3 心理学と現象学はすごく重なる

 

浜田:現象学なんかにはずいぶん影響を受けました。心理学の世界と現象学とはすごく重なるんですよ。そういう見方をする心理学者は少ないのかもしれないですけど。でも、現象学は僕らの時代は結構流行ってましたね。今もかなりあるのかもしれませんけど、現象学の人たちは研究者が多かったな。多かったっていうのは盛んだった時代だということですよね。

 

杉本:フッサールとかハイデガーとか、メルローポンティ…

 

浜田:まぁ、僕が影響を受けたのはメルローポンティでしたけど。

 

杉本:あぁ…ワロンも。ワロンからも、メルローポンティは影響を受けたと聞いています。

 

浜田:ワロンは元々精神科の医者で、重度の子どもたち、障害の子供たちと出会って、それをどう見るかという所からスタートしてますので。元々医者の発想なんですね。ただそれを外形的に記述するだけじゃなく、何が起こっているのかを見ようっていう風に考えて、色々理論を立てたということですね。そのワロンなんかの著作を基にしてけっこうメルローポンティなんかはいろんなことを考えている所があって。ワロンは現象学者ではないですけど、現象学の人たちにかなり影響を与えた人だったとは思いますね。

 

杉本:そうですね。ワロンへつながっていくのもやっぱり西洋の学問の継承といいますか。そういう流れ上にあるわけですよね?やっぱりどうしても日本は、輸入のものに頼ってますから。

 

浜田:ワロンもピアジェもね。結構日本の心理学者が翻訳したりして、紹介はしたんだけど、消化しきれたのかな?というと僕はちょっとわからないな、って思う。随分ピアジェなんかも翻訳され、ワロンも翻訳されてるんですけど、あの…ひどい訳が多いんですよね。間違った訳がね。だから誤解されてる所がたくさんあると思う。実際難しいんですよ、確かに。

 

杉本:ワロン自体が?

 

浜田:ワロン自身がね。難しいんですけど、だけどあの紹介の仕方はまずかったなと思いますね。わからんものを、なんかわからんけど大変なこと言ってるんちゃうか、みたいな形で訳わからんものを翻訳にしてたてまつってるみたいな所があったように思うんですけど。

 

杉本:浜田先生としては『私とは何か』とか、『子ども学序説』(岩波書店)かに書かれている内容というのは、直接的なワロンの影響というより、もうちょっとご自分の解釈で書かれている感じなんでしょうか?

 

浜田:うーん。まあそうですよね。いや、ワロンを理解したと僕も思わない。よく分からない事も多いのでね。ただ、一生懸命人と一緒に本を読んだり、論文読んだりしてして考えたので、そこからヒントは随分得たと思いますけど。それを継承するとかなんとかは全然思ったことないですけど。

 

杉本:やっぱり、そうするとご自分の見てきた経験とか…

 

浜田:まぁそれはだけど、自分自身で考えたことなんてわずかだと思いますけど。色んな物ごとを考えていく中で整理して「こうじゃないかなぁ」という風に、自分なりに納得しないといけないというのがあるから、それはそう考えてきた。だから誰かの影響を受けたってことではないなぁと思いますね。いろんなヒントは貰いましたけどね。いまだにワロンの名前も知られてるし、勉強をしてる人も多いんだけど、どこまで理解されたのか?っていう風に僕自身は思う。まぁ、僕もよく理解できてない所が多いので。翻訳も一部やりましたけど、やっぱし訳し直さないかんな、っていう本が結構あってね。

 

杉本:当然私も、読んだ様な気になっただけでおそらく解ってないんですよ、きっと(笑)。

 

浜田:うん、いや、それはね。一応僕なんかも、解らんかったらとにかくね。普通解らなかったら、自分の方が悪いと思う訳じゃないですか?知識が足らないとか、まだ勉強が足らないのでこれは解らんのかなぁとか思うでしょ?勿論確かにそれは大きいんですけど、もう一つは、例えば翻訳書の場合、翻訳が間違ってる可能性があるんですね。

 

杉本:浜田先生の本で僕はワロンを読んでるので…(笑)

 

浜田:だからそれも間違ってる可能性があるわけですよ。だけどそれは、「こういう風になってるんちゃうか」って一応、整理して自分で理解出来た範囲で書こうとしてるつもりでいるんですよね。だから理解が間違ってることもあるとは思うんだけど、ただ全体を理解して、こういう流れじゃないかと思っていれば、めちゃめちゃ大きな間違いはしないんじゃないかと思っているんですけどね。

 

杉本:確かにそうですね。

 

浜田:軸をそのまま、横のものを縦にするみたいな翻訳をやっちゃうと…

 

杉本:そんな翻訳もあるんですか?

