浄土教の教え
――時宗の考えは鋭いところもさまざまあると思います。どうでしょう?ちょっと解題、いただけませんか?一遍上人の歩みみたいな部分を含めて。
栗原:そうですね。一遍上人は時期的に鎌倉中期の人で、元寇があったころです。蒙古に攻められるとかいうことがあった時期で、浄土教という教えの一派で法然という人が一遍の「ひいじいちゃん師匠」というか、一遍は浄土教の中では法然の弟子の弟子の弟子あたりになるんです。で、思想だけ喋ってみると、浄土教の教えって最初はすごく単純で、「南無阿弥陀仏」と言えばいい、と法然が言ったというんですよね。この南無阿弥陀仏というのはどういう意味かというと、「南無」というのは帰依しますという意味で、「阿弥陀仏」というのがその仏という意味なんですけど、要するに阿弥陀仏に帰依しますと言いさえすれば救われますよ、という。
実はこれはものすごくラジカルな教えなんです。なぜかといえば法然が生きていた時代って仏教がすごく権威的になっていた時なんです。政治とも絡んでいて。で、いろいろ天台宗とか、比叡山でどちらかといえば人が仏の教えに触れたりできるのは何年間も難しい修行を積んで、難行苦行を積んで文字も必死に読んで、で、「正しい読み方」「正しい身の振り方」を身につけて初めて仏の教えに触れることができるという。そういうことをやっていると完全に寺の中でヒエラルキーが出来ちゃうんですね。頭のいい人が出世していって、そうじゃない人はダメ扱いされる。で、それこそ文字が読めない庶民にとっては全く仏になれず、救われない。
――「縁無き衆生」になるわけですね。
栗原:あるいはそういう修行を積んでなくても平安時代の貴族なんかはすげえ金を持っていて、お寺とかを建ててあげたらこのひとは功徳がある。徳を積んでる、救われてますよと。だから金持ちと、勉強できる人だけが救われるみたいになっていたんです。そういうなか鎌倉時代に入って、法然は誰もが「南無阿弥陀仏」の仏の名前さえ言えば救われますよと言ったんです。これはすごいラジカルな思想で。言ってしまえば寺いらない、と言ってるようなものですから。仏というのは誰にでも平等な縁を持っていると。だから勉強、もしくは文字が読めるかどうか、金を出せるかどうかで人を秤にかけるのはおかしい。これだけ修行を積んだらこれだけ救われるぞとか、これだけお金を積んだからこれだけ救われますよという世の中って、ちょっとおかしいと。「南無阿弥陀仏」という言葉で救われるというのは、誰でも救われるということだし、人がヒエラルキーを作ってこれだけの見返り、これだけの生き方をしなくちゃいけないとか。何かそこに縛られているところから脱していきましょう。そういうふうに平等かつ自由みたいなものを目指したのが法然の教えだったんです。
ただ、法然自体そこまではすごくラジカルではあったんですけど、そこで浄土宗という宗派を立ち上げてやりくりしていったら、またそれ自体が宗派、教団になっていってしまって、そこでいろいろ論争が起きるんですね。そこでは南無阿弥陀仏と言えば良い、最初は10回唱えれば誰でも、とか言ってたんですけど、弟子たちの中でいろいろ議論が起きて。たくさん念仏を唱えればたくさん救いみたいなものがあるという人がいたりとか、あるいは1回心を込めて念仏を唱えれば自分は救われるとか。そういうふうに議論が分かれてしまって、でもこれってやりはじめると浄土宗の中でもヒエラルキー・システムが出来ちゃうんですね。これだけたくさん念仏を唱えたらこれだけ見返りとして救われるとか、これだけ心を込めて一回念仏を唱えたらこれだけ救われるみたいになってしまって。だからその仏の教えというのは自分がこれだけ努力したら救われるんじゃないんだ。他から、他なる力が「他力」なんですけども、「他力」と言っていたのに、何か「他力」の中で自分の力がこれだけで救われるという感覚が浄土宗の中にも入ってきて。「他力の中の自力」みたいなものができちゃうんです。だからそういうのをとっぱらって行きましょうよという動きが法然の弟子以降に出来てきて、その中でいちばんトップに立ったのが親鸞です。
