この本の最初に第6章があった

 

杉本:本を読むと中井さんとの関係では、中井さんの仕事分野の話はそれほどされていなかったというか、まあ話をされるときは多少緊張感がともなうような感じだったと。これはお兄さんが書かれているのでしょうか。

 

村澤:そこは僕が書いたんです。

 

杉本:そうなんですか。

 

村澤:この本は本当に第5章6章を抜かして全部僕が原案を書いて、それを兄貴が書き足した。

 

この本は第6章が一番最初にあったんです。6章は去年出された中井久夫特集のムック本(『文藝別冊・中井久夫』:河出書房出版社)に6章部分の論文が初めに載って、「これを本にしたい」と。

 

杉本:なるほど。

 

村澤:この6章と、あと2015年に札幌学院大学でやった講演をあわせて本にしたいということだったんだけど、札幌学院大学の講演はね。ちょっと本にならないので。

 

杉本:そこでもし札幌に行けない時に備えたインタビュー収録を載せたということですね。

 

村澤:そうそう。編集してね。で、本の話を付け加えると、構想としては6章があって6章がだいたいの結びになるように書いてくれ、というのが兄の真保呂さんから僕へ来たオーダーなんです。

 

杉本:じゃあもともと本にしたいという話はお兄さんのほうへ来たんですか?

 

村澤:そうそう。だからまあ話は兄貴が先になってくるんですけど、そういうオーダーがあって、それを実現するのは僕の仕事ですよ(笑)だから彼の中ではここに着地点が来るようにそこまでお前書いてくれ、みたいな。

 

杉本:(笑)

 

村澤:杉本さん、文章に一貫性があると感想くれたけど、一貫性があるのはゴールが出来ていたから(笑)ゴールまで行くようにそこまで書いてくれ、みたいな。

 

杉本:ははは(笑)なるほどね。なかなか難しい課題ですね。そもそも6章が難しいですものね。

 

村澤:ああ、6章ね。だから6章とか7章は現代思想とかやってる人にはいいと思うんですよ。

 

杉本:臨床といいますか、看護関係者とか臨床心理を勉強している人にとっては、そこら辺はちょっと社会思想とか哲学にはいっていくので、どうでしょうね。ぼくも中井久夫さんの『世界における索引と兆候』を読むことには少し挑戦してはみたんですけど、挫折したんです。難しすぎて読めなかったんですよ。6章7章はその作品あたりがテーマだからちょっと難しいですよね。

 

村澤:うん、まあそうですね。この本全体を通して中井さんの思想というのは、「だいたい何なんだ?」というのがあるんですけど。まあ精神分析でもない。

 

杉本:はい。そうですね。

 

村澤:だけど中井さんは精神分析のことを良く知っている。まあ、土居健郎(どい・たけお)の弟子だからね。

 

杉本:ああ。弟子にはなるんですか。

 

村澤:いや、これがね。弟子らしいんですよ。師匠と思っているんですね。中井さんは土居健郎さんのことを。

 

杉本:なるほど。

 

村澤:何で僕が土居健郎の弟子でいられたかというと、僕は精神分析のことを喋らないから置いてもらえたんだ、みたいなことを言っています。土居健郎という人は精神分析の理論を振りかざす人をコテンパンに批判するみたいなところがあって、コンセプトに頼らないで自分で考えなさい、みたいなところがすごくあるらしいんですね。中井さんは自分で考えていくタイプなので、そういう意味で土居さんに可愛がられたところがあった。そいう関係性であったので、土居健郎を師匠だと思っているし、マイクル・バリントという人がいて。『治療論から見た退行』とか、『一次愛と精神分析技法』という本を書いているんですが、そのマイクル・バリントという人の“一次愛”とかね。そういう概念は土居健郎の「甘え」概念とすごく近くて、バリントの中では土居健郎が引用されたりしてるんですよね。

 

杉本:バリントさんの本の中で土居健郎が引用されてるわけですか?

 

村澤:『甘えの構造』は向こうで翻訳されているから。間接的にやはり土居健郎のことをリスペクトしてるんだなというのはありますよね。だけど精神分析に寄っているかというと、ほとんど中井さんの本の中で精神分析の概念が使われることはない。

 

 

 

睡眠と夢が重要

 

杉本:そんな気がします。夢に対する、夢作業ということはハッキリ言ってますが。

 

村澤:サリヴァンが夢をすごく重視しているから、それが出てくるんだけど、精神分析の意味では使ってない。

 

杉本:何というのでしょうね。現実に対するストレスを解消するための夢、という印象なんですけど。

 

村澤:ああ、そうですね。

 

杉本:解釈ではない、というか。

 

