安岡 それで宗教で人は本当に救われるのかどうか?という課題がありますね。
歴史的に見ると哲学と宗教は自然科学及び人文社会科学とちょっと対立するところがあります。哲学はギリシャ生まれだけれども、17世紀までアリストテレスは「最高の存在者は神」とした信仰心の哲学者だから宗教と哲学の考えは一致していたわけです。中世までキリスト教とアリストテレスとの哲学とは結びついていた。
しかし17世紀になるとデカルトをはじめとして、人間には理性があると。つまり「良い心」があると。で、迷信や変な俗信やなんかは非合理的であるという、こういう考え方。つまり啓蒙思想の時代が起きて、古い迷信や古いくだらない「魔女狩り」だとかね。そんなくだらないことはいけない、と。そして合理的に考えていきましょうと。理性が大事だと。これが近代です。近代はデカルトから始まるようになった。だから哲学は宗教からだんだん決別をしていくということになりますね。
で、ニーチェが出てきてね。神様、神様というけれど、神様が今まで人間のさまざまな苦労や苦痛を助けてくれたか?と。だいたい、存在しているのか?と。存在してたとしても、もう死んでしまって何の役にも立たないじゃないか、と。まあ、痛烈な批判をしたわけです。それがニーチェの「神は死んだ」という、有名な台詞になっていますね。その後にマルクスが出てきて。神様は人間がか弱いところを助けてくれ、と言う風な願望で作った人間の作った幻影に過ぎないと。幻にすぎないと。幻想であると。こういうことですね。そして、フロイトは宗教は人類全体が「か弱い、か弱い」という強迫観念に駆られていて作りあげられているものなのだと。だから強迫神経症に罹っているのだと。だから神経症者が宗教を信じると。まあ、こういう風な主張なんです。このような考えも出てきたということですね。
その後、こういう現代科学中心主義に対しての反動も出てきます。宗教の側からですね。それが原理主義です。聖典に書いてある一字一句が事実であって、それを実現すべきであると。だからダーウィンの進化論は嘘だと。アメリカのその種の原理主義・キリスト教の論によると、神は6千年前に宇宙を作ったんだということですよ。
― 6千年前。はあ?
安岡 だからね。何百億年前の人骨が出ましたなんていうのは嘘っぱちなんである。なんて堂々と主張しているわけです(笑)。
― (笑)。
安岡 で、進化論を学校で教えるのは禁止すべきである、と。そういうエピソードがありますね。あと、マルクスの共産主義や精神分析を敵視し、妊娠中絶や最近では同性愛、フェミニズムに反対している。で、自分の宗教以外は異教徒として悪魔扱いをするんですね。だから原理主義、というか、むしろ排他主義というべきかな。
― 排他主義ですね。うん。
安岡 もうその時点で本来の宗教とは異なる性質を持っていると。だから宗教とは言えないかもしれない。うん。ある「運動」かもしれない。 政治運動みたいなものかもしれない。
― ええ。確かに。
安岡 お渡しした資料に書いてあるように、元々原理主義はアメリカのプロテスタント系のキリスト教徒が主張し始めたもので、そこには先ほど言ったように原理主義者はダーウィンの進化論に反対してるし、反共だし、反精神分析です。
で、フロイトの『ある幻想の未来』という本によれば、人間と宗教の関係は3つ特徴があると。人類は宗教の戒律や命令に従うふりをして、それを裏切ることを繰り返している。だから本当の信徒はいない、と。人間は犠牲を捧げたり贖罪したりして罪の赦しを得ては、再び罪を犯している。反復している。実はそのことに手を貸してきたのは宗教への服従を監督し、人間に道徳を教え、人類を幸福にすべき宗教者自身たちだったのである。なぜか。人類が本当に善人になって道徳的になったら宗教が不要になるからです。罪を犯す人間がいるからこそ、宗教の存在価値があるからです。だから悪人がいないと教会が潰れるわけで、宗教も潰れるんですよ。商売があがったりになる。だから悪人がいてもらわなくちゃ困るんです。ものすごい皮肉な言い方ですけどね。
― (苦笑)。
安岡 それから「神の名の下に」戦争を起こし、相手を「敵」や「悪魔」呼ばわりする宗教信仰者は真の信仰者と言えるでしょうか?と。フロイトによれば、信心深い人はある種の神経症にかかる危険に対して非常に保護されるといいます。つまり、信心深い人。本当の意味でね。穏やかで。こう、本当の人はね。集団神経症ね。そういう宗教集団の中で心が守られているから個人的に悩むような神経症を作る必要がないからである、と。こういうことですね。
