「働きなさい」
杉本:そうですか。それでまた話を戻して申し訳ないのですが、福岡で青春期内科にちょっとだけ入院してその後通信制に移り、大検を受けて体調が悪いながらも大学に入ったと。
林:ちょうどその20才くらいの頃にはもう両親の実家である東京に戻るということになってましたので。
杉本:実家、東京なんですね?
林:はい。その東京の父方の実家、いまの実家ですけども。そこに戻っていちおう東京の私立大学に入学するんですけれども、ただそこもGWくらいまでは行ったのかな?でもやっぱり体調の悪さとあと、電車を3回乗り継いでいかなくてはならなかったんですよ。その距離感がわからないんですよね。4本乗るということですよね、3回乗り換えるということは。私、東京の満員電車というのが本当に駄目で。「家畜じゃないんだから」と思っちゃったんですよね。あの距離感で自然な顔して乗れてることのほうがおかしんじゃないかなってすごく思っちゃって。
杉本:それは高校時代からある同じ思いですね、うん。
林:それはね。さすがに私、親とか従兄弟たちにも「ちょっとあのラッシュは無理だよね」って話をすると、「いや、あんたがおかしい」と。「みんなしてるんだから」と。すごく言われたんですよ。それ以来、言わなくなりましたね。東京の人には。満員電車は嫌だ、って。
杉本:あはは(笑)。
林:(笑)。まあでも、いまでもおかしいなあと思います。
杉本:私も札幌でも無理ですよ。駄目ですよ。
林:(笑)。
杉本:もう駄目、全然駄目で今でも自転車ですからね。冬場意外は。あとはまあ、バイトは早朝なのでね(笑)。とりあえずラッシュというのは経験ないんです。
林:なんかおかしいと思いますよね。それも一時間、一時間半と乗るわけでしょ?殺人的ですからね。
杉本:そうですね。常に身体がクタクタの状態で学校に行くということになりますよね。それで学校のほうも通えなくなった?
林:中退ですね。
杉本:そうですか。それからはどうされました?
林:ウチはいちおう母から「大学に行かないなら、働きなさい」と言われまして。
杉本:(笑)あの、「家事手伝い」とかいう発想はお母さんにはないんですか?
林:なかったですね。で、おこづかいは出さないと。「働きなさい」と。すると交通費がないわけですよ。どこに行くにも交通費かかりますし。だからもう働かざるを得ないということで、ただ、16のときから昼夜逆転がずっと続いて30代入るまで丸20年昼夜逆転してたんですよね。昼過ぎに起きて、明け方に寝るような生活をしてて。
杉本:大学、昼夜逆転してたら行くことも大変じゃないですか?
林:そうです。だから本当に2ヶ月くらいしか持たなかったですね。無理やり起きて、ということですよね。
杉本:そうですよねえ。
林:で、まあでもバイトしなきゃと思って、家の近所に学習塾があって。塾って午後からなんです。
杉本:あ、そうですね。子どもたちが帰ってきてからですよね。
林:はい。で、アルバイトも当時2時くらいからだったのかな。夏期講習からはじめて。それで午後のアルバイトを探して、そこへ通うように。
杉本:教える仕事ですか?
林:えっとね。最初は試験官みたいな。子どもたちのテストの。で、のちに小中学生の算数、数学を教えるようになりましたけど。結果的にはその塾は先生がたがけっこう変わった先生が多くて。そこが良かったんですね。で、結局そこには7年くらい通いましたね。ただ一方でその間もずっと病院には通っていて。
死んでるように生きている
杉本:病院というのは?
林:精神科クリニックですね。東京に来てから2回転院して、私、泉谷先生に辿りつくまで8人先生にかかってるんです。
杉本:じゃあこのクリニックに通っている期間はいまひとつ自分とはピッタリこないなと思って通っていた感じですか?