村澤:まあ昇華というかね。昇る華の「昇華」と、食べ物を消化する意味での「消化」の両方が含まれているような感じなんですけど。夢を見ている間に咀嚼されて、それで消化されるという。そのプロセスとしての夢とか、睡眠というのがすごく重要なんだけど、統合失調症とか、緊急状態になるとまず夢が見られない。それに疲れないということ。疲れないことによって、「負のものが増えていく」というか。出力できない状態になって「出力できない状態」というのがどんどん溜まっていくわけですよね。で、そこで症状みたいな形で出力がされたならそれは神経症レベル。強迫症状とかね。あるいは熱とか病気とか。身体症状とかで出て、出るとそこで強制的に休止状態になりますから、まあそこで解消されるわけですよね。だけど統合失調症の場合はそうはならないという。マイナスのインプットはいっぱいあるけれども、どんな形をとってもアウトプットが出ないので、突然それが統合失調症の発症という形をとってしまうという。そういう形になるわけです。

 

杉本:なるほど。ちょっと先取りした話になっちゃいますけど、そのアウトプットができない形になってしまうというのは、いわゆるサリヴァンがいう「自己」というか、セルフの話ですかね?端的に言ってしまうと。

 

村澤:う~ん。そうですねえ…。

 

杉本:あの、「あいまい」なんですよね?「セルフ」というものは。中井先生もそうとらえていると思うんですけど。先ほどいったように例えば精神分析理論ではフロイトがいう三重構造になっていて、無意識・意識・超自我で、自我がエス(本能的欲動)の部分と超自我(道徳的倫理観)の部分のコントロールをし、自我が健康に作動すれば常識的な人間としてやっていける。要するに心にはちゃんとした構造があって、心というものが実体概念として存在すると考えるじゃないですか。ベースとして。そういう風にはサリヴァンは考えているように思えない。でもサリヴァンもいちおう精神分析…。

 

村澤:いや、サリヴァンは精神分析的医と名乗っていた時期もあるけど、精神分析ではないですよね。

 

 

 

「心」を実態概念として捉えない

 

杉本:心の三重構造という言い方は中井さんもしませんし、おそらくサリヴァンもしないんですね?

 

村澤:まあ「エス」とかね。「超自我」という概念は全く使わないし。

 

杉本:そこでやっぱり思うんですけど、例えば土居健郎さん。フロイト派ですよね。ユング派であれば河合隼雄さん。それらの巨人と双璧をなす中で中井久夫さんの場合は端的に言って、一番受け持ってきた大きな仕事って統合失調症の分野ですよね。『最終講義』のあとがきなどを読むと自分が一番尽くしてきたのは統合失調症の部分だってはっきり書かれています。中井さんは神経症治療の人ではないと考えているわけではないですけれど、統合失調症を考えるときに心の実体概念を考えることをしない、というのはやっぱり意味があるんじゃないかな?とちょっと思ったんですけどね。

 

村澤:う~ん。

 

杉本:もっと広い、何といったらいいのかな?寛解、でしょうか。症状が落ち着いていくために必要なものというのは身体症状だったり、環境だったり、さまざまな物理的な要素。

 

村澤:うん。だから考え方として、「心とは何か」という問いは立てないですね。

 

杉本:そう思いました。

 

村澤:心はどうでもいいんです。まあ、心はどうでもよくて、とりあえずうまく生きることが出来ればそれでいいじゃないか。そういう発想だと思いますね。

 

杉本:まさに寛解の過程を記述するとき。きわめてお医者さんですよね。

 

村澤:そうですね。

 

杉本:臨床のお医者さんの王道ですよね。因果関係をはっきりさせるとか、そういう思想ではないですよね。

 

村澤:そうですね。だから因果関係をはっきりさせて演繹的に心はこういう構造のはずだからこうしたらいい、ということは言わなくて。いろいろやってみたらこう良くなったから、これで良くなってきたということは心はこういう性質なんじゃないかという、どちらかというと帰納的な思考ですよ。演繹的な思考よりも帰納的思考を積み重ねて考えていく。「心とは何か」という問いはとりあえずカッコに入れておいて、何をしたら良くなるのか?と考える。

 

杉本:病んでいる人がどうすれば苦しみから少しでも解放されていくのか?というほうが重要だというのは読んでいて良く分かります。だから「治療」という言葉を使ってますから良いと思いますけど、治療に必要なこととして、物理的な条件だけじゃなくすごく細かく書かれてますね。声かけとか。その場に応じてどうしたらいいのか、という記述がすごく具体的に書かれているし、これらの記述は今でも統合失調症の人などを見ていくときのお医者さんの診療にも活用されている?

