2 われわれのコミュニケーションが普通だと思える根拠は何か?

 

杉本:だから面白いといいますか、なるほどと思いましたね。元々は自閉症の人たち、あるいはその子たち。お母さんと目を合わすことができないとか、一般的な形でのコミュニケーションの根本的な部分から通じ合いにくい部分があるんじゃないかっていうところへの着目。で、それに加えて先生の本が面白いのは、逆に「僕らの側」って言いますか。普通だ、問題がないと思われている僕らこそ、なぜこれを自分たちで普通だと言い切ることができるのか?という問いを設定したことですね。

 

浜田:普通というのか、そういうのが出来てしまってるんだけど、なんでそういう事ができるのかっていうのは実に不思議なことで。できない人を私たちは不思議がりますけど、もうちょっと別の見方をすると我々ができているのはなんでや?といったら、実に不思議なことなんですよね。

 

杉本:ほんとですよね。でも、不思議だと思わないんですよね、普通は。

 

浜田:そうそうそう。自分たちが当たり前だと思ってますからね。

 

杉本:そうなんですよ。だから障害のある子たちの方を不思議がって一生懸命研究するんだけど、自分たち自身がそういう風になって来れたのはなぜか?ていう捉え方はしないですよね、普通。

 

浜田:まあそうだけど、それをしないことには明らかにならないはずなんですよね。実はこちらが不思議で、人と関係がとれるとか、言葉が通じるとか、どうしてそんなことができるんや?と。人同士が出会ったときに、なんで目を見るんだ?と言ったら、分からへんわけですよ。別に人間同士だけでなくて、猫と出会ったって目が合うわけですよね。

 

杉本:ええ、そうですね。

 

浜田:猫だって、猫からすると、人間大きな体ですから、体のどこ見たらいいかって、あちこち見ていいはずなんだけど。下半身見てもいいし、手を見てもいいし、どこ見てもいいんだけど、目が合いますよね。

 

杉本:はい。

 

浜田:なんで猫と目が合うんや?と。こっちも相手のしっぽ見るんじゃなくて、目を見るわけですよ。

 

杉本:そうですね。

 

杉本:浜田:(笑)

 

浜田:だからその、生き物というか哺乳類同士の関係として、相手がどこに向かっているのかということに対して、非常に敏感にできているんですよね。向かっている方向を一番よく示しているのは目なんですよ。目は顔、前についてるわけですよね、当たり前ですけど。前っていうのは進行方向に向かってついている。しかも眼球を我々動かしますから、どちらに動こうかってことは、眼差しで読み取れるようになっている。猫もそうなんですよね。出会った時、お互いどちらに行こうとしてるのか。こちらの方に迫ってこようとしてるのか、自分から逸れようとしてるのか、確認しようと一生懸命するわけですよ。当たり前の行動かもしれませんけどそれは実に不思議なことで。たぶん哺乳類同士はやりますけど、ほかの生き物で、例えば我々は魚と目は合わないですね。魚と出会うこと、普通ないですけど(双方笑い)。だからその出会うという感覚が、魚とかには無い。だから逆に言うと魚はさばけるわけですよ。猫をさばこうと思ったら相当勇気がいると思いますよ(笑)。

 

杉本:ああ、そういう事もあるんですね。へえー。

 

浜田:だからね、魚は魚屋さんで死体が並んでいても、誰も死体が並んでいるとは思わんけど、猫とかを並べたらもう「えええ!」とかなるんちゃう?

 

杉本:そうですよね(笑)。つまり魚に関して言うと、別に「目が合った」なんて…。

 

浜田:そう、魚とは出会わないんですよね。

 

杉本:出会わないわけですね。

 

 

 

目が合うと、コミュニケーションが取れた気になる

 

浜田:だから猫とか犬とかは出会う。ペットになりやすいというのは、やっぱり出会う生き物に対してなんです。それ以外の生き物をペットにする人たちもいますけど、まあ珍しいですよね。トカゲとか蛇とかやっぱり目が合わないんですよね。だからコミュニケーションができた雰囲気になるわけですよね。目が合うっていうのは。

 

杉本:はい、わかります。犬なども。

 

浜田:そうそう。だから目が合うっていうのはある意味非常に基本的なことで、当たり前すぎるほど当たり前だって思ってますけど、なんでそんなことになるんや?って考えると不思議なんですよね。その不思議な部分も身体のメカニズムによって成り立ってますから。で、身体は生もので、壊れ物ですから。壊れることもある。そして、成り立たないこともある。だから自閉症の人たちのように、目を合わすことが苦手な人たちも当然出てくるわけ。視線を避けてるっていう見方もありえるんだけど、それも十分にありえるけども、片方でやっぱり「視線がわからない」ってこともある。どちらなのか非常に議論のある所ですけどね。だけど我々もごく普通に目を合わせて、目を合わすのが苦手な人は目を避けるわけでしょ?避けるってことは、視線を意識してるということですから。目が合う前提は獲得しているわけですよ。だから目が合わない状況というのは、やっぱり自閉の人たちと相対している人は目を避けられてるわけじゃなくて、目を意識してくれない、っていうことなんですね。

 

杉本:つまりこちらを相手として認識してくれていない、という印象なんですか?