――そうなんですね。
栗原:念仏をこれだけ唱えたらこれだけ救われるという発想じたいそもそも昔の寺と変わらないし、貴族とかが金払えばいいじゃん、と言っているのと変わらないし、鎌倉時代に入れば武士の世界というのはこれだけ源氏とか北条のために頑張って人殺したのに、ただこれだけの恩賞がありますよという世界ですね。これと自分たちがおんなじことをやっていてはダメなんだと。だから大切なのは何か?というと念仏が何回とか、心込めて、とかじゃなくて、阿弥陀仏を信ずる心そのものなんだということを言ったりする。で、「信」という言葉を大事にします。
――なるほど。
栗原:そこまで行くんですけど、ただ一遍の場合はさらに何かその先まで行っていて、信ずる心があればという、そういう心を見いだすことで仏に救われようとする。これもやっぱり見返りを求める心というか。
他力そのものになる
――見返りですか。う~む。
栗原:だからこれ、何か同じこと言ってるんじゃないの?って。で、一遍がどういう境地にたどり着いたかというと、「信不信を問わず」なんですよ。信ずる信じないを問わない。本当、これヤバくて。仏、信じなくてもかまわない。
――へえ~!
栗原:大事なのは念仏をただ声に出して唱えることだ。だから周りの人間に「念仏とは何ですか?」と問われたら、「うるせえ」とか言って。「とりあえず唱えやがれ」みたいなことを言ってるんですけれども。で、その心は何かというと、*空也上人という平安時代のお坊さんが言ったことから引っ張り出して念仏の心得というのはそもそも「他力そのもの」になって自力をすべて捨て去ることなんだと。「捨ててこそ」。だから念仏をひたすら唱えることによって、自分の頭の中にあるヒエラルキーにとらわれてしまう心というのが武士の社会でも貴族の社会でも寺社会でも必ず出てきてしまう。それを念仏をひたすら唱えてすべて空っぽにしていく。すべて捨て去ると言うことが念仏の奥義なんだみたいなことを言ったりしている。で、「なるほど~」とか皆いったん言うんですけど、ただ「アレ~?」と思うのは、とはいえ浄土教スゲー面倒くさいのは、念仏を唱えることで、空っぽになるんですよというこれも、自力なんじゃないの?と。
――う~ん。人間の観念のどうしてもぶつかってしまう問題ですね。
栗原:とらわれるところから抜けても、抜けても。でもそこで一遍がいいはじめるのは、やればわかると。一遍たちがやっている念仏、当時の念仏というのはいまでいう歌に近いんです。
念仏が念仏を唱えている
――ああ。念仏の唱え方が歌に近い?
栗原:それを特に一遍たちが「融通(ゆうづう)念仏」といって、融通というのは人に念仏を融通してあげる。功徳をふりわけてあげるという意味なんですけど、その合唱団を作ってひたすら念仏をもう街角であったりとか、村であったりとか、時には寺でやったりして、バア~っと「ナンマンダブ、ナンマンダブ、ナンマンダブ」とひたすら唱えまくるみたいなことをやったりしてたんですけど。その感覚をちょっと思い出してほしい、と。あの頃の一遍たちの念仏というのはすごくて、三日三晩とか、徹夜で、とか。ひたすら念仏を唱えまくってるんですよ。でこう、「ナンマンダブナンマンダブ」と、自分の限界まで声がすり切れたりしながらも、やったりしてる。何か自分の限界を超えてしまう。人間でないような声、叫びみたいな。ワア~とこう、響き渡って。しかも自分が唱えているのか、まわりが唱えているのかわからないような状態になって。そうすると「我」も「他」もないというか。で、この口から出ている声というのは自分の声なのか人の声なのかもわからないし、しかもその自分の声も聞こえなくなってくるくらい叫び、叫んじゃっていて、この声というのは自分がしゃべっているというよりも、念仏が念仏を唱えているとしか言いようがないんじゃないかと。それこそ唱えて口では仏が念仏を唱えているものなんだと。だからその感覚を大事にしようと。