 

村澤:そうなんじゃないかな。ほかにね。もっといい本があればいいんでしょうけど。まだ無いというか。一説によるともう統合失調症の人がそんなにいなくなっちゃったとも言われています。

 

 

 

一定ラインを越えない回避ができる時代

 

杉本:そうなんですね。いや、ぼくも読んでて思ったんですけど、たぶんこれは『最終講義』に書いてあったのかな。躁鬱病は2000年前から発見されたんだけど、統合失調症というか、当時は分裂病と呼ばれていたわけですけど、19世紀に発見されたもの。クレペリンでしたっけ。彼以降。まあ近代医学以降に発見された病いですということも書いてあった。だから統合失調症というか、分裂病というか、ある程度僕も10代のとき、ボーダーラインとか呼ばれていた時期がありますから、そこでデイケアとかに通うといかにもの人たちがいるわけですよ。緊張状態の人とか、頭から熱がウワ~と湧き上がっているようにみえる人とか、あるいはおそらく破瓜型といわれるような人とか。そして昔は街にもふつうにいましたよね。緊張状態の人や、独り言を言っている人とか。だから「ああ、精神病なんだ」と。そういう人たちは本当に見なくなりましたね。

 

村澤:いまでは薬でコントロールされてる部分もあるんでしょうけど、でも何か減ったと言いますよね。

 

杉本:そうすると何か状況的に埋もれて、状況とともに減っていっている病気なのかなあという気もして(苦笑)。不思議な感じもするんですけどね。どういうことなんでしょうね?これは。

 

村澤:まあ、それはねえ。きわめて難しい問いなんですけど、ひきこもりの人とか、発達障がいの人が増えていることが関係していることなのかなあって。思いますけどね。

 

杉本:もしかして、統合失調症とむかし括られていた人が、発達障がいという言い方のほうに括られてしまっているとか?

 

村澤:う~ん。まあ、昔の統合失調症の枠内に発達障がいの人がまざってたのはあるとは思うんですけど。だけどこれは分からないんですけど、ある一定ラインを超えると統合失調症が発症するとしたら、そのラインを越える前に別の回路で「回避」というのかな。まともに突破するんじゃなくて、そのラインを回避するような形をとっている中にひきこもりと呼ばれる形のひとは結構いるかなあという気が。

 

杉本:昔はひきこもれなかったから、爆発せざるを得なかった…。

 

村澤:そういうのはあると考えられます。

 

杉本:ある種の抑圧される状態。身体的にも抑圧される状況で、それでも外に出ていかなくちゃならない状態があって、急性の発症みたいなことになったりすることが昔はあったかも。その前に現代は回避してひきこもって、落ち着いていたりとか。そうなっている可能性があるかもしれないということでしょうか。

 

村澤:なんかね。そこはちゃんと研究しなくちゃいけないところですが。

 

杉本:そうですねえ。

 

村澤:中井さんの思想を引き継ぐうえでやっぱり『分裂病と人類』という本もそうなんだけど、「微分回路」とか、「積分回路」とかいうのは面白いんですけど、それには発達障がいが全然位置付けられていない。

 

杉本:そうでしょうね。(80年代前半という)時代的にも。

 

村澤:けっこう分裂気質という中に発達障がいについての指摘が混ざっていますね。

 

杉本:そうなんですか。

 

村澤:過敏なところとかね。

 

杉本:ああ、感覚過敏とか。

 

村澤:うん。まあ、発達障がいというものも含みこんだ形でもう一度読み直していくというのは必要だろうなあって思いますね。

 

杉本:なるほど。素人にはそこまで読み込めないんですけど、やっぱり臨床研究している村澤先生としては中井さんの本の中からこれは発達障がいの分野で読み込んだほうがいいという部分もあるかもしれないと。

 

村澤:そうですね。R.Dレインという医者がいるじゃないですか?レインの『引き裂かれた自己』なんかは、むしろアスペルガーの人そのまま、みたいな例が記述されています。

 

杉本:そうなんですか。そう考えると発達障がいというカテゴリーもその時代の変遷の中で生まれているということが言えそうですね。

 

村澤:そうですね。

 

 

 

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土居健郎―(どい たけお1920- 2009年)。日本の精神科医、精神分析家。東京大学名誉教授、聖路加国際病院診療顧問。 東京生まれ。東京帝国大学医学部卒業後、米国メニンガー精神医学校、サンフランシスコ精神分析協会に留学。

 

著書『「甘え」の構造』は日本人の精神構造を解き明かした代表的な日本人論として有名であり、海外でも、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、中国語、韓国語、インドネシア語、タイ語で翻訳が出版されている。(Wikipediaより)

 

マイクル・バリントー(Michael Balint 1896- 1970年)。ハンガリー出身の医学者、精神科医[。ユダヤ系でハンガリー名はバーリント・ミハーイ(Bálint Mihály)

 

1920年にブダペスト大学医学部を卒業した。ベルリンで働いたのち、フェレンツィ・シャーンドルに師事。1938年にロンドンに移住し翌1939年、マンチェスターに居を構えた。基底欠損、対象にしがみつくオクノフィリア、スリルを求めるフィロバット(フィロバティスム)等を定式化した(Wikipediaより)

 

『分裂病と人類』―中井久夫著。1982年、東京大学出版会

 

不適応を巡る表現のあいまいさ