「観念」というものの怖さ

 

浜田:例えば相模原事件なんかは何故起こるのかって事を語り始めた時に、とんでもない奴がおるんだっていうレベルで理解するのか、なぜああいう事が起こるのかって考えた時にやっぱり同じく観念の問題なんですよね。で、障碍者というラベルを貼って役に立たない奴がおるという。役に立たない奴がおるという整理の仕方っていうのは、まあこれ実はかなりの人が共通するんだけども、だけどそれは結局ハンデ持っている人と生身の付き合いをしてないからラベルでくくれるわけです。観念の枠組みでね。そういうことが、例えば相模原の彼は障害の人と出会って仕事としてやったはずなんだけど、実はそこで生身の人間同士としての関わりが出来てないから、ラベルでくくれた訳ですね。役に立たない障碍者、という風に。だからあの事件にはそういう背景があったはずなんですね。ナチで大量虐殺が出来たのも、純粋なドイツ人を称揚し、ユダヤ人はダメだって言う。そういうラベルをはめる。観念のラベルを貼ることでできた事で、まさに人間ではないかの如く殺せるっていう事でしょう。ですからそういう問題を考えようとした時に、例えば支援の現場で、支援って何なのかって議論をした時に、ただ生きにくい人たちの援助をするんだって話じゃなくて、じゃあその人たちとどんな付き合いをするのか?っていうことを抜きにやっていくと、あの相模原事件の彼と同じようなことが起こるわけですね。

 

杉本:うん。私もいま父がですね。老人保健施設に預かってもらってるんですよ。ですから、いろんな意味で感謝してるんですね。在宅で介護してるわけじゃないですから、お任せしてる部分が大変ありますから。で、そういった支援をやってる人たちの心情というかな。そういうものを考えた時にですね。やっぱり職員さんに会うと善意を感じるともう心中で手を合わせてるんですけど。何を言いたいかというと、本当に大変だな、と思うんです。ただでさえ人の身体を、もうシモのものから全部世話をして、それが仕事だからっていうような整理の仕方もあるかもしれませんけど、それだけじゃ出来ないはずなので。で、いま浜田先生が仰られたような所のレベルまで考え出すと本当に大変なことだな、と。やっぱり恐れおののくなぁ、と。僕なんかは怖くて出来ないなという風にさえ思っちゃいますね、支援は。

 

浜田:出来ないんじゃなくて、僕も出来るかどうかって言うと、難しいかもしれんと思うんですけど(笑)。あんまり上手じゃないです、そういう関わりは。ただ、「あぁ、人ってこうやってあの世に還るんだな」と思えば同じですよね。赤ちゃんと同じですから。逆をたどってる訳ですから。我々だって同じ立場にいずれなるわけで。それはだけど、人ってそんなもんやって思えば、別に単にお金を稼ぐ職務としてやるわけじゃなくて、人の在り方としてそれは支えるのがごく自然。だから社会制度として施設があって、そこでお金をもらってということは当然必要な事なんだけれども、それだけでいいのか?というと、相模原事件のようなことが起こってもおかしくないっていう話になりますよね。

 

杉本:そうですよね。

 

浜田:あんな安い給料でもって、大変な仕事させられて、っていう。で、そうなると「こいつら役立ってへんのに、なんでこんな面倒見なあかんねや」ってなりかねない訳ですよ。だけどそれは、そういう発想になってしまったら、本来の社会で支えるっていう部分が本当の意味で出来ないわけですよね。お金でそういう汚い労働をさせてるって話になっちゃうわけですよ。で、実際にもう「こいつら役立たへんから殺した方いいんちゃうか」って同じ発想なんですよね。それはやっぱ違うでしょうって、どっかで思いますよね。

 

杉本:一応介護保険で、介護福祉士とか社会福祉士さんとかいう形で資格を取って、専門職として、ヘルパーの資格など取ったりして、専門職として入るんですけど。僕も一応社会福祉士を机上勉強だけで試験だけ受かってる人間なんですけど、間違いなく、こういう議論は私が通信教育だっていうものがあったとしても、出てこないですよね。

 

浜田:(笑)まぁそうですよね。

 

