不適応を巡る表現のあいまいさ
杉本:仮にもし躁鬱病が2000年前から分かっていることだとして、19世紀になってから統合失調症というか、分裂病という形で新たに「狂気」というかね。まあ、狂気の発露が分裂病といわれる形で発見されて、もちろんそれは無くなっているわけではないけど、今度21世紀になると発達障がいという、今はどちらかというとみんなの口にのぼるのは発達障がいという言葉ですよね。最近は統合失調症の分野ってあんまり語られなくなってきたというか、ましてや神経症とかノイローゼという言葉は最近あんまり言われなくなりつつあって。
村澤:だから「ボーダーライン」という概念や、境界性人格障害みたいなものも、もうあんまり出てこないですね。
杉本:あいまいなんでしょうか?人間の心というか。何というのかな?不適応に関しては。
村澤:ええ。だから「ひきこもり」というのはわりと長続きしているほうじゃないですか?
杉本:(苦笑)いやでもそれもだいぶ遠景のほうに引いてきているのかな?という気がしていたんですけどね、なかなか……。
村澤:まあね。そろそろそんな感じかなと思いますが。例えばリストカットは2003年くらいがピークで、2010年くらいからは下火になってきた感があります。
杉本:そうなんですか。あれは何だろう、抗議なのかな?表現としての。
村澤:うん。コミニケーションスタイルだと思うんだけど。
杉本:ええ。コミュニケーションでしょうね。
村澤:リストカットなんかは明らかにスマホや携帯の普及とパラレルだろうと。だからコミュニケーションスタイルが大きく変わりましたから。
杉本:その時代時代で。まあ僕もそうなのかもしれないけど、時代時代で不適応を起こしたときに名付けられるものがあって、もしかしたら今でも苦しんでいる人もいるかもしれないけれど、けっこう対人関係がうまく行かなくなって何か逸脱した表現だと思われているものにつけられる名前がけっこう頻繁に変わってきている。
村澤:うん、うん。
杉本:いわゆる「この病気は、この病気」というスタイルでは言いにくくなっている。
村澤:そうですね。
杉本:そういう意味では分裂病ね。統合失調症になりましたけれど、まあ長いですよね、やっぱり。時代変遷から考えると。
村澤:うん。
杉本:ただ、急性の精神病状態のときの、なった人の苦しみ方というのは言葉では形容できないくらいのものだと…。
村澤:うん。そう言いますよね。僕もちょっとあまり経験があるわけではないので、何とも分からないですけど。
村澤:中井さんのお弟子さんです。
杉本:ええ。あの方なんかも本で、要するに被害妄想とか、まあ妄想ですね。そのような形で表現されるんだけれども、妄想の言葉で表現している部分からみんなおかしいと言うけれども、実態は言葉には限界があるからそういう言葉で表現せざる得ないのであって、実は言語を絶する驚愕?それこそ墜落するような感覚とか、天上にのぼっていくようなものとか、そういう凄い状態なんだ、みたいなことが書いてありまして。「あ、妄想表現の次元を超える体験を内面的にしているのか」とぼくもちょっと驚いたんですけど。同時に中井久夫さんも少し読んでいたと思うので、改めて「そうか、やはりそういうことなのか」と思いました。
村澤:うん。まあそうなんでしょうね。何か言語を絶するような体験だとはいいますね。わかんないですけどね。そこはちょっと。
事例を出さないことの意味
杉本:中井久夫さんの本から思うことなのですが、一般の啓蒙書によくありがちなこととして、事例を出してくることが多いと思うのですけど。中井さんの本ではほとんど事例を出さないですよね。
村澤:出さないですね。めったにね。
杉本:だからこれは「そういうことじゃないんだ」ということだと思ったんですよね。こういう人が発症しやすいとか、むかしよく言われた遺伝病だとかね。親の遺伝が子どもへとか良く言われてたと思うんですけど、そういうものではないとおそらく中井さんは思っていたと思うんですよ。だから病前性格みたいなものに触れていないんだと思ったんですけど。
村澤:そうなんですよね。
杉本:ただ看護に関する本。あれではさらっとだけど病前性格的な。つまり反抗期がなかったとか、あとは家庭の中での調停役みたいなものを引き受けてしまった末に、みたいな形で触れてますけど。よくありがちなこういうエピソードがあった末に発症しました、みたいなことは書かないですよね。中井さんは。
村澤:あんまり考えてないんじゃない?