― なるほど。
安岡 ですから宗教活動に熱中している間は日常生活を問題なくやれるわけですよ。嘘でも信じていられればですよ。しかし、そのいかさまぶりみたいなものが合理的精神の持ち主が「変だな」と思ったら今度は個人的に悩まなくちゃならなくなるわけですよ(笑)。
― うん。おそらくルターなんかも若い時はそうだったんでしょうね。
安岡 で、肝心なことの3番目は『人が宗教を信じていけないということは決してない。何人も、信じるように強制されてはならないのと同じく、信じないように強制されてもならないのである』。
まあ、宗教というのはすぐには人類の心の成長によるでしょうけどね。当面はなくならないであろう、とフロイトは言ったわけです。
問題は信じる、信じないを強制されたり、禁止されたりということ自体、間違いであるということだけは真実である、ということですね。
まあ、そうした人類の未来がどうなるかということですけどね。ただ問題はいずれにしても太陽系はあと50億年で消滅しますし、あと5億年後には地球の表面温度は4~500度になりますから、住めた状態でないですから、どこかに移らなければならない。ホーキングによれば地球みたいに生きられる星は全宇宙に100万個あるだろう、と。その星を探して移住しなきゃいけない。しかしそれは何十万年、後年の先だとすれば、何百世代、何万世代にわたって命を引き継いでそこに移ってきて何十億年生き延びることが出来て、またそれもいずれ滅びるから別のところへまた移らなければいけない。人類が生き延びたいとするならば。その準備をすることこそ科学の目的の中心に置くべきであろう。
ですから、みんなが共同してその作業に取り組むには内輪揉めして喧嘩している場合じゃないよ、という理解や洞察が得られるかどうかにかかる、ということですね。まあ、いまのところ宗教が残念なことに対立や競争や戦争を制御できてないということは、人間も無力であるけれども、宗教が無力であることも確かであると。まだ、宗教も威張れたもんじゃないね、ということですね。
― あの~、だから戦争なんかを始める時に、自分たちは正しいからやるんだという理屈になりますよね。その時に現世的な正しさを持ち出してきてやる、というのはどこかで、まあ法律ですね。確かに国際法があって、という現世的なものを持ち込んでやるという理屈もあるとは思うんですけれども、結局そこら辺には限界があるから(笑)。あの、何でしょうね?集団をまとめる時に自分たちが一番信じている宗教の神を持ち出してきたり。まあ、ブッシュなんかもね。自分たちの神を持ち出してきて正義だ、ジャステスだとか言いますし、向こうは向こうでビン・ラディンはビン・ラディンで原理主義で「聖戦だ」とか言いますから。あの、どちらも宗教的な正しさを持ち出してきて、まあ、宗教は人が作ったものか、実際にそういうものがあるのか。おそらく人が作ったものでしょうけれども、その平和に共存するための。
安岡 うん。もともとは精霊信仰から始まっているわけでしょう。
― ああ~。本来素朴なものですよね。
安岡 そう。精霊信仰は神が作ったか?神が人間にやらしたことだったろうか?
― (笑)ははは。まさに人間が自然に対して怖れたり、弱さを感じたりしたところから始まっていたわけですよね。
安岡 そうそうそう。その人間の無力さこそが原点ではないですか。
― (笑)。いやあ、結局だからこういうところに最大の矛盾があるというか。弱い生き物が生き延びるために頭を使い始めて集団で狩りをしたり、生き延びるための方法として集団をまとめる。そういう意味では宗教の持つ意味というのは大きかったと思うし、モラルとか道徳とかそういうものは、まあもちろんユダヤ教のように厳罰な神みたいなものがあったかもしれませんが、救済するような神もありますよね。そういういろいろな形で、人間というのは集団で生きなくちゃいけないし、しかし集団で生きるということは、内輪もめも起きる可能性がある。だからそれに歯止めとなるものとして宗教というものが発展していったんだろうと思うので。発展していった結果、何か近代兵器とおんなじで(笑)。戦争する理由も相当本筋から離れたものになってしまうという感じですねえ。何か、皮肉な感じがしますね。
やっぱり原点に戻るべきなのかな?
