前はいろんな専門紙があったんですよ。いまも発行している新聞で言ったら、冷凍食品新聞とか、電波新聞とか、セメント新聞とかね。そういう感じで不登校新聞というのもあってもいいんじゃないか、みたいな。まあ、思いつきです。
ところが、奥地重雄さんという人は思い立ったら猪突猛進で動く人なので、「それはおもしろい、ぜひやろう!」みたいになって、あれよあれよという間に準備を進めていったんですよね。それで、「君が言い出したんだから、当然、編集長をやるだろう」みたいな話になったんです。でも、私はまだシューレのスタッフをやっていたかったので、最初は「イヤです」って断ったんですよ。でも、勢いがすごくて(苦笑)、「これはやるしかないか」みたいな感じで引き受けたというのが正直なところです。「引き受けます」と言ったときは、自分でもなぜかわかりませんけど、号泣しちゃったんですよね。
創刊を準備するにあたって、話し合っていたのは、けっして東京シューレの機関紙にするのではなく、もっと広く不登校を考え合う新聞をつくろう、ということでした。東京シューレは不登校に関わっている人たちの一部で、「ワン・オブ・ゼム」でしかない。新聞というかたちであれば、もっと広く不登校を考え合う媒体をつくれるのではないか。とくに奥地重雄さんには、そういうビジョンがあったと思います。
杉本 そのころは運動として不登校に関する親の会などもいろいろあったのでしょうね。
山下 そうですね。90年代は、運動の勢いは強かったと思います。その勢いのなかで創刊できた面もあると思います。
東京シューレ以外の文脈も大事だと思っていく
山下 ただ、創刊にかける思いは、理事などのあいだでも、かならずしも一致していたわけではなかったと思います。創刊時の理事は、奥地圭子さん、多田元さん(弁護士)、山田潤さん(定時制高校教員/当時)でしたが、それぞれ立場も、不登校との関わりも、ちがいますからね。だからこそ新聞として出していく意味があるとも言えますが、奥地圭子さんとしては、自分たちの活動や考えを伝えていきたいという思いが強かったと思います。そのあたりで、軋轢を生んできたところはありますね。もちろん奥地圭子さんも、言葉のうえでは、東京シューレの機関紙ではないと言うと思いますが、気持ちのうえでは、自分たちのやってきたことを伝えたいという思いが、いまも強くあるように思いますね。
杉本 購読したころの記憶では、奥地さんは毎号書いてましたね。
山下 「不登校の歴史」という欄のことですね。現在にいたるまで、創刊以来欠かさず毎号書いてますね。
杉本 ある意味では、奥地圭子さんのオピニオンを伝える側面は大きかったかもしれませんし、それは、当時から僕も了解していました。それと、一般の読者に不登校の問題を伝えていくうえで、社会的な発言力ある人にインタビューして、不登校を肯定するような発言を取り上げて伝えてこられたわけですね。
山下 私も、奥地さんの意見や東京シューレの活動について、その果たしてきた役割や意義はあると思っているのですが、一方では、その枠組みのなかからだけでは、不登校について捉えきれないと思ってきました。奥地さんや東京シューレの文脈から見たらこうだと見えることも、ちがう文脈から見たら、ぜんぜんちがうように見えるということがあるわけですね。いろんな文脈や角度から考えていかないと、ひとつの枠組みのなかだけで考えているのでは、新聞の役割を果たせない。そういう問題意識は、創刊当初からありました。ただ、それがきちんとできていたかと言えば、できていなかったと思います。「不登校新聞」は発行しながら、失敗しながら学んできたと申し上げましたけど、月2回出すというのはけっこうハードなので、勉強が追いつかないこともありましたね。ほんとうは、インタビューに行く人の著作はあらかた読んでから行きたいと思うんですけど、充分に準備できる余裕はないですからね。準備不足で失敗したことも多々あります。
ただ、あたりまえですが、論説委員の方たちの著作などは、ちゃんと読むわけです。そうでないと、原稿依頼もできないですからね。当時は論説を毎回載せていたので、この原稿依頼だけでも、かなりの勉強量が必要でした。そのなかで、見方が変わってきたところはありますね。たとえば、*小沢牧子さんの心理学批判であるとか、精神医療の問題だとか、障害者の問題だとか、労働問題だとか、不登校とは別の文脈から学校のあり方を考えてみると、異なる見え方がしてくる。そういうなかで考えさせられることがたくさんあって、そこで学ばせてもらったことは、けっこうあると思います。
『不登校50年証言プロジェクト』
杉本 そこで少し先取りしたことをお聞きしますが、『不登校50年証言プロジェクト』というインタビューシリーズに関してです。人選した人たちは何人ぐらいでしたか?
