カウンセリングを受け始める
林:目標というか、生きていくことがもう無理だ、って思いましたね。その時は。で、ちょうどその渦中に入りかけたときに当時私、臨床心理士の人にカウンセリングを受けてたんですよ。
杉本:その頃にはすでに臨床心理士ってありました?
林:当時ありましたね。私が通っていたクリニックで最初はお医者さんにかかってたんですね。女医さんだったんですけど。あるときあんまり苦しいし、良くならないので先生に「私、心の中に問題があると思う。カウンセリングを受けたい」と言ったら先生が「わかった」と。「だけどカウンセリングは必ずしも合うとは限らないから、嫌だと思ったらすぐやめなさいね」と言って、そのクリニックの中にいらっしゃる臨床心理士の先生に引き継いでくれたんです。薬はその女医さんからもらって、カウンセリングを週に一回、一時間やるようになったんですよ。
杉本:なるほど。
林:ところがその先生がアメリカに留学するということになってしまって、一年間だけ留守にすると。
※ 田中千穂子という先生で、ひきこもりの本も出されていると思います。で、その田中先生にカウンセリングを受けていた途中に先生がアメリカに留学されることになった。だから一年間だけちょっとほかの先生に診てもらうということになって、引き継がれたのが泉谷(閑示)先生だったんですね。
杉本:ああ~、そうなのですか。
林:当時は私、田中先生をある程度信頼してましたし、もう誰でも構わなかったんです。田中先生がいないんだったらもう代わりの医者は誰でも構わない。
杉本:不安は感じませんでしたか?
林:不安でしたけどもう仕様がないですよね。田中先生はもう行っちゃうわけで、とにかく一年我慢しなくちゃいけない。なので最初、泉谷先生の印象ってほとんどないんですよ。もう別に誰だろうとかまわない。田中先生が帰るまでの単なる代わりに過ぎないという感じだったので。ところが泉谷先生と話をするようになって半年くらい経ったときに、ふと先生が「ああ~」って。「あなたのことが少しわかってきました」と仰ったんですね。そのとき私、はじめて「ん?」と思って先生の本当の意味で”顔を見る”というんですかね?
私、それまで会ってきた先生とか医者って一回インテイクみたいな感じで私の話を聞くと、もう”はいはい”と。いわゆる「いい子の挫折だ」とか、「母親との間に問題があってこうなったのね」とかみたいな形ですぐ理解されているように感じてたんですよ。で、あくまでも私をひとつの症例として見ていて、それは当然といえば当然なんですけど、「私という人間」を見てくれている感じはなかったんですよね。ところが泉谷先生のそのひと言で、「あ、この先生は私を理解するのに半年かかったんだ」と思ったんですよ。
杉本:う~ん、なるほどね。
林:それでこの先生はもしかしたらちょっといままでと違うかもしれないから、少しちゃんと話してみようかな、とその時思ったんですね。で、それが本当にひきこもりかけている26くらいのときですかね。で、泉谷先生とちゃんとカウンセリングするようになり、その半年後に田中先生が戻られたんですけど、そのときもう泉谷先生とある程度やりとりをしていたので、「この先生とのやりとりがひと山越えるまでこのままにしたいです」と言って。結果、田中先生に戻ることはなく、そのままずっと泉谷先生にかかるようになったわけです。
杉本:7~8年くらいでしたっけ?泉谷先生とのお付き合いは。
林:そうですね。結局最終的には7~8年くらいだったと思います。もう後半は3ヶ月に1回とか、半年に1回でしたけどね。
杉本:そうですか。泉谷先生と対話を始めてその半年後くらいに「少しわかってきました」という話らしいですけど、その間隔は週に1回くらいだったんですか?あるいは月に1回くらい?
林:え~とね。2週に1回で、時間も30分にされたんですよ。だからそれも最初はすごい不安で。いままで週に1回1時間聞いてもらっていたけど、泉谷先生は結構冷たく、「30分でいいですね」とか言っちゃって(笑)。「ええ?」と思ったんですけど。
杉本:ねえ。時間のない中でとにかく話したいこと、何でも詰め込んで話さなくちゃならないと思っちゃいますよね。そういう泉谷先生に対するクライアントとしての林さんのお気持ちはどうだったんですか?
