スタッフは常にミーティングを欠かさない
―― なるほど。それで生徒さんたちですが、いま40数名ぐらいおられる?
工藤 いや。65名です。
―― あ、そうか。65名でしたね。それで、一斉でみなさん勉強されてるんですね?
工藤 ええ。4つクラスがありましてね。1年、2年、3年。そしてもうひとつ、「じっくりクラス」という、1対1のクラス。
―― ああ、この前の講演会のとき司会をされたかたのお子さんも利用されたクラスですね。
工藤 ええ。で、その一斉クラスもですね。受講生とスタッフがだいたい同じくらい数がいます。
―― そんなにいるんですか?
工藤 います、います。
―― 60名くらい?
工藤 ええ。スタッフは70名くらいいます。
―― へえ~。
工藤 で、それでも足りないんですから。
―― え?そうなんですか。
工藤 ええ。一斉クラスの場合でも実際に黒板で教えて、プリントをやったりするときに、スタッフがスーッと中に入っちゃいます。そこで1対1。
―― ああ個別に。分からないことがあれば。
工藤 ええ。だから「一斉」と「個別」を組み合わせたようなかたちですね。
―― ほお~。でもどうなんでしょうね。一斉で板書して教えるじゃないですか。で、個別に分からないときにアドバイスを聞いたりしますよね。うまく進捗するんですか。
工藤 なかなか難しいです。
―― (笑)一斉に教える側の先生もなかなか大変そうですね。
工藤 大変です。その代わり30年近く失敗の経験が積み重なってきてますから。何をやるか、どのようにやるか。これは尽きない課題です。例えば数学なんかで月2回プリント検討会議で必ず前回の反省とそして次回はどうしたらいいか。そして授業が終わった後は必ずスタッフ・ミーティングをやって各クラスごとに15分くらい、その日のいわゆる反省事項を話し合います。だから遠友塾のスタッフはね。自分のやった授業が良かったか悪かったか。まずいところがあれば、どこがまずかったかということについての討論の機会が多いです。一番大事なことは何か?というのはハッキリしてますから。だから、かつて、人から文句を言われたくない先生出身のスタッフがね、かえって嫌がってやめちゃっているんですよ。
―― 一番大事なことというのは、ここへ通ってくる……。
工藤 受講生たち。
―― はい。
工藤 その理解。
―― 理解なんですね。
工藤 とにかく遠友塾で分かってもらわないと困るわけですよ。最後の最後のとりでですから。「じっくりクラス」が出来たのだって、やっぱり年に一人か二人、分からないと言ってやめる人が出てきて、どうしても一斉の授業の枠内では無理だったので、それで「じっくりクラス」をつくったという経緯がありますからね。だって本当に来る人の中には自分の名前をひらがなで書けない人も来るわけですから。一斉授業ではいくら個別のフォローを重ねても、無理なケースが出てくるのですよ。そうすると本当にじっくりやって行こうということが必要になってくるわけです。
卒業生スタッフが教える側と受ける側を橋渡しする
―― あの、できればなんですけれど、通いに来て、本当に良かった話とか、どれだけ苦労、普通の義務教育を受けられなかったことでどういう苦労があるのかっていう話をいただければと思ってるんですけど。
工藤 お渡ししたこの資料に書いてあります。
―― (笑)。
工藤 いっぱい書いてありますから。ただ辛かったことを話すというのは、その人が話してくれるまでこちらは待つんですよ。
―― う~ん。なるほど。
工藤 待つんですよ。で、それが卒業してから、卒業記念パーティをやるんですけど、その場で話す人もいる(笑)。
―― 初めてするような話とか?