杉本:なんか根本からやっぱり疑問と闘わなくちゃいけないという感じがしますね。でも正直、ちょっともう一つ雑談言いますと、うちの母親が最近かなり認知力が落ちてるんですよ。で、たまたま兄がいま定年退職を迎えて明後日まで家に居てくれるんですけど。取り違えるんですよね、私と兄を。呼び違えちゃったり。混乱してる。いろんな意味で混乱してて、前からそれはなってるんですけど、いつもは私と二人なんで基本落ち着いているんですが、兄が帰ってきてなお一層混乱しちゃったりしてて…あの…子供のその成長過程ってやっぱりケアが必要じゃないですか?色んな意味で大人の人たちの。で同じようになっていくんだなって、やっぱり思います。

 

浜田:そうでしょ?そうです、そうです。

 

杉本:形としては。だんだんそうなって、よく子供返りするって言い方しますけど、父にしても母にしても言い方が適切じゃないですけど、人間としての、生き物としての終わりってこういう風になっていくんだな、って。情の部分で言うとすごく冷たいんですけど、冷静に引いてみるとある意味では発達を考えるのと同じものだなっていうことを思います。発達経過の終わりっていうのかな。

 

浜田:だから形成と崩壊なんですよね、冷たく言うと。形成過程と崩壊過程。同じだけど、それは人間のサイクルで。

 

杉本:もちろんみんなそれはね。そういうふうに言語化しなくてもわかってはいることなんですけどもね。

 

 

 

死を意識するのは人間だけ

 

浜田:そうそう。だから、子どもには未来があるから。なんか関わってても年寄りは死ぬだけ、みたいな。だけどそれはけっこう大事なことだろうなとは思うんですよね。その亡くなっていくプロセスというのもけっこう大事で。あの世に帰るんだというのは宗教的な言い方になるかもしれませんけど、土に還るわけですから。それはもう誰もがやむを得ずなることですし、それはもう当然ながらそれこそ当たり前のものとして引き受けるってことに本来なるはずなんですよね。

 

杉本:でもなかなかじたばたするって言いますか。前に臨床心理の先生の話で、これはいわば「下山の心理学」のようなものなんだよって仰ってくれたんですね。昔はフロイトなどの時代であれば、例えばフロイトの親が20代のときに子どもをぽんぽんと生んで、人生60年くらいで終わり。でフロイトが20歳くらいでこれから伸びて発展していくって時に親は死ぬという形でいわば自由になる。成長して山を登っていく過程で親は亡くなるっていう意味では背負っている感覚はやっぱり少ないと思うんです。だけど現代はやっぱり長寿ですし、そうすると子どもが壮年期、場合によっては老年に入る頃にまだ親が生きてるということで、いわば一緒に下山してる。先に降りてる親がばたって倒れていく。それを見ていくようなもんだとうふうな表現されて、ああそうだなあっと思って。それどう思います?って言ったら、「いや俺もまだわかんね。俺東京に置いてきてるからね」とかって仰られて。ああそこでは同じなんだなあと思って。立派な先生も私も。

 

浜田:そらそうですよ、一緒ですよ。

 

杉本:ちょっと安心しましたというか、勇気をもらったというか。「俺もわかんないんだよね」と仰られたので。でもこれはいまの発達の話とずれちゃいますけど、これから物を考える際にごちゃごちゃ感が少しずつ整理されていく壮年の人たちが、老いてく自分の親を見るときにどうそれを捉えるかっていう。人間の崩壊を子どもがですね、どう見るのかっていうことがすごく大きな問題だと思うんですけど。

 

浜田:まぁそうですよね。

 

杉本:問題になってくるんじゃないかという気がするんですよね。

 

浜田:ま、だけどそれはなんというのかな……。避けようのないことですからね、人類として。だからそれこそ仏教の世界で言う四苦。

 

杉本:そうですよね、四苦ですよね。

 

浜田:避けようのないものだから、苦なんですよね。

 

杉本:僕もそのとき言ったのは、生老病死という言葉しか浮かばないんですよねって話したんですよ。

 

浜田:そういうもんですよ。で、そこで生老病死といえばひとことだけど長い間を経てそれをやっていくわけですから、それはもうどういう引き受け方をするか、っていうことですからね。

 

杉本:そうですか。こればっかりはなにかこう学問的にというよりも、個人個人で考えてくしかないですかね?