要するにいまで言うライブの状態。パンクスでもいいし、レイヴでもいいし、何でもいいと思うんですけど、そのウワ~っとみんなで歌って熱狂している状態って「我を忘れる」、失っていく状況なんだと思うんですけど。そういうことをやっていくことで、自分の頭が完全にスッカラカンになって、それまでの自分をすべて捨て去っている状態だというんです。だから自分で念仏を唱えて自分が救われるんじゃなくって、念仏が念仏を唱えていく。そういう状況を作り出していく。
そういうことを実践して歌っていたら、特に気持ちイイものなんですよ。それに合わせて一遍上人がある日突然こう、身体動かしはじめて、ピョンピョン飛びながら「イェイ!」と動くと何かそれをやっているとまわりの人たちも真似し始めて何かバカみたいに踊りながら「ナムアンダブ、ナムアンダブ」とやりはじめて。それをやっていてだんだん踊っていたら最初は苦しいと思うんですけど、同じリズムで単調にピョンピョン飛び始めて、「苦しい苦しい」とやってるとだんだん苦しさが気持ちよくなっていったりするんですよ。たぶんトランス状態になるんだと思うんですけど。それをやりながらさらに踊りまくっていたということをはじめて。それが「踊り念仏」というふうに言われるようになるんです。要するに何か周りの人たちから猿みたいに踊っている。何か発情期の馬のように踊っているとか、鹿のように踊っているとか言われたりする。それこそ人間を超えた身体の動きみたいなものを痙攣させながら動き回っていると。はたまた人間を超えた別なる力。それも「他力」といわれるものだと思うのですけれども、そういうものを身につけた動きというのをその場で繰り広げている。そういう身体を使いながら自分の身体全体をスッカラカンにして、自分の中にある自力みたいなものをすべて捨て去っていったという風に言われる。まあこれが、踊り念仏の発生なんですけども。本当に限界の限界を超えていたらしくて、一時は120日間ぶっ通しで踊っていたらしいんですけど(笑)。
――120日間!?
栗原:120日間です。4ヶ月です。たぶんマジで死んだ人とかいたんだと思います。だからある種自分の中にある自力をすべて殺したいというのがあったんだと思うんです。
――へえ~(感嘆)。
栗原:まあ、ある意味それが成仏するということです。
――ほお~。
栗原:仏になる感覚。
――現代の感覚ではちょっと考えられないですね。
栗原:ちょっと違うと思うんです。
――なるほど。やっぱりアナーキーという言葉がふと浮かびますね。
栗原:そうですね。だから基本のテーマはアナキズムと一緒で対価見返りで作り上げるシステムからどう離脱していくのか。それだけで生きていくと非常に息苦しい。そしてすごく差別的でもある。そこからいかにそれを捨て去っていくのかというのがたぶん浄土宗、浄土教のテーマだと思います。一遍の場合はそれを歌とか、身体を使って完全に捨て去っていくというところまで行くのが特徴かもしれないです。
――あの、踊り念仏をやる人たちを信じる、一遍を信じる人はいるにしても、体力的に持たない人、老人であるとか、女であるとかということで、踊れきれないという人もいるかと思いますけど、そういう人たちは踊りを見てるんですかね?
栗原:女性は一緒に踊ったと思います。踊りたくない人は踊らなかったでしょうけど。
――じゃあその様子を見ながら。踊らなくても念仏を唱えたりとか…。
栗原:そうですね。周りにいてその熱気の中にいるだけでも当然違うと思いますから。
――熱気の中に一緒にいるということで、一体感を感じる…。
栗原:本当にこう、バア~とやっていると騒ぎが。「なんだ、なんだ」と人がバアッと群がってきて、「群衆、雲の如く」みたいに書かれてるんですよね。
――う~ん。すごいですよね。ただその、いわば「理性ぶっ壊し」の世界でもあるじゃないですか。戻らないとえらいことですよね。あの、宗教と言うよりは、自滅行為みたいな。だからその境界線が少しずつ分からなくなっていかないだろうか…?