林:そうですね。悪い先生ではなかったんですよね。だけどやはり回復しないんですよね。せいぜい現状維持。
杉本:なるほどね。ええ。
林:そういう動き(アルバイト)はあっても、16のときから20代の精神状態というのは、本当によく死なずに生きてるなという感じ。あの、「死んでるように生きてる」とずっと思ってましたから。もう絶望感の中、ただ身体だけ塾に行って、とても生きている実感はなかったです。最悪のときですね、精神状態としては。
杉本:そうですか。
林:27くらいまで塾のバイトしてて。で、たぶん26か7くらいだと思うんですけど、そのときにまた行かれなくなるんですよね。仕事に。
杉本:体調がまた崩れちゃったんですか?
林:体調はね。その時もずっとよくはなかったんですよ。ただたぶんその時は精神的なものだと思います。家から本当に出られなくなった。身体が、というより気持ちが動かないから、身体もついてこれないみたいな。
杉本:あの~、何か蓄積されてて、それでも仕事はしなくちゃいけないと思い塾の仕事はずっとしてきたけれども、とうとう力尽きちゃったみたいな感じですか。
林:そうです、まさに。で、そこから約2年間。ほぼ病院以外はもう。
杉本:ひきこもり状態になっちゃったと。
林:ひきこもり。本当にその通りですね。もうエネルギーが完全に。
杉本:枯渇した、みたいな。
林:そう。枯渇した。
杉本:ふ~む。じゃあ、何だろうなあ?16才くらいからずっと感じてた、もともと先ほど林さんが仰られたように、管理されている自分とか。ラッシュもね。その延長線上に連想されるものかもしれませんけど。自由な身体を持っている自分というものが。学校も管理、会社も管理、東京のように沢山の人がいる中で乗り物にも詰め込まれるみたいな状態の所で。身体が悲鳴をあげてしまった、という感じなのでしょうかね?
林:そうですね。
杉本:この16のときから27くらいの間で、たとえば精神科の人はあてにならなかったとしても、自分にとって「あ、私はやっぱり世の中に対して反発的な意識を持っているんだ」とか、何か刺激となる表現との出会いとか。そういう「自分の意識は実はこっちなんじゃないか?」みたいなことはなかったんですか?読んでる本とか音楽とか。
林:そうですねえ。あのね、私、音楽とかはすごく好きで。実際ライブにはよく行ってたんですね。当時、日本のロックがすごく好きで。
杉本:当時の日本のロックはどういう?
林:(笑)ものすごいマニアックって言われるんですけど。
杉本:いやあ、僕もマニアックな人間ですから。ロックも。
林:えっとね。昔80年代に「UP-BEAT」というバンドがあったんですよ。
杉本:アップビート?
林:はい。
杉本:ああ、それは知らないな(笑)。
林:BOOWYとかの下の世代の流れといわれてますけど、UP-BEATとか、グラスバレーというバンドがあったり、あとソニーのね。レベッカとか、バービー・ボーイズとかいろいろいましたけど。
杉本:はいはい、80年代の。
林:はい。80年代よく聴いてましたけど。あの~、ロックはすごく好きで。で、ライブって夜じゃないですか?
杉本:そうですね。
林:だからそれには行けたんですね。
杉本:ああ~。
林:いつも一人で行ってましたけど。
杉本:あ、ひとりで?へえ~。
林:で、チケット代が欲しいわけですよね(笑)。だからそのためにバイトに行ってた、みたいな。
杉本:なるほどね(笑)。
林:本当にそのライブの2時間だけは生きてる実感を得られるというか。
杉本:うん、うん、うん。
林:そうでしたね。いや、でもずっと音楽は聴いてましたし。
杉本:でもロックという所はちょっとなにかあるんでしょうね、きっとね。
林:あるんでしょうね。
杉本:自由、というのかな。
林:反骨精神(笑)というか、自由というか。ジョン・レノンも好きでしたね。私、ビートルズはあんまりピンと来るタイプではなくて。でもジョン・レノンは好きでしたよ。
杉本:ほお!レノンのどのアルバムが好きだったですか?