安岡 そう。宗教は本来、こころの領域の救済だから。
― そうですよねえ。うん。
安岡 政治的な救済ではないんですよ。政治というのは本来はいろいろな産業構造下にあるにしろ、何よりも利益分配とか社会のちゃんと生きれるような法律や手段ということを調整するための役割でしょ。で、宗教というのは人間が生きていれば、死んだり、病気になったり、いろんな苦労をしたり、自然災害に遭ってみたり、生きることの悩みがあったりする時にその心を慰め、励ますということ。そういう部分の役割分担があるはずなのに、人間の弱さや「か弱さ」を救うためには、相手をやっつければ自分の強さや利益になるとか、救済になるとか、証明できるとか言って戦争に引っ張り込むような、そんな政教一致みたいな形になってしまうと宗教としての本質が失われてしまう。政治も政治としての責任が失われてしまう。結局しっちゃかめっちゃかになってしまう。そういう単純なことをちゃんと理解していなければなりませんね。いま、それを何かごちゃまぜにして訳のわからない混乱した理解にしかしてない。そうとしか思えないような事態なんでしょうな。
― とはいえ、というか。う~んと、何と言ったらいいのかなあ。いや、だからニーチェが「神は死んだ」と。でも、じゃあ「神」の代わりに近代的な理性がそこに代わりに入ったかというと、難しいところですよね。
確か河合隼雄さんが何かの本で言ってたんですけど、ある西洋の人に対して「神が死んで、あなた達は代わりに何が神になりましたか?」と聞いた時、はっきりと「お金だ」って言われたことがある。大変びっくりしたという風な。それも真剣に真面目にそう言われたらしくて。
安岡 だから神の代わりに「お金」が神となり金銭至上主義とか言われるものでしょう。つまり何か信ずるもの、力があるものにすがるという。だからそれがお金という時に、かつての神も実は幻想だった、ってわかるわけですよ。
人間の生存のために最小限必要なのは食糧だとすると、食糧が本当の意味の「神さま」じゃないですか。そうでないと生きていけないんだから。生きていけないで、神さまもへったくれもないわけでしょう。お金なんて紙にすぎなくて、お尻拭くくらいの価値しか持たないわけですよ。で、経済混乱になった時にドイツがパン一個買うのにトランクの中に1万マルクのカネを持ってきたって買えなかったっていうエピソードがあるように。その時のお金というのは、もう何の価値もない幻想だということが突きつけられるわけです。今はまだカネがあるとモノが買えるというある約束事が成り立っている、契約が成り立っていることだけで。その契約はいつでも破棄可能なものであるから一種の幻想で、絶対的なものではないわけです。
西洋では絶対的なものを神として規定してきたわけです。どんな時代でも普遍的な価値を持っていて、そして目に見えないものである。
そんなお金みたいに現実に見えるものは、それは俗悪なものなんです。 お金というのは後から作られた不自然なものでしょ。
―現実的のようで、抽象的なものですよね。
安岡 経済活動のために人為的に作られたものがお金です。宇宙開始以来からお金があった、っていうんなら話は別だけど。
― うん、まあ現代はそういう物語を作りかねませんけどね(笑)。
安岡 ですから人間は何かを信じていないと不安な生き物なんだな、ということだけは共通しているわけですね。何か頼れる「幻想」となるものを持たないと不安なんですよ。
その場合、その不安は何なのか?例えばお金を神さまにする人は何を持って神さまとして金儲けに熱中しなくちゃいけないのか。
人生普通に生きていくなら1億や2億でも十分なはずなのに、何十億、何百億儲けてもなぜまだ会社大きくして儲けようとするんでしょうか?それは単に心理学的にはその貪欲さ。心理学ではそういう人物のパーソナリティやライフヒストリーを探れば、親子関係がまずかったという。まあ、お金というのは愛情を象徴するものなのだというのがフロイトの考えです。
― なるほどねぇ。うん。
安岡 だからその人は小さな頃に愛情を得たいと思うのに得られなかった。その悔しい気持ちが金儲けに熱中することで、むかし得られなかった愛をいま得よう、得ようとしている。しかしそれはこころで得るものでなくて、お金という形で得るものだから満足できないのです。満足できないから、金儲けの量が足りないんじゃないかと考えてまだ儲けようとする。「愛」が「お金」にすりかわっている。こういう強迫観念にかられる。まさに強迫神経症的になる。だからある意味ではそういう人は、愛を求め続ける悲劇の人といえますね。
― 確かに滅多にそんな人いませんよね。そこまでお金に。まぁ全く執着しないわけでもないけれども(笑)
安岡 だから度が過ぎる人の場合は心の病理現象として考えなくてはね。
― それはやっぱり感じますよねえ。うん。でも世界に。アメリカとか西洋とかその手のタイプの人が沢山いるみたいですけど。国家的にもそんな感じだし。
安岡 神が死んだ代わりにお金を神様にしてワ~っとやってて、それが破綻した時には何を神さまにするんでしょうかね。興味深いですな。
― そう考えると、ある意味では宗教があった方がいいのかなあ?という感じも。
安岡 宗教が必要とされるのはやっぱり人間が理性と道徳を身につける。特に道徳を身につけるために、その道徳性の必要を訴えてきた宗教の価値という部分はやっぱり評価しなくちゃいけない。ひと言で言えば、宗教は何のためにあるか?というと、道徳のためにある。人間を道徳的にするためにある、ということなんです。
― いろいろ、ネガティブな形がねじれて出てますけど、ポジティヴな、例えば人類を長らえるための役割は果たしたところは間違いなくあるんだろうなという気はしますね。
安岡 まあ、宗教がなくったって、人類は争いながら生き延びるのは生き延びてきて、特に野蛮なのは生き延びて穏やかなのは滅びて、おそらくそういうことを続けてきたはずですよ。
― (苦笑)。でもそれじゃ私は個人的に生きていけないだろうから(笑)。やっぱり宗教に価値があるのかなあって。
安岡 野蛮さや攻撃性。それに歯止めをかけようという営為でしょうね。
― やっぱり、そういうことが嫌いな人がいたから、頭のいい人がそういう宗教のようなものを作ったんじゃないですか?