栗原:「信不信を問わず」と言った時点で、宗教でなくなっているかもしれないですね。
――信不信を問わず、ですもんね。何なんだろう?あの、ある種人間って無茶をやる人っているじゃないですか。昔でいえば落ちるにきまってるんだけど、自分の身体に羽つけて飛んじゃって落っこって死んじゃう人とか(笑)。どうしても冒険しちゃう。「バカか」と思うような。まあそれは単独の行為かもしれませんけど。
圧倒的に間違える
――いまのお話を聞いていて思ったんですが、突き詰めると無意味へと?(笑)
栗原:無意味です。無意味を求めていく、みたいな。
――ええ。
栗原:求めても、求めても。有用な世界にとらわれてしまうので。
――有用な世界にとらわれてしまう…。
栗原:一遍上人を書く上でちょっと踊りの理論とか勉強したいなと思って、現代の舞踏やってた*土方巽(ひじかたたつみ)さんの全集とか読んだりしたんですけど、彼はやっぱり面白くて、踊りとは何か?というのは「人が圧倒的に間違えることなんだ」というんですよ。それがまさに「無用」ということにつながって。
――「圧倒的に間違える」?
栗原:要するにその、踊っている、彼とか本当に素っ裸になってすごい奇妙な動きとかするんですけど、その点たとえば農民とかだったらこう、農民としてスキ・クワをもってどういう風に動くのかと。武士だったら武士で刀とかで敵とどうやり合うかで出てきているし。
――ええ。「型を学ぶ」わけですよね。
栗原:そういうものを身体の感覚として持つ。常識として有益な頭に有用性が植え付けられてしまっているけれども、踊りというのは本当に一瞬でもいいからまったく別の生き方というのを実践してみてそこを離れて、そこから圧倒的に間違えないと、と言うんですよ。要するに人として圧倒的に間違って、その動きとは全然違う感覚でも動けている。しかも特に一遍とかになると120日間とか動いているわけですからね。こんな動きも出来るのか、みたいな。
――そこまでいくとヨレヨレですよね、もはや。
栗原:何かそういう感覚が大事なんだと言ったりするんです。これいまの感覚だと、ストライキに近いんだと思うんです。労働者が「こうやって働かなくちゃいけない」と植え付けられているとしたら、一回暴れてみることで、従わなくてもいい身体感覚を手にしてみるのと同じことで、たぶん踊りというものを武士であったり農民であったり、いまだったらサラリーマンかもしれませんけれど、こうやって動かなくちゃいけないというのを、特に踊り念仏とかはピョンピョン跳ねるので、その動きを本当に覚えちゃって、田植えとかの作業の時にパンパンとはねちゃったら、完全に仕事とかも全部ぶちこわしになっちゃうし、武士だってこんなことやってたら一瞬で切り殺されちゃう。でもなにかそういう動き方をしていくことで、それまで自分がとらわれていたものをいったん無用にしてしまう。で、「そうでない身体の動き」があっていいんだと。鹿のよう、馬のよう、猿のようになりながら。
――先ほどのね。野枝さんの話で結婚という制度を受け入れたいというのは他人とひとつになってもひとつになれないということの不安、恐ろしさということがあるんじゃないかと思ったんですけど、いま話を聞くとそれも恐ろしいことですよね。ある意味無秩序だから。農民は農民として生きたいわけで。武士は武士として生きたいわけだから。圧倒的にそれに対するカウンターになっちゃってるわけで。そういう姿は本当に潰してやりたいという。まあ現代風にいえば、あまりにもアナーキーなので。視界から消えてもらいたいというのはきっとあるでしょうねえ。
栗原:しかも一遍たちの場合はそれを踊りという集団でたぶん最初は20人くらいから始めて100人とか。江の島、片瀬とかでやったときは1,000人規模とかになっていたから。
――1,000人規模?
栗原:「群衆雲の如く」で100人以上ということだけは分かってるんですけど、何人いるかはわからないんです。夜通しやっているわけですから。町や村の人たちがワア~ッと集まってくるので。
――するとその土地を治めている、自治している偉いやつとかにとっては、そういうような状況というのはすごくおっかないものじゃないですか?そこを所領として治めている人間なんかにとってみると「これは危険だ」と思いませんかね?