杉本:考えてないんですか?
村澤:まあ考えてないわけじゃないけど、例えば病跡学とかね。そういう所で*ヴィトゲンシュタインとか、まあヴィトゲンシュタインもいまでは自閉症みたいな言われ方してますけど。そういう病跡学とかについて語っているときにはやっぱり病前性格みたいなこと、つまり準備性みたいなものは語ってます。ですから全然考えてないわけではないと思いますけど。だけどおそらく過去にさかのぼって何かを語ることには意味がないと思っている。
杉本:僕もそういうことなのかな?って。思いましたね。むしろいま現在をどう対応していくのか、という…。
村澤:そう。これから先のことですよね。
村澤:ね?だからあれなんかはまさに何というか(笑)
杉本:ははは(笑)
村澤:ひきこもりの話、ですか?(笑)
杉本:そうそう(笑)俺の話じゃんか、という。一番自分としては入りやすいというか。
村澤:(笑)まあねえ。そんな感じ。
杉本:「ふつうの生き方」したところであんまりいいことはないね、という(笑)。あと、病前性格の話とは違うんですけど、いわゆる兆候とか、予感から兆候を感じやすい人。それを昔の狩猟採取民族の時代までさかのぼってそういう傾向を持っている人が現代では生きづらいのであろう、という話もされてますよね。まあ、それも仮説なんでしょうけど。
村澤:そのあたりがもうちょっとADHDとか、自閉症とどこが違うの?みたいな話になってくるわけですね。
杉本:そうですか。
村澤:兆候を感じやすいとか、自閉の人の過敏性だとか、ADHDの人の非常に注意が多角的に向いているとか、それとどう違うのか?という風になっちゃうので、そこがまともに統合失調症の人の病前性格が発達障がい的な感じになっちゃうのですが、これはちょっとおかしいのではないかというね。もしそうだと発達障がいの人は統合失調症になる可能性が高いみたいなことになっちゃいますから。そういう話はたぶん疫学的にどうなのかということがある。
杉本:どうなんでしょう?発達障がいになる人もいれば、統合失調症になる人もいる、みたいには言えませんか?
村澤:うん。だからあんまり病前性格というものを考えないほうがいいんじゃないかな。そう思いますよ。
外面的な適応ではなく、内面的な平静さを求める
杉本:確かにそうですね。ですから他の人との比較の話がいいのかもしれませんけど、例えば河合隼雄さんのわかりやすい深層心理学ですかね。カウンセリングの方法、みたいな一般の人向けに母性的にやさしく書いている本とか、土居健郎さんの日本人の文化的な性格とか、むしろ身体的な状態ではなく、心の深層みたいなところに特化していく話が多いと思うのですが、これは勝手な憶測なんですけど、やはり病院勤務をしているということで、入院すると病院の中でどういう職種の人がいてどういう役割を果たすか。看護師さんが付くとかね。それから初めての入院のときには不安が高まる時期なので医者が一緒にすごす。治療的合意に関する部分ですよね。本人、家族、医者が会って合意を取り付ける。それから薬を飲むということも合意をうまく取り付けることが慢性化を防ぐための大きな要素だみたいな話が出て来たり。非常に細かい。何といったらいいか。別にマニュアル的だという風には思わなくて、もっと深いんですけども。
村澤:できるだけマニュアル的に作りたいというのはあったんじゃないですか?まあとにかく統合失調症の人を治療というのはなかなか難しいのかもしれないけど、より穏やかに、安心して暮らしていけるには「心の平静」とかね。平静な生活をとり戻すまでどうしてあげたらいいだろうかというのを考えるわけじゃないですか。だけどそういう発想の精神医学というのがなかった。生活療法という形ではあるわけですけど、つまり生活スキルですね。ソーシャル・スキルをどう身につけさせるかという。内面の問題ではなくて、外面的な適応を促す治療。言ってみればまともな人に見えるようにするにはどうしたらいいのかとか、社会的な生活を送るためにはどうしたらいいのかという外面的な適応を促すための療法か、あるいは病理学的に異常性とかね。原因を探っていく研究。そういうものしかなかった時代に、「そうじゃないんだ」と。内面的な平静というか、安心した生活が出来て初めて、その人らしい生活を作っていくにはどうしたらいいか。そういう視点で看護をしなければいけないという発想で、そのためにマニュアルというものを作ったのが良かったんじゃないですかね。それが*『精神科医療の覚書』ですけれども。でも、そういう発想で書かれた本というのがそのあともやっぱりあまりないということだと思いますね。
杉本:いまも中井久夫さんの本を読んで実践されているという感じかもしれないですね。
村澤:そう。でもね。いまでもやっぱりソーシャル・スキルとか、外面的な適応とか、そういう所での話ばかりになってしまっているので。
杉本:薬物で治して、そこから先は…。
村澤:ソーシャルスキル・トレーニングになっちゃう。
杉本:社会適応みたいな?