林:そうですね。いま思うと、6、7年の間にたぶんいくつか段階があったような気がします。まず最初の段階のときに田中先生へは当時私は母の問題で頭がいっぱいだったので、行くたびにもう母の悪口ですね。母への愚痴をとにかく言ってたんです。で、田中先生はいわゆる「傾聴」ですよね。ずっとこう、聴いてるんですね。それが2年くらいかな?続いていたんですよ。ところが泉谷先生は何かあんまり聴いてくれないんですね。
杉本:(笑)。
林:「ああ、はいはい。で、君の話をしましょう」みたいな感じで。最初私、田中先生と同じ調子で行くたびに母のことを言うんですけど、どうもこの人は聞いてくれないと。先生に「お母さんのことはいいから、あなたのいまと、今後の話をしましょう」と言われたんですよ。それで最初はちょっと聞いてくれないなぁと不満だったんですけど、まあ仕方がないなと。聞いてくれないし。というので今度は自分に関心が向かい始めて。自分語りをたぶん始めて行ったんですね。それがまあ、良かったんです。田中先生もいい先生だったんですけど、正直あまり何の変化も起きなかったんですよね。つまり話しても話しても尽きないんですよ。まだ同居してますから、日々新たに母との問題というのは起きてくるので。ですから母のことは一旦置いて、自分の人生を考えるというやり方をされたのは大きな、私にとって大きな変化ですし、結果的にはそれが良かったんですね。
杉本:なるほどね。ぼくのことを振り返るとね。ぼくはまず新興宗教団体のことがありまして。で、葛藤があったんですよ。「マインドコントロール」ですからね。その団体を離れると自分自身が大変だと。でもそこへ戻るとか、会合への誘いを含めてその関係者がやってくるのが怖いとか、そういう団体と自分の関係の葛藤がひとつあったのと、あとはね。どうも父親との関係がぼくの場合もうまく行かなくて。で、当然同居してて日々不満とか苛立ちがあったり、ぶつかったりもけっこうありました。だから父親に対する不満もいまの分析の先生との対話の中で一方的に話してたんですよ。でも、ほとんどリアクションが最初の頃の解釈だけで。その後はまあ、スルーに近い。
林:聞いてはくださったんですか?
杉本:う~ん。自由連想ですから、僕も同居しててやっぱり父親に対する不満、わかってくれないことに対する不満もずいぶん言っていたんですけど、やっぱり印象に残っているのは親についてでしたね。親に対する不満に関してはわりあいスルーされてる印象はありましたよ。だからそれは林さんとおそらく同じで、父親との関係とかの話しを繰り返していてもぼくにとって建設的な方向にそれほど向かうものじゃないという見立てがあったんじゃないかな?やっぱり別人格だという答えは持っていたと思うんです。ぼくの方はむしろ不離。父母関係というのはぼく自身とほとんどつながっているような状態で、だから親の態度とか、それが自分自身に受ける影響というのはすごく大事なことだと考えてたんだけど。でもぼくの先生は当時からそれ自体はぼく自身の本質とは影響がないとまではいわないけれど、本質的な問題ではないときっと思ってたんじゃないでしょうか。
林:うんうん、なるほど。
杉本:それはきっと泉谷先生も同じなんじゃないでしょうか。
林:そうかもしれませんね。
杉本:だからきっと「あなた自身のことを話しましょう」と仰ったのではないでしょうか。
林:それでそういう話を徐々にするんですが、同時に私が一番のどん底、どんどん深みにはまっていくんですね。
杉本:それがぼくも「ええ~」と思ったんですけど。いい先生と出会ったんだけど、調子は以後悪くなっていくんですよね。
※田中千穂子―1983年東京都立大学大学院人文科学研究科心理学専攻博士課程修了。文学博士。1981年より花クリニック精神神経科勤務。1993年~94年 Children's National Medical Center (Washington D.C.) assistant researcher。1997年より東京大学大学院教育学研究科勤務。2004年より同大学院同研究科教授。2011年4月より花クリニック精神神経科勤務