 

浜田:そういう風に思ってしまう所はあるけど、実際そんなことは生身の人間同士だから出会うといろんなことが起こるので、意識せざるを得ないんだけど。「やり取りとして、こう」ということで成り立つ形があるわけですよね。

 

杉本:そうすると、しょっぱなの部分、出会いの部分ですね、まさに。

 

浜田:だから声をかけるのでも、僕らだと遠くの人がいたら「おーい」とかって声をかけますでしょ?自閉の人たちはこれができないんですよね。「おーい」って声をかけるって、まずちっちゃいときはできないんですよ。だから子どもなんかでも、お父さんお母さんとかが遠くにいたとき、「お母さーん」とか遠くから呼ぶような子たちは絶対自閉症じゃないんですよね。

 

杉本:なるほど、なるほど。

 

浜田:だから相手との関係で、投げかけて受け止める。それが出来てるのが当たり前になってますけど、これは不思議なことで、出来ひんこともありうる。出来ひんかったらどんなことになってしまうんか、っていうのが自閉症論って事になるんだろうということで、ああいう本を書いたんですけどね。

 

杉本:社会がちょっと構成できませんよね、自閉症の人しかいなかったら。

 

浜田:うん。だからその、あの人たちは「自分たちと変わった変な人」とか「何をするかわからない人」という風になりがちなんだけど、逆に我々だってこの不思議なことが出来なくなることがある。僕らいつでも目が合わない状況っていうのは出来うるわけですから、壊れればそうなるわけですし。認知症の問題なんかも結局はそういう壊れていく過程の話ですからね。だから同じ土俵にいるんです。同じ身体を持った、壊れ物としての身体を持った生き物として生きてるわけですから。本当のところは怖いとかなんとかじゃなくて、地続きのはずなんですよ。だけど異質とみてしまうという構図があるんだろうと思います。

 

 

 

「外」はどこにある?

 

杉本:浜田先生はその、まず新生児は「目」に指向性がないと…。

 

浜田:ないと言うか、まだ「見る目」になっていない。だから勿論目も合いませんし、生まれてすぐは目は開けてても、モノを見てない。目を開ければ物が見えるっていうの、僕ら当たり前と思ってますけど、だけどそれはなんでやっていうと、『私とは何か』の中にも書きましたけど、目の構造っていうのは、光の刺激をレンズで屈折させて網膜の上に光の像で、外の像が映るわけですよね?その像が網膜は神経細胞の網の目になっているものですから、そこに光の刺激が当たることで、それが電気刺激に変換され、神経インパルスとして神経路を通って後頭野に行って「見える」という構造になっている。理屈ではそうなってるんですね。これはもう解剖学で高校生か中学生ぐらいで習うような話ですけど、そういう構図になっているっていったときに私たちが光の刺激を最初に受け止めてるのは網膜なんですよ。外の光、と言ってるけど、それは言葉で外と言ってるだけで、我々が直接受け止めてるのは網膜のところなんです。そうしたらなんで網膜の上にモノを見ないのか。なんで外に見えるんや?と。理屈で考えるとわからないわけですよ。

 

杉本:うーん、確かに。

 

浜田:「外ってなんや?」って話なんですよ。外やと思うてるけど、受け止めてるのは網膜なんですよね。音もそうです。音が流れてきてると言ってるけど、直接受け止めてるのは鼓膜が振動し、その奥の聴覚神経の有毛細胞が揺れて聞こえてるわけですよ。そうすると、ここまでのことは前提として僕は喋ってますけど、実際は鼓膜は響いてるだけ、網膜は反応してるだけ。じゃあなんで外に見えるんや?なんで外から聞こえるんや?というのは理屈上でいうとわからんわけですよ。これはもうデカルトの時代からそんな話とか、理論さえ出てね。デカルトは「光学論」って、いわゆる視覚論ですね。目でものを見るっていう。ちょうど牛の解剖なんかで、牛の目の解剖なんかがなされ、どうも目というのは外の光をレンズで屈折させて網膜の上に実際の像を結ぶんだってことが解ったんですよ。「あ、こういう風にして見てるんだ」っていう風に解った時代の人たちが議論をしていて、確かにここに映ることで見えるんだなっていうことはみんな確認したんだけど、じゃあなんで網膜の上にモノが見えへんのや。外に見えるのはどうしてや?って議論が起こるわけですよ。結局色んな議論がなされて、いろんな人がいるもんですから、例えば人は目で見るだけじゃなくて、手でモノを掴んで「外だ」と確認することができるやないかと。手で外だと確認したモノを目でも見るということを繰り返してやってるうちに外に見えるようになるんだという議論を立てた人がいるわけね。経験論としてそういうのができるんだと言った人がいるんだけども、反論が当然あって、手で掴んで外だと仰ったけど、手で掴んだものはなんで外なんですか?皮膚の表面の触覚が感じてるだけでしょ、と言った人がいるわけですよ。