山下 記事は47本で、証言者は52人です。ひとつの記事で複数人にうかがった記事もありましたので。
杉本 このプロジェクトは関東チームと関西チームで分担してましたね。関西チームとしては?
山下 その半分くらいですね。記事は22本、証言者は27人です。
杉本 それくらいの人数で、統一されてない価値観の人たちのインタビューが出たわけですね。関西チームでは、ほかにも聞き手の人がいるにしても、山下さんはすべてに同席して、多くの場合は口火を切っているじゃないですか。
山下 そうですね。
杉本 それは、やはり新聞をつくっていく過程で知ってきた人たち、学んできた人たちなのですか?
山下 もちろん、そういう方も多くいます。それと、私が編集長をしていたときにできていなかったことを、きちんと捉えなおしたいという意識はあったと思います。とくに、*常野雄次郎さんの問題提起にちゃんと応えられなかったという思いは強かったですね。常野さんは、インタビュー公開直後に、ご病気で亡くなられてしまいましたが……。あと、斎藤環さんについても、ちゃんと議論しなくてはいけないものがあるのに、議論できていなかったという思いもありました。斎藤さんの師匠にあたる*稲村博さんから続く問題もありますしね。
杉本 なるほど。僕は、ひきこもり経験の当事者者として、いろんな斎藤環さんのインタビューを読んできたんですけど、あれだけ本人に迫ったインタビューは、ほかにないと思いますよ。
山下 そうかもしれませんね。
杉本 *貴戸理恵さんの質問とか、すごく鋭い切込みがあって。斎藤さんの本音の部分を相当引き出すことができた仕事じゃないでしょうか。言ってみれば、ひきこもりに関するオピニオンリーダーへのご意見拝聴ばかりとなっているなかで、ある種、相対化された斎藤環さんの語りで結ばれる像というのは、かつて僕が読んだなかでも、あまりなかったのではないかと思います。
山下 斎藤環さんにかぎらず、いくつか対立的になった論点というものが、不登校の歴史のなかにありますね。たとえば「障害児を普通学校へ」という運動と不登校運動、「登校拒否は病気じゃない」という言説と精神障害者の問題だとか。そのあたりというのは、きちんと議論ができていないままになってしまっていると思ってきたんですね。
杉本 なるほど。
山下 あのプロジェクトは、“半世紀にわたる「問題」をいま問い直す”と掲げて始めたんですが、私としては、そういう対立的になった論点も含めて、多角的に問い直したいと思って取り組んだところがあります。ただ、そのあたりは関東チームの人たちとは温度差というか、認識の差があったかもしれません。
杉本 僕は関東チームの記事はまだ読んでないんですけど、もともと、このプロジェクトの話はどこから始まったんですか?
山下 私が提案して、不登校新聞社に持ちかけたんです。
杉本 あ、そうなんですか。
山下 不登校新聞社でやりたいけれども、もし了解を得られなければ、ほかでやろうとも思ってました。不登校新聞社の理事会で合意できて、これまでの寄附のストックと、あらたに寄附を呼びかけて、全文を無料公開するプロジェクトとして始めました。ほんとうに多くの方に寄附をいただいて、プロジェクトを実施できたのは、ありがたかったですし、それは、これまで奥地圭子さんや東京シューレが培ってきたネットワークのなかで成り立った話でもあります。応援いただいた方、記事を読んでいただいた方には、心から感謝しています。
ただ、だからといって、東京シューレへの批判的な観点を出さないということではなくて、そういう語りも含めて、タブーをいっさい廃して編集にあたっていましたので、そのあたりでは、軋轢を生んだ面もありました。私も、奥地圭子さんのやってこられたことを否定したいわけではないですし、批判されたら傷つくというか、否定されたような気持ちになるのはわかるんですね。だけど、そこをおもんばかって、きちんと議論ができないのはまずいというのが私のスタンスでした。
杉本 ああ、山下さんのほうでは議論する気持ちはずっとあるんでしょうけど、なかなか奥地さんのほうでは、そのあたりの議論はあまり?
山下 たとえば、先ほど貴戸理恵さんの名前が出ましたけど、貴戸さんの『不登校は終わらない』(新曜社2004)や、常野雄次郎さんとの共著『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』(理論社2005)が出たとき、東京シューレは激しく抗議していました。それは、そこで問題提起された論点に応じるというよりは、問題提起そのものを問題視して、いわば炎上してしまった感じでしたね。あの問題提起がまともな議論にならなかったというのは問題だったと思います。
杉本 それは僕は存じあげない話なのですが、シューレ界隈で起きた現象だったんですか?