村澤:うん。内面とか、そういうのは問わないという形になっちゃうんじゃないですか。
杉本:まさに。
村澤:そういう面ではね。いまだに中井先生の研究というのは特異な位置にあるんだろうなあって思いますね。
杉本:また文章がね。すごく。
村澤:文章はね(笑)好き嫌いはあると思うんですけど。
杉本:確かに今の世代が読むとちょっと硬くて難しいと思われるかもしれないですけど、でも気品がありますね。もちろん他の文芸の分野でもね。かなりの文章を書かれる人だから。
村澤:まあ、流暢というかね。
杉本:流暢だし、穴がないですよね。なんて、分かったようなことを言ってますけど(笑)。
村澤:やっぱりひきこもりの研究につなげても。けっこうひきこもりについて病理性から研究するというのもあれば、どうやって適応していくのか?ということを言いがちじゃないですか。
杉本:まあ、斎藤さんとか。
村澤:斎藤環さんなんかも結局、まあ病気という枠で見てますもんね。
杉本:まあまあ、そうなんでしょうね。「精神科がやるべきである」という風に言ってますからね。
村澤:だけど。そういう意味ではね。*富田富士也さん?
杉本:ああ。僕が一番最初に「ひきこもり」という言葉で影響を受けたのはあのかたなんですよ。手紙も書きましたからね。
村澤:あの人の本とかというのは、割と中井さんに近いと思います。
杉本:ほお~。そうですかぁ。
村澤:そんな気がするんですよね。何というか、温かみがあるというか。
杉本:そうなんですよねえ。そう、温かみというのは大きいですよね。中井さんももちろん昔の人だからちょっと表現としていまはこの表現は使えないぞというのはありますけども。でも「温かさ」というのは一貫してありますよね。
村澤:ね?
杉本:いたわりの感覚というか。
村澤:いたわりの気持ちがありますよね。そう、同じ人間としてどういたわるか。そういう視点が感じられるんです。
杉本:なるほど。中井さん自身「誰もが精神病になるものを持つ」と言いますよね。だからそれは先ほどの病前性格を書かないとか、事例研究を書かないということとも繋がるんでしょうけれど。書かれているのは超覚醒状態になってしまって、そこらへんから危うい予兆が始まるみたいな。その急性の精神病状態になってという過程は詳しく書いてますけど、じゃあその前にその人がどういう人だったかということはまず書かれていないですね。それは他の本を読んでも一貫してそのような印象があります。こういう人が病気になりやすいとか、そういう分類的な性格のものはほとんどない。
セーフティネットをかけあっている生命という暴走装置
村澤:こういう人は病気になりやすいというよりも、こういう状況が重なると。まあ条件に付いてはその人の条件ではなくて、その人が置かれた条件については言うと思うんですね。頑張らなくてはいけないとか、過度なストレスとか、父親とか母親の条件とか。そういうのが積み重なっていくとその人のリスクなんだという話はするけど、その人自体がリスクを持ってるっていう発想と違って。逆に言うと人間との関係で「原子炉」の話があるんですけど。人間というものはもともとリスクの塊で暴走するのが当たり前、みたいな。発症するのが当たり前、くらいのそういう状態にあるのがいろんな形でバリアというか、いろいろなセーフティネット、多重なセーフティネットを張ることでかろうじて暴走がふさがれている。そういう原子炉みたいなものだと言う。で、原子炉を運営する意味では何かひとつのセーフティネットで守っているわけではなくて、沢山のセーフティネットがあるからこそ運営されているということですね。でよく、「事故」の話をする。僕も書いたかもしれないけど、航空事故の話なんかを出すんですけど、飛行機というのは本当に多重のセーフティネットをかけて絶対に事故が起こらないようにしているにもかかわらず、起きてしまう。それは何故かというと、セーフティネットの網の目は迷路みたいな網の目になっているのだけれども、偶然その解けてはいけない迷路が解けちゃう時があって、その時に事故が起こるんだという。万の一も解けないはずの迷路が解けちゃうときに事故が起こるというんですけど。統合失調症はいわばそういうことだ、と。たぶんそういうことのようなんですね。人間というのは暴走しちゃう。生命というのは暴走するエネルギーみたいなものがあるので、多重なセーフティネットをかけてむしろ鈍感にさせて、麻痺させて鈍感になっているはずのところ、そのベースメントが解けて、超覚醒してしまうという。そんなことが起こるんですね。だから「エヴァンゲリオン」みたいな話ですね。