林:どのアルバムなんだろう?まあヨーコと一緒に写ってるやつとか。
杉本:もしかしてファースト・ソロアルバム?
林:おそらく。
杉本:歌詞、どうでした?ははは(笑)。あれはすごいですよ(笑)。
林:そうねえ。でも共感してたと思いますね。
杉本:へえー。僕には永遠の名作のひとつですけどね。僕にとってはですけどね。
林:ああ、そうですか。
杉本:さすがにこの歳になると、『イマジン』のほうがいいかもしれないけど。ただね。僕は『ジョンの魂』には相当しびれてた時期がありましたね。
林:そうでしたか。
杉本:驚きましたからね、歌詞には。元ビートルズのリーダーがソロになってあまりにも赤裸々な表現をするということの落差にびっくりしましたね。
スクールソーシャルワークとの出会い
林:あとですね。音楽とか本以外に、実は私21のときにスクール・ソーシャルワークというのに出会うんですね。で、山下英三郎さんという日本で初めてのスクール・ソーシャルワーカー。ご存知ですか?
杉本:名前は聞いたことがあります。
林:この山下さんが東京の朝日カルチャーセンターでスクール・ソーシャルワークの講座を始められたんですね。もう28年前かな。私、山下さんが朝日新聞に載っている記事を読んで、不登校の子を訪問するというのを読んで何かピンとくるものがあって、そこに通い始めるんですね。
杉本:はい。
林:もちろんそれはスクール・ソーシャルワーカーになりたいというよりも、自分のためにと思って。
杉本:ええ。自分のためにね。
林:そこで出会った講座に来てた人と私、はじめて自分と似たような人と友だちになって。その人とはいまでも付き合いがあるんですけれども、そこで講座の修了生が「JOJOの会」というのを作り、勉強会を始めるんですね。そこでも当時、東京大学にいらした※石川憲彦さんという方であるとか。そこで私、「東京シューレ」とも出会うんですね。前後しますけれど20才の大学にいけないと思ったときに当時東京シューレを知って、電話をしたんですよ、東京シューレに。その時にいま川崎で「たまりば」というフリースクールをやっている※西野(博之)さんが電話に出てくれたんです。
杉本:一時期、シューレにいらっしゃった頃ですね?
林:スタッフだったので。で、ちょうど今日、きみと同い年の人がここで話をするから来てみない?って言ってくださって、東京シューレに行ったんですね。その時シューレが2年目か3年目だと思うんです。今年シューレは30年だと思うので。そこで同い年の男性で、小学校のときから学校に行ってないという人と出会って。そんなところからちょっと東京シューレ界隈に出入りするようになり、同じ経験をした当事者とのつながりが出来たんです。で、彼らや山下さん、石川憲彦先生と出会い、知り合って割と交流するようになるんですね。それは当時の私にとってかなりの救いではありましたね。
杉本:いい意味で逆説的というか、子どもたちに問題があるんじゃなくて、制度とか学校側のほうに問題があるという考えかたですよね。非常にざっくりとした言い方をすれば。
林:で、その考えに私自身支えられ、ようやく少し自分を肯定できるように。
杉本:自分の問題というよりはもしかしたら学校の問題ではないか、と思えてきたということですかね?