山下 貴戸さんが『不登校は終わらない』を書かれた当時、私は貴戸さんのことをまったく知らなかったんですね。あの本は修士論文が出版されたものですが、貴戸さんが論文のために東京シューレ関係者などにインタビューされていたころは、私は関西に来ていたので、存じあげてなかったんです。私が知ったのは、本が出版されて、東京シューレがそれに抗議したりして、騒ぎになってからのことでした。
常野雄次郎さんとも、あまり面識はなかったんですね。不登校新聞を創刊したころ、不登校新聞で「社会の中の登校拒否」という連載を執筆してくれていたんですが、私はその連載の担当ではなかったので、直接やりとりしたことはあまりなかったんですよね。ただ、『選んだわけじゃないんだぜ!』が問題になったとき、常野さんから不登校新聞の読者メーリングリストで、「これはきちんと議論してくれ」という投げかけがあったんです。しかし、あまりに炎上状態になっているなかで、紙面に取り上げることができなかったんです。『不登校は終わらない』についても、『選んだわけじゃないんだぜ!』についても、大きな議論になったにもかかわらず、紙面で取り上げて議論することはできませんでした。それは、私の大きな反省点です。
私がそれなりに応答を示すことができたのは、『迷子の時代』においてのことだったので、4年ぐらい経ってからのことですね。そのときには、すでに編集長を降りていました。あとから考えると、あそこでちゃんと問題提起に応じられなかったということが、私が編集長を降りた理由のひとつだったように思います。
杉本 そうですか。それほど大きな問題でしたか?
山下 私にとっては大きなことでしたね。
杉本 そこらあたりのいきさつは、僕にはよくわからないところがあるので。ただ、そこで山下さんとしては、不登校50年証言プロジェクトで、あらためて本人に会って、いろいろ確認していきたいという気持ちがあったということなんですね。常野さんとも、もう1回きちんと話をしたいと?
山下 そうですね。不登校新聞の編集長を降りたことについて言えば、経営的に厳しくなっていて、人数を減らさなくてはならないという問題が大きかったですから、いま申し上げたのは、あくまで理由のひとつ、ということです。いわばリストラをしないといけないなかで、私が残ってほかの人を切るのではなく、世代交代の意味も含めて、不登校新聞は当事者発と言っているわけですし、石井志昂さんに編集長になってもらって、それをサポートするかたちでやっていこうとなったんですね。ただ、私のなかでは、編集長は辞して、自分なりにきちんと考え直さないといけないと思っていた面もありました。
*奥地圭子 (おくち けいこ 1941年- )元小学校教諭で、現在はNPO法人東京シューレの理事長、学校法人東京シューレ学園・東京シューレ葛飾中学校の理事長・校長。
*小沢牧子 (おざわ まきこ 1937年- )臨床心理学者。専門分野は、臨床心理学論、子ども・学校論。
*稲村博 (いなむら ひろし 1935年 - 1996年5月14日)医学者、精神科医。1994年に一橋大学保健センター所長・教授。自殺研究から青少年問題へと進み、不登校・登校拒否などを問題にした。両親の同意のもとに不登校児を精神病院に強制入院させて物議をかもし、さらに「不登校はいずれ無気力症になる」との非科学的な発言で社会から指弾を受けた。(Wikipediaより)
*貴戸理恵 (きど りえ 1978年 - )社会学者。関西学院大学准教授。2001年、慶應義塾大学総合政策学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。「生きづらさ」を抱える若者達への面接調査を通じて、「当事者」の視点からこの社会がどのように見えるのか、「個人」と「社会」のよりよい関係とは何かを探ることを研究課題としている。著書に『不登校は終わらない 「選択」の物語から〈当事者〉の語りへ』(新曜社 2004)『コドモであり続けるためのスキル』(理論社 2006 よりみちパン!セ)『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに 生きづらさを考える』(岩波ブックレット 2011)
*常野雄次郎 (つねの ゆうじろう 1977-2019)小学校4年生で学校に行かなくなって東京シューレに通ったことがあり、『学校に行かない僕から学校に行かない君へ』(東京シューレの子どもたち編/教育史料出版会/91年)にも経験談を寄せている。2005年、貴戸理恵氏との共著、『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』(理論社)。(不登校新聞、ネットバックナンバーより)