杉本:あの~。僕もね。学生時代に一人暮らしを始めたときに、良くなかったんですけど布教がらみの冷やかしみたいな感じで。アパートに住んでいたちょっと精神的に不調だという人に友だちと一緒に会いに行ったことがあるんです。その時やっぱり何というか、一人暮らしでしょう?親元から離れて遠くから来て、で、会うとやはり統合失調症の訴えだったんです。自分の身体に盗聴器みたいなものが仕掛けられていると。そこにちょっと引っ掛けて私もいろいろと興味本位で突っ込んだりして、申し訳ないことに妄想を助長するようなことを聞いたんですけど。まだ人間を構築する10代後半の青年期初期で、ひとり暮らしだと孤独な時間が長い、という条件が重なりやすい。そこは僕も先輩とか友だちが周りにいたことで守られていたところがあった。自分の親から離れて行きたいと思ったけど、たった独りで自分の力量ひとつではなかなか難しい。そういったときにちょっと何かのきっかけで病理性がね。で、その病理性を守ってくれる何かがないと、けっこう行くところまで行くことがあるのかなあ?と。話を聞いて思いますね。
もうひとつは、やはり青年よりも中年の人が初発で統合失調症になるという話は滅多に聞かないと思うんですよ。
村澤:やはりサリヴァンなんかが言うのは、第二次性徴期ですよね。第二次性徴というので、性的欲求とかいうのが出たときに今までのセルフシステム、安定してたシステムが非常に脅かされて、不安定なってしまうという。それとの関係で統合失調症というものが発症しやすいとサリヴァンなんかは考えている。で、第二次性徴というのが治まってくるとそのリスクは減っていくわけですね。
杉本:何か自分の中から新しい性的なものが出て、エネルギーが生まれてくるときに不調が生じる?
村澤:うん。いままで安定していたものが、保てなくなるという感じでしょうか。
*滝川一廣―(たきかわ かずひろ、1947年 - )日本の児童精神科医・臨床心理学者。前学習院大学教授。 愛知県名古屋市生まれ。1975年名古屋市立大学医学部卒業。人間学的精神病理学の立場を取り、統合失調症や自閉症などの精神障害を異常性と捉えず、人間が本来持っている心の働きの一側面が突出して現れた姿であると捉える。(Wikipediaより)
*ヴィトゲンシュタインールートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(独: 1889年- 1951年)。オーストリア・ウィーン出身の哲学者。のちイギリス・ケンブリッジ大学教授となり、イギリス国籍を得た。言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶが、第一次世界大戦後に発表された初期の著作『論理哲学論考』に哲学の完成をみて哲学の世界から距離を置く。その後、オーストリアに戻り小学校教師となるが生徒を虐待したとされて辞職。トリニティ・カレッジに復学してふたたび哲学の世界に身を置くこととなる。やがてケンブリッジ大学の教授にむかえられた彼は、『論考』での記号論理学中心、言語間普遍論理想定の哲学に対する姿勢を変え、コミュニケーション行為に重点をずらしてみずからの哲学の再構築に挑むが、これは完成することはなく、癌によりこの世を去る。享年62歳。(Wikipediaより)
*『世に棲む患者』―「世に棲む患者 中井久夫コレクション第1巻」 (ちくま学芸文庫)
*『精神科医療の覚書』―中井久夫著。1982年、日本評論社。
*富田富士也―静岡県御前崎市出身。教育・心理カウンセラーとしてコミュニケーション不全に悩む青少年への相談活動を通じ、絡み合いの大切さを伝えている。『コミュニケーションワーク』の学びを全国的に広めている。千葉明徳短大幼児教育科客員教授、千葉大学教育学部非常勤講師等を経て現在「子ども家庭教育フォーラム」代表。