林:はい。で、当時筑波大学に※稲村博さんという教授、齋藤環さんの師匠にあたるかたが。
杉本:ああ~。はい。
林:稲村さんの、当時不登校の子を強制入院させて隔離して、ということに対する抗議の活動なんかにも参加してたり。それはそれでひとつの支えではあったんですね。ただ、実は私、そこからたぶん5~6年でひきこもるくらいまでの間に私なりに疑問を感じ始めた部分があって。それくらいで不登校界隈から離れるんですよ。その疑問は何かといえば、大きく言えば2つあって、ひとつは杉本さんが仰っられたように家庭ではなく学校だ、ということで親へのクエスチョンというのがスッポリ抜けてたんですよ。
杉本:ええ。学校制度に対する批判ですよね。
林:ですね。まあ学校に関してはお母さんたちが当時かなり責められてたので、育て方が悪いとかね。そういうお母さんを救うという意味はすごくあったと思うんですよ。
杉本:ああ~。むしろそういうことだったんですか。
林:はい。お母さんを救うという意味ではすごく意味があることだったと思いますね。ただ一方で私みたいに20代に入って母との問題を見つけ出した者にとっては、親を否定するということを徹底的にフタをされたというか、タブーになってしまったんですね。ある時、支援者の方で親子関係をかなりスパッと切っておられて、私にも「親は絶対にどうしようもないから切るしかないよ」と言われてたんですね。でも当時私、どうもそこがちょっと腑に落ちなくって。で、私は母とバトルを20代の10年間繰り返したんですよ。そのこともあってシューレと距離が出てきたということ。もうひとつは初めてシューレに行ったときに知り合った当事者の男性たちも当時からやはり親のための運動ぽい動きというのがもう見えてきてたんですね。本当に子どものことを思うというより、ちょっと親たちの活動になっていて。例えば本当は学校に行きたいと思っている子どもにも「行かなくていいのよ、行かなくていいよ」ということで、子どもが本当は行きたかったと言えなくなってしまったとか。この問題って後に※貴戸理恵さんって人が出てきて。彼女が出した本で大騒動が起きる。でも実はその話というのは30年前に当事者のたちの間ではすでにささやかれていたということ。ただそれを親たちには言えない。その後しばらくして「明るい不登校」というのが広まって、そのことによる弊害というようなこともなかなか親たちへは伝えられなかった。その辺のこともちょっと当時からあって、大きくいえばその2つがあって、フェイドアウトしていったということなんですよね。
杉本:なるほどね。親子葛藤のことはフタをされたと。
林:そのように私は少なくとも感じちゃったんですね。
杉本:そうですか。
林:不登校運動を批判する気はないんですよね。私も救われたひとりですから。
杉本:ええ。そして不登校関連からも少し離れて27才くらいから2年くらい完全に外に出れなくなってしまったということですが、目標が全く見えなくなった感じなんでしょうかねえ?その頃。
※石川憲彦―児童精神科医。林試の森クリニック院長。東京大学医学部卒業。東大病院小児科、精神神経科に勤務。マルタ共和国にあるマルタ大学での研究生活を経て、静岡大学保健管理センター教授・所長などを務める。2004年、林試の森クリニック開業。
※西野博之―1986年から不登校のこどもたちの居場所づくりにかかわり、91年に「フリースペースたまりば」を開設。現在、NPO法人フリースペースたまりば理事長。プレーパーク(冒険遊び場)とフリースペースを併せもつ「川崎市子ども夢パーク」所長。フリースペース「えん」代表。
※稲村博―登校拒否の治療や自殺問題に取り組んだ精神科医。元一橋大学教授。東京大学医学博士。88年、当時筑波大助教授だった氏を中心とした研究グループが「登校拒否はきちんと治療しておかないと、20代、30代まで無気力症として尾を引く心配がある」と発表、物議を醸した。ひきこもり研究で有名な斎藤環は稲村博の弟子。
※貴戸理恵―社会学者。関西学院大学准教授。小学校時代は不登校であり、殆ど学校へ行かずに家で過ごすが、中学校から学校へ通うようになる。2001年、慶応義塾大学総合政策学部卒業。東京大学院総合文化研究科博士課程満期退学。小熊英二、上野千鶴子に師事。「生きづらさ」を抱える若者達への面接調査を通じて、「当事者」の視点からこの社会がどのように見えるのか、「個人」と「社会」のよりよい関係とは何かを探ることを研究課題としている。