栗原:そうですね。江の島や片瀬に行く前に鎌倉に入ろうとするんですけど、そこで思い切り弾圧されるんですよ。
――やはりねえ。
栗原:ボコボコに棍棒でやられて。
――棍棒で(笑)。
栗原:ただ逆に棍棒でやられても、念仏続けてやっていたら、根性ある坊さんがいるぞというので一気にパアッとうわさが広まるんです。
――殴られても、やめなかったということで。
栗原:じゃあ「海辺だったらいいんじゃないですか?」と呼んでくれたりする人なんかがいて、そこでやったらブア~と人が集まってきて。
――かァ~。
栗原:鎌倉幕府からしたらたぶん弾圧したいでしょう。
――ええ、ええ。そうでしょうね。
栗原:ちょうどモンゴルに攻められてる頃ですから、国民一丸になってと。武士として有用にとか、農民もそのための食糧作ってという時期に。
――だから当時の権力者、北条時宗にとってはヤな奴ばっかりですよね。日蓮みたいな立正安国論みたいなのを書いて送るのもいて。
栗原:首斬ろうとしたんだけど。けっこう奇跡が起きて。
暴動やストライキのイメージは踊り
――一遍みたいな民衆を扇動して一緒に踊り念仏なんかやって何か頭おかしいんだかまともなんだか分からない人がいる、って。日本の戦後も「踊って宗教」みたいなのが一瞬戦後直後出てきたみたいですけど、まあ秩序が安定したらあっという間に消えちゃったと思いますけど。
栗原:ただ、歴史上はずっとあって、「おかげ参り」とか「お伊勢参り」とか。
――ああ~。はいはい。
栗原:それもすごい何百人規模で、あれはもう、ゼネスト状態ですよ。
――そうですねえ。江戸の末期とか。
栗原:踊りながら外に行っちゃう。「ええじゃないか」なんかもそうだし。
――そうそう。「ええじゃないか」。
栗原:だからちょっと資本主義とか都市化が進む前の暴動とかストライキの起源は、踊りがひとつあったんじゃないか。
――踊りがあったんですね。もう僕らすっかり忘れちゃってますけどね。日本の踊りってどんなものだったのか。
栗原:僕も30代に入る前まであまり興味なかったんですけど。東京だと錦糸町で「河内音頭」とかやっていて。
――河内音頭ですか?
栗原:これがすごい激しい。やってみたら「すげえなあ」と思って。何かデモや暴動よりすごいかもしれないと思ったりして。ちょっとそういう感覚があったりします。
――なるほど。ありがたい。いまのお話は勉強になりました。こういう言い方も硬いですけれど。
栗原:それこそ恋愛なんかだと個人個人で考えてしまいがちだけど、踊りなんかだと集団で踊ったりしますから。ちょっと心強さとかあるかもしれないですね。
――う~む。
栗原:「集団で一丸になって、バラバラになる」。
*空也上人―平安中期の僧。空也念仏の祖。出自未詳。尾張国分寺で出家後、諸国を遍歴し、道路・橋梁・感慨などの社会事業を行うとともに、京都を中心に貴賤を問わない口称(くしょう)念仏の布教を展開。空也念仏は弟子貞盛にに伝えたという念仏。ひょうたん、または鉢を叩き、鉦(かね)を鳴らし、和讃・念仏を唱えて歓喜の情を表して踊る。称して空也踊とも。(広辞苑より)
*土方巽ー舞踏家。暗黒舞踏の創始者。江口隆也、大野一雄に師事。1950年代後半から独立して公演を始め、『禁色』(1959)以後、暴力的エロしズムを濃厚にした暗黒舞踏を仮死しして、ジャン・ジュネ、ロートレアモンなどに取材した作品を発表築地で日本の民俗的な主題に近づき、O脚、がに股などの身振りを用いたうずくまるような動きを舞台で展開して見せた。(ブリタニカ国際大百科事典より)