 

浜田:ありますよ、そりゃぁもう。一応、評判が立つと翻訳書で売れますからね。

 

杉本:なるほどね。

 

浜田:だからこれ、解るほうがおかしいやないか、っていう誤訳があるわけですよ。「これ解ったらおかしいよね」っていう。

 

杉本・浜田;(笑)

 

浜田:間違ってるんだから。

 

杉本:本人だけがわかったつもり、みたいな。

 

浜田:だからそう、「つもり」なんですよ。あくまでね。いやだから酷いなぁ、と思ってるんですよ。翻訳の問題は。もう僕は若い頃に翻訳しただけで、それ以降は全然やってないんですけど。だけど勉強にはなりますね、翻訳はね。だから翻訳本はあんまりあてにしちゃいかんと思ってるんです。もちろん読める翻訳はいいと思うんです、理解ができる本。だけど解らん本については一度疑った方がいい。翻訳がおかしくはないだろうか。そういう意味では、ワロンなんかも本当に訳が十分出来ていなくてね。で大家って言われる人たちが訳してるんですよ。だけど偉そうに言うようだけど、やっぱり間違ってると思わざるを得ない所が沢山あって。1ページに23か所間違ってるのもありますからね。解るはずないでしょうって。翻訳をし直した方がいいんじゃないかって言って、ちょっと若い人には焚きつけてるんですけどね。

 

杉本:うーん。なるほどな。

 

浜田:いやおかしな世界ですよ、学者の世界。

 

 

 

当たり前の世界は「出来上がってきた」もの

 

杉本:それで翻訳に関しては「わかったつもり」ということで解ったんですけど、僕が見てる世界っていうのは、当たり前で、自分自身なかなか社会的に適応できない所があるので。最初はね。適応できない自分が悪い、おかしい、間違ってるなんて思ったりしていたということは、僕の主観の中で、やはり世の中とか人間関係とか社会関係ってこういう風になってるものだ、っていうものが思春期ぐらいからあって。それをなんていうんでしょう?インタビューとか、こういう作業をやりながら、少しずつ少しずつ、こう…「解体してる」っていうほど大袈裟なもんじゃないんですけど、いろんな意見を聞いてみよう、っていう試みなんですね。そこで、やっぱり発達に関する心理って端的に言えばピアジェ的な、といったら乱暴なことを言うなといわれてしまうかもしれませんが、子どもの成長は白紙のような状態から始まって、周りの環境も自分の手で少しずつ操作できるようになっていき、それがどんどん、どんどん階段状に上がっていって。で、思春期を境にいろいろな葛藤を経て成長して、大人になるみたいにすごく単純に思ってたんですけど。でも浜田先生の発想は、正直ちょっと違うと思うので。でも「これ、こういう考え方あるな」って思う。なんか説明ができないんですけど、あるなって思うけど、一般のコミュニケーションの世界で浜田先生のような議論を立てた人に私は出会ったことがないので(笑)。

 

浜田;ははははは(笑)。

 

杉本:(笑)本当にいないんですよ。だから非常に刺激的でして。

 

浜田:僕もなんか周辺に色んな人がいるので、同じような議論をずっとやってきてるんですけど、ですから、発想は「自分たちの当たり前を前提にしない」っていう事なんですよね。

 

杉本:哲学的ですね。そう考えると。

 