工藤 ええ。辛かったことをね。
―― ああ~。そうですかぁ。
工藤 それから卒業文集で初めて書くような人もいる。もちろん途中でね、ぽろっと教えてくれる人もいる。例えば時計が読めなくて困ったという人が結婚して、小姑から「学校出てないんだってね」と言われて、辛くて辛くて、層雲峡に行って赤ん坊抱えて自殺しようとしたという話とかね。そういう話とかをポロっと聞いたり。だけどやっぱり本当に辛かったことはなかなか言えないものだね。特に女性の場合、本当に辛かったことはね。「本当につらかった」と言葉にできたということは言葉にした時点からやっぱり客観化してますから、それでひとつ乗り越えているんです。ですからなかなか言葉にできないことが多いですよ。それで、ものすごい想像がつかないような困難なことがあるので、遠友塾を卒業した卒業生の中で、5、6名の人たちがスタッフになってくれている。最後は本当にきついことがあるとやっぱりそういう人たちが分かるんです。
―― あのすみません。もう一度…。
工藤 遠友塾を卒業した卒業生がスタッフになるんです。そうすると教える側のこともそれから授業を受ける側のことも全部わかるケースになることが多い。そして辛いことにどうしたらいいかということに対処する能力を持っていることがある。そういう人がやっぱり頼りになる。相談相手になる。
―― わかるんですね。辛さが。
工藤 そうです。だから、そういうことがないかぎり、夜間中学というのはなかなかうまく行かないです。だから遠友塾のスタッフ70名いるけど、本当に若い人から年配の人まで職業は千差万別で。かえってそれがいいんじゃないのかな。
―― (笑)社会ですよね。やっぱりね。
工藤 ええ。受講生の人たちが年齢がバラバラで、外国から来る人もいるし。
―― はい。
工藤 だからかえってそういうような多様性があったほうがいいんじゃないですかね、やっぱり。それが自由な気がする。自然に近いような感じがして。僕らそれで慣れちゃったから、さっき言ったように同一年齢、同一地域の学校にボッと入ると何か違和感があって(苦笑)。
―― あまりに違うと(笑)。僕もまあ通信制の有朋高校だったので。当時の有朋高校は不登校の子がいるという前提じゃなかったので、同年代はおそらく僕ともうひとりくらいしかいなかったと思うんです。で、周りは大人の人ばっかりだったから。精神的には私、葛藤がひどかったので普通高校に通えなくなって、普通高校は同じ年齢の人間同士。それに対して当時の通信制高校は本当に多様で。大人の人ばかりだし、学校の廊下に大きなドラム缶があってみんな休み時間にたばこを吸ったりしてる。そういう中で休んでいるといろんな意味で拘束感はなかったです。ちょっといまの話と似てるのかなと。大人の中に入っているからいじめはないし。みんな自分の生活が第一の人ばかりですから。そんな子ども相手に変なちょっかいしている暇なんかない人ばかりですから。
遠友塾との出会いで自分の道が見つかった
―― ところで、もともと工藤さんはどのようなお仕事をされていたんですか?
工藤 ぼくは北大の理学部を3年で中退して印刷会社で働き、それからガソリンスタンドで働いて、ガソリンスタンドでいわゆる石油を販売する会社でずっと定年までいました。最後は本社で経理とかそっちのほうをやりましたけど。会社の名前は4つくらい変わりましたが、やってる仕事はまったくおんなじで。だから仕事やりながらずっとこの活動です。
―― 幾つくらいからこういう所にかかわりを?
工藤 さっき言った読書会が始まったのが37歳のときです。
―― そんなに若い時からかかわってらっしゃるんですか?
工藤 そうです。遠友塾の授業が始まった時が40才でしたから。
―― そうなんですね。もうそんなに経つわけですか。そうするといま現在?