安岡 だからキリストがそういう意味では人類差別があっちゃならないとか。罪を犯したら悔い改めれば許してあげたほうがいいとか。これ宗教というのか哲学的な理性的な思考というのか、知性というべきか。そんなのはどちらでも良いんだけど、「その言や良し」ですね。
― はい。
安岡 それは別に「キリスト教」って語らなくても良いことは良いこととして当たり前のこと。しかし、今だに黒人差別やなんだか差別、民族差別というのがね。信仰者たちが持っているということ自体、そのことの矛盾の方が大きいし、本当の信仰者は少ないということでしょうね。
― だからキリストにしてもお釈迦さんにしてもやっぱり偉大な存在だっただろうし、勿論偉大な弟子も沢山いたんだろうと思うんですけれども、信徒の中にやはり、なかなかおかしな人間が多かったという(笑)ことになりますかね。あるいは正しく理解しないで歪めてしまう弟子が多かったというか。
ですから、何だろうなあ。宗教も組織的になるとどうしても問題が起きるのでしょうね。僕なんかも自分でやってきた経緯上、やっぱり集団組織として、しかも運動としてやると尚一層のことですね。おかしな所とかもたくさん見てきているし。まあそれでそこから逃げた人間としては、偉そうに余り言えませんけど。おそらくそれは日本の仏教に限らずキリスト教もイスラム教もいろいろ厄介なことは沢山あると思います。組織宗教というのは、やっぱりあまりいい感じはしませんね。今の時代を考えますとですね。
まあ、事前に話した核心の部分ですけど、最近人間関係が希薄化してしまって、孤独状態になって、それが行き着く一つの究極なのがやっぱりひきこもりの現象とか、まあ他人を信用できないとか、それが攻撃的でなくても。あるいは攻撃的な形で無差別殺人をして自分も自殺してしまうとか。何か世界に対して恨みを持って向かうような人が出てきたりとか。そこら辺りの現象についてお考えを伺いたいのですけれども。
安岡 その点はですね。お金が神様になってみたり、教会や宗門が堕落してみたり、さまざまな現象の中でそれこそ何を信じていいのかわからないというような、現代社会の人びとが増えている。まあ、社会もくるくる変わるし。価値観も変わる。やっぱり現代人は「浮き草のような」「彷徨い人」になっているんじゃないですか?自分の存在感覚というか、自己感覚が希薄となり、極端になれば存在を感じたくて訳がわからず「暴発」するか、あるいは無感覚なまま「麻痺」してしまうかということになっているわけです。
そこで、妙に聞こえるかもしれないけれども、人間ってやっぱり原点に戻って、我々は「か弱き存在」として地球上に生まれた290万種の1種に過ぎなくて、生態系を壊すほどの人口増加をして、科学技術は発達させて万物よりも一番力を持ち、万物を支配でき、自然界も支配できるのだというそのうぬぼれや傲慢さをいま一度反省して、謙虚な気持ちに立ち返ること。それが本来の自己存在感覚を取り戻すことであり、それが理性的になる・道徳的になるということではないでしょうか。
それを味わうためには、縄文時代の人間の生き方を再評価して、そして、純朴な祖霊信仰なりを再評価して、そしてまあね。素朴であるけれども純粋な、純なこころにいったん立ち戻る。原点に立ち戻る。そういうことを人類の共有としない限り自然の回復もね。この破壊が進行している自然の回復も、また人間性の回復も出来ないのではないかと。
そして最終的には文化の発展によって、知性や理性が人間にとっての「神」になるのが、平和をもたらす最大のポイントであるのです。そう考えるのが現時点での私の考えです。それを結論としたいですね。
ー本当にそうですね。実に考えさせられるところです。大変貴重なお話をありがとうございました。
(了)
安岡 誉
1944年 北海道深川市出身
札幌医科大学医学部卒 大学院医学研究科終了(医学博士)
札幌医科大学神経精飲医学教室講師
福岡大学医学部精神科講師
札幌佐藤病院副院長
札幌学院大学人文学部教授、同大学臨床心理学研究科・科長
現在・同大学非常勤講師。
(精神医学、精神分析学、臨床心理学)