浜田:だから考えてみたら例えば、僕らはもう私がこの世界を生きているっていう風にごく当たり前に、私がここにいて、この世の中をこうして生きていますと思ってるんだけど、そういう構図が当たり前になってしまっているわけですよ。だけどこれは遡っていけば、例えば新生児の段階があるわけですよね?じゃあ新生児は私が「この世の中に生まれてきて、ここからいま、生きていくんです」って思っているかといえば分かりませんけど、まぁ、ちょっと似た構図はあるかもしれませんね。世の中に出てるから。だけど胎児はどうだ?って。その前は胎児ですから。胎児は「いまお母さんの体の中にいます」と思っているのか。その胎児のもうひとつ前は受精卵があるわけですね。じゃあ受精卵が「私いま卵です」って思ってるとは思えない。で、受精卵もその前がある。物質ですから。そうするといま私がこうしてここに来てるっていう構図も、遡れば雲散霧消する訳ですよ。だから逆に言うと、「出来上がってくる」わけですね。いま私たちが当たり前だと思っている世界は形成されてきたものだ。で、形成されてきたってことはやがて崩壊するもんだと。そういう構図の中にあって、形成の過程を追うのが発達心理学だという時に、当たり前の世界がどうやって形成されるのかって話なんですよ。

 

杉本:なるほど。

 

浜田:ですから、さきほどの外のものは外のものとして見えるのは何故か?なんていうのも、大きな問いなんです。外のものが外のものとして見えない子たち、重度心身の子たちはいつまで経っても見てない目のまま大きくなっているわけですよ。彼らの世界はじゃあどうなってるんだ。そういう当たり前、目を開けたら外のものがパッと見えてるという世界を前提にしないということ。それも形成の一つのプロセスであるということであって。で、それが描く世界をどう見ればいいのかっていうこと。だからそれが発想としてはごく当然で、哲学的にはその世界は「現象学的還元」っていう、元に還るっていう発想の中で出てきたことで、それも発達は文字通り目の前で起こっていることですから。受精卵が身体を形成し、この世の中に出てくる。それは外から見えてる姿だけじゃなくて、内側から生きてる世界も私がこの世界を生きてるっていう構図が出来上がってくるわけですよね。かつ、出来上がってくるって事は、出来にくいって事もあるわけですよ。例えば自閉症の人たちは何らかのハンデを持った時に、私がこの世界を生きてるって構図が出来にくいって事になり得る。ではどう見ればいいのかという話になったとき、私たちのいま当たり前の世界を前提に置いて、この子にはこういう所が出来ないっていう風に言っていいのか?っていうこと。まずこの前提は「出来てきたもんだ」っていう目で見ないとちゃんと見えてこないだろう。

 

杉本:そういった子たちを、僕らがある種のハンデを持った存在だって言うのもある種の傲慢で。最初にまずは自分自身を考える…。

 

 

 

こちらの「当たり前」から引き算でものを見ている

 

浜田:そうそうそう。だから僕らがこうしていること自身が不思議なんだっていう発想なんですよね。だから、一般にはもう出来上がってしまって、自分ら大人になってしまって、人間ってこんなもんやって思い描いてしまってますから完成図を描く。そこから引き算で障害を見るんですね。視覚の能力がないのが視覚障碍者、聴覚の能力がないのが聴覚障碍者、人間関係うまく取れないのが発達障碍者、っていう感じで。完成の所から引き算で見るわけですよ。だけど引き算ってないでしょう?育ちの中には。元々視覚で外の世界を捉える事が難しい人たちはどう育っていくのかという問題であって、育ったところから引き算で出てくるわけじゃないんですよ。ある意味で発達的な発想っていうのはごく自然なんですよね。だから視覚障害の人たちは僕らの世界から視界を取り除いたら視覚障碍の世界になるのかって言ったらやっぱり違う訳ですよね。見えなかったら空間をどう認識するかって話になりますからね。視覚空間がないところで世界をどう立ち上げるか、立ち上げることができるのか、ってことですから。たぶん僕らがこういま、当たり前になってるけど、目をつむったら視覚障害の世界になるのかって言ったらそれは違う訳です。耳もそうですよね。聞こえなくなって、耳をふさいだら聴覚障害の世界になるかって言ったら違う訳で、やっぱり言葉というのが大きいわけですけど、言葉が成り立たなくて、手で言葉を作るっていう事をやるわけです。やっぱり違う世界なんです。

 

杉本:違う世界かぁ…うーん…。

 

浜田:だから僕なんかも、そういうのは当たり前の発想だと思うんだけど、中々そういう発想は根付かない。みんなは自分が当たり前だと思ってる。

 

杉本:ですねえ、確かに。まさに引き算のような発想が根付いてると思います。

 

浜田:そこの所を、根っこからもう一度考え直すという作業を発達心理学はしなきゃいけないんだろうな、と思うんですけど。十分やれてないな、って思いますけどね。

 