工藤 いま、今年で70です。
―― じゃあもう30年経つんですね。
工藤 そう、30年です。
―― へえ~。そうですかあ。
工藤 何を軸にして生きるのかということが、夜間中学と出会ったことではっきりしましたので、助かりましたよ。
―― どういうことでしょう?それは。
工藤 例えば私自身、大学を辞めること一つとってみても何をどうしたらいいのかということがわからなくて、いろいろあったものですから。その時にそれまでやってきたことを踏まえ、何をやったらいいのかという道筋が見つからなくて。おかげ様でようやくその道が見つかって、あとは今までまっしぐらですよ。
―― なるほどねえ。そうすると変な話ですけど、本業よりも。
工藤 そうです。
―― (笑)。
工藤 職場は職場なんですよ。
―― お金は稼がなくちゃいかんということで(笑)。
工藤 そうです。勿論、職場は職場なりに一生懸命やってきたつもりですけど、やっぱりね。
―― 本気になったのはこちらだと。
工藤 本気なのこちらです。
杉本 ははは(笑)。了解です。
工藤 だって会社の仕事は、会社の仕事なんですよ。そうした中でも、やらなくちゃいかんことの本質は会社の仕事をやっていることの中にも、無数にありましたけどね。
―― あとを継いでくれる人とか、いらっしゃいますか。
工藤 あとはどうなりますかね。ちょっと分かりませんね。まあ遠友夜学校は50年続いたのでね。それくらいまでは何とか代替わりしてでも続けたいですね。遠友夜学校は50年続いたんですよ。明治27年から昭和19年まで。
―― その昭和19年の時に強制的に廃校にさせられたのですか?
工藤 それが聞くとどうも遠友夜学校に軍事教練をやらせようとしたらしい。おそらくそれで諦めたんじゃないですかね。
―― でも夜学校は全国にたくさんあったんですよね。
工藤 いいえ。
―― そういうわけではない?
工藤 自主夜間中学的なものは私が知ってる範囲では、本州にも色々あったんですけども、いまでもその形が残って記録があるのは遠友夜学校くらいです。
悲しみや苦しみに対する鈍感さ
―― あと1点だけいいですか?公立の夜学校というのはどういう形で成立してるんですか?こちらでも公立化を目指してるんですよね?
工藤 公立の旗を揚げないと教育委員会は相手にしませんからね。揚げても相手にしないんですけど。
―― 自主夜間中学というのは一種のNPO的な運営ですか?
工藤 そうです。だから行政は聞く耳を持ってもいいし、持たなくてもいい。ましてや以前は法律もなかった訳ですから。いまでこそ教育機会確保法ができて、法律上は大事にしなくてはいけないとなってますけど。
―― なるほど。では公立の夜学校というのは映画*『学校』(山田洋次監督)にあるとおり、一種の原則における例外みたいなかたちですか?
工藤 そう、そうです。要するに必要に迫られてつくったはいいが、文科省も扱いに困った存在ですよ。だから鬼っ子みたいなものです。
―― でも反転してますよね。それが「鬼っ子」になるというのは。
工藤 ええ。ましてや公立の夜間中学が全国に波及するんじゃなくて、むしろ縮小しようとしている。まして北海道のようなところは、全然無いわけですから。さっき言ったように棄民が生まれるんですよ。だから学校に行けなかった悲しみや苦しさとかに鈍感になってくるわけですよ。
―― 自己責任みたいになっちゃうわけですね。
工藤 そうです。自己責任みたいな感じになるわけです。
―― 本当は社会の問題なのにもかかわらず。
工藤 そう。
―― いや、わかりました。本当にお忙しいところありがとうございました。
工藤 いえ。また次よろしくお願いします。いずれにしても今後も長いお付き合いをさせてください。
2018.2.26
札幌エルプラザ(男女共同参画センター)にて
*映画『学校』―山田洋次監督の映画シリーズ作品。1993年から2000年までに全4作が制作された。第一作は幅広い年代の生徒が集まる夜間中学校を舞台に、挫折や苦境から立ちあがる人々を描いた。下敷きになったのは、松崎運之助(みちのすけ)『青春 夜間中学界隈』(教育史料出版会、1985年)である。(ウィキペディアより編集)