 

杉本:(笑)なるほどねー。

 

浜田:屁理屈っていえば屁理屈だけど、理屈でいうとわからないぐらいだから、手で外やっていうけど、なんで手の触角の表面感じてるからといって外なんや?表面が刺激されてるだけちゃうか、という議論を持ち出されたら、反論はできなくなるわけです。そうすると外ってなんや?って話なのね。

 

杉本:うーん。

 

浜田:そういう議論をもう300年ほど前にやってるわけですよ。で、今もその議論は解決がついてるわけじゃない。外のものが外のものとして見えたり聞こえたり触れたりする事はなぜなのかってことはいまだにわかってはいない。脳科学ができた以上そんなことわかるんじゃないかという人がいますけど、実は脳には外がないわけですよ。脳は脳という物質なんですよ。脳を持った人間に「外」があるわけです。だから「外とは何か」っていう議論は脳科学ではできないんですよね。だけどそれは非常に大きなことで。我々には外の世界があって、それを知覚して生きてるんだってごく当たり前のことが、実はとても不思議なことなんだっていうね(笑)。そういう議論。

 

杉本:全く考えたこともなかったな、そんなこと。へぇー。

 

浜田:いやそれはだから、赤ちゃんが目を開けてもモノを見てない。

 

杉本:はい。

 

浜田:で…あの本の中に書いてたかな。あの…2歳代で重度身体障害の子供でね。お母さんに連れてこられるんだけど、目は開けてて、まぁ覚醒してるときに目は開けるんだけど、目がモノを見ていないっていう子供がいて。この人にとって、外にモノを見るってなんや?って話になるわけですね。で逆に死ぬときもそうなんですね。僕も親父が死ぬときにお付き合いしましたけども、だんだん弱っていって、もうダメっていう、最初のころはこう、やり取りもできるし…だけどだんだんと目が力を失っていって、出会ってももう、目がガラス玉になって、モノを見てないっていう。であの世に還るわけですよね。だから人は、生まれた時に見てない目で始まって、死ぬときも見てない目で戻るんですよ。その微かな間を生きてるわけね。数十年間。だから、外のモノを外のモノとして見るっていうのは人が生きていくうえで非常に基本的なところなんですね。これが実は現象学っていう哲学の中で、「志向性」という言葉を使って、フッサールが意識の定義をして「意識とは何ものかへの意識である」という、謎のような定義をしたんです。それは何かに向かうってことなんだ、っていうことなんですね。志向性っていうIntentionalityっていう言葉になりますけど、何かに向かうってこと。これが意識の中心なんだ、っていうんですよね。だから観察したこととピッタリはまるんですよ。当たり前のことなんですけどね。だから当たり前だと思っていることを一旦取り出して記述をするという作業をしないと、人間っていうのはわからないし、人間の素晴らしいものは見えないんじゃないかっていう。そういう議論なんですよね。で、それは対話なんかもそうで、声をかけて相手が受け止めて、相手のかけた声をこちらが受け止めるというやり取りの中で成り立つっていう。これも実に不思議なことですよね。

 

杉本:確かにそうですね。

 

浜田:だから対話っていう事もいろんなところで議論されますけど、非常に本質的な人間の…なんというのか、力として備わっているもので。もちろん他の生き物もあるわけですけどね。その対話的能力は。言葉は十分じゃないにしても、目が…。例えばサルとサルが出会ったって目が合うわけですから。まあそういうやり取りっていうのは、非常に生き物の関係の基本の部分としてある。そういうのを記述するってことをしない限りは、ハンデの問題というもの、障害の問題というものは見えてこないんじゃないか、っていう。

 

杉本:そうですか…そこまで考えて…うーん。

 

浜田:まぁ、そんな難しい話じゃないでしょ、だけど(笑)。

 

杉本:うーん、結局当たり前のものは当たり前ものとして、既にある条件として完璧に受け止めすぎちゃってるんで、ものすごく斬新に思えてしまう。

 

浜田:うん、当たり前のことを疑うっていう事をしない限りは、当たり前の部分を説明できないってことなんですよね(笑)。大丈夫、哲学の世界ってそうですからね。

 

杉本:哲学はそうですけど、哲学は哲学で難しいですからね。なんか哲学用語を駆使されちゃうとチンプンカンプンになっちゃうので。

 

浜田:いやいや、難しい話では本来無いはずなんですよね。僕もまあ心理学ですけど、まぁ、哲学が結構好きでしたからね。

 

杉本:ああ、そうでしたか。

 

心理学と現象学はすごく重なる

 

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