杉本:というか、発達心理学っていう世界も根本から捉え返さないといけないのかもしれないですね。

 

浜田:そうそう、それはそうなんですよ。

 

杉本:でもそうすると、社会的な仕組みやなんか全体もひっくるめて、あの…揺らいでいくので、ものすごくラディカルなものになっていきそうですね。

 

浜田:そうなんですよね。ものすごくいろんな問題をはらんでくるんです。だから例えば僕らも観念世界を描いてしまって、観念の世界で世の中を整理してみて、いまの目の見える範囲を超えた世界をどっか前提に、北海道から来はったんやとか、僕は尼崎から来たとか、いま見えないんところを想定してやってますけど、それはある種の観念の世界が支えてるわけですね。もちろん確かめようと思えば、飛行機で飛んでいって確かめて、北海道を確認できるわけですけど。だけどそれは行ったら確認できるものがあれば、そうできないものもある。例えば神様みたいなね。どこに行ったって確認ができない訳ですよ。いるかどうかわからないんですから。だけど神様がいるかのように振る舞うことはあり得る訳ですよね。だから観念を僕が作り、世界を作ってるわけですけど。だけど観念って、考えてみたら実に怖い話で、例えば9.11でビルに突っ込んだテロリストがいると。あの場面を見た時に「突っ込む奴が居るんだな」と僕は思った訳ですよ。つまりその、目の前に飛行機でその大きなビルに突っ込む場面までに操縦かんを握り続けてるわけですよ。

 

杉本:そうですよね…。

 

浜田:避けずにね。それは何でかっていう風に考えたら、すっごい事ですよね。だけどそれは彼らにとっては突っ込んだ先の世界がある。自分にとってのあの世が保証されると思わないとアレはできないですよ。

 

杉本:できませんよね。

 

浜田:自分がここで消えるんだと思った時に、できるかって言ったらやっぱり難しいだろう。だからそういう意味では観念の世界…テロっていうのはそういう観念。まぁテロに限りませんけど、国家主義っていうのはある種の観念ですから。存在しないものを一つの根拠にして動いていくっていうことでしょ?戦争なんかもそうですよね。なぜ出会ったこともない見ず知らずの人間を鉄砲で撃てるんだ?って話ですよね。だからその観念っていうのは一体何なんだ?っていう議論は本来発達の問題と重なってくる話です。

 

杉本:確かに。

 

浜田:そう考えてくるともう訳わからなくなるんですけど。

 

杉本・浜田:(笑)

 

浜田:難しくて。だけどそういう発想が必要だなと思ってるんです。でないと、本当の意味での発達論というのは、あの…できないんじゃないかと思うわけですよ。

 

杉本:でも発達心理学で将来、福祉の世界に入ろうとか、臨床心理の世界に入ろうなんて思って浜田先生のそういう話を聞いたら「はぁ?!」みたいな感じになるでしょうね。

 

浜田:いやいやいや。

 

杉本:「そこから…ですか?」みたいな(笑)。

 

浜田:いや、だけど、そこに行かないとほんまもんのというのか、本当の関わりは難しいんじゃないかと思うんですけどね。世の中の当たり前を前提に置いて関わるということで済むんですか?っていうふうに思いますけどね。だからいま僕もあちこち発達心理の世界以外の所に顔出すことが多いですけど、支援の現場で、やっぱこういう話が求められてることもある。

 

杉本:あ、そうですか!

 

「観念」というものの怖さ

 

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メルローポンティ 1908-1961。現象学の立場から身体論を構想した。37歳のとき主著『知覚の現象学』を出版するとともに、サルトルと「レ・タン・モデルヌ(現代)」誌を発刊する。戦後はパリ大学文学部教授となり、児童心理学・教育学を研究する一方、冷戦激戦化の中、マルクス主義に幻滅し、サルトルとは決別した。メルローポンティは、知覚の主体である身体を主体と客体の両面をもつものとしてとらえ、世界を人間の身体から柔軟に考察することを唱えた。身体から離れて対象を思考するのではなく、身体から生み出された知覚を手がかりに身体そのものと世界を考察した。彼の哲学は「両義性の哲学」「身体性の哲学」「知覚の優位性の哲学」と呼ばれる。(ウィキペディアより)。