 

浜田:それはそうですよ。それを何といったらいいかわかりませんけど…。それこそ避けることができないものですからね…だから生老病死なんですよね。

 

杉本:変なわけのわからない宗教というより、でもなんとなくこう「宗教性」みたいなものを考えざるを得ないな、っていうところがあります。

 

浜田:それはそうです、僕もそれはそう思います。宗教的ってのはそのいわゆる宗教という組織の問題とは違ってね。宗教心というか、自分たちを超えた何かの中で自分は生きてるっていうことはもう当然ですから、自分の力で生きられてないっていうことは確かですから。

 

杉本:で、これはこういう話の連続の中でいうと、みんな当たり前に親に世話になってんだもの、やっぱ親を看取るってのは考え込まざるを得ないんだよっていう当たり前の答えが出ちゃうんですけど、動物はあれじゃないですか?当然、見やしません。人間以外はね。

 

浜田:それはだから人間だけだからね。死を意識したのはね。

 

杉本:ええ。

 

浜田:だから「死を意識する」ってのはすごく大きいことで、他の動物で死を意識するってまずあまりない。ま、一定程度はあるにはある。例えば自分の子どもが亡くなった時にその死体を離さずに持ち運びしてるっていうチンパンジーの話とか、そういう話聞きますし、一定程度身近にいた者が亡くなることに対する思いは共通のところがあるとは思うんですけれども、だけど死というものをひとつの観念として描くっていうことは人間独特のことで、宗教の問題というのは結局、「死の問題」ってのが非常に大きいと思うんですよね。その人間の生死で境界が閉じられていて、で、それも閉じられていることを意識せざるをえない。目の前の生きているやつがものを言わなくなって、土に還っていくのを見るわけですから。で、自分もまたそうなんだってことを考えざるをえないという中にいて、そうすると自分だけで生きてるわけじゃなくて、自分はこの大きい、この宇宙の中に支えられて生きてるっていう。まあそんなことを考えざるを得なくなってきますから。

 

杉本:そうですね。どうしようもないものって感が、つまり自然。自分も自然界の生き物に過ぎない。どんなに観念を肥大化させてもそうなんだっていうことですよね。

 

浜田:そうなんです。だからそういう種類の宗教心は誰もがもってる。どこかにあるはずなんですよね。人間が死を意識する存在である以上、それはそうならざるをえない必然性を持っているんだろうけど。

 

杉本:で、その中でやっぱり自分の親に関しては特別他の人の死よりも一層あるっていうのは…。

 

浜田:まあ親に限らないと思いますけどね。いろんな身の回りで身近な人が亡くなるとやっぱりそれはありますけど。

 

杉本:そうですねえ。たまたまね、私の場合は同居が長いから。若いときというか、中年ですけど、そのころからずっと見てて、元気な時はかなりキツイことも言われて、でも今は本当にそれがないんですよ。だから頼られることばっかりが多くなって。

 

浜田:まあそう、それはそうだな(笑)。

 

 

 

身体が先に崩れるか、心が先に崩れるか

 

杉本:親父はまだものすごく頭がキレキレで、体は動かないのに頭はすごくよくて、兄もこの前帰ってきて「頭、凄い冴えてるな」って言ってて。お袋は体は元気なんですが逆に頭がどんどんとね、ぼやけてきてしまって。

 

浜田:いろいろですよね、タイプがね。

 

杉本:まあ、人間の欲得でいえば、体と頭が一緒くたに元気であって欲しいところですが。

 

浜田:難しいですよ。それはそうなってるものなんですよ。ほら、酔っぱらう人でも体がダメでゲエゲエ吐く人。意識ははっきりしてるんだけど体がまいる人とね、体はピンシャンしてんだけど、どっかおかしいことをやって大変なことになったり。体が先に崩れるのか、心が先に崩れるのかどっちがって。酔っぱらった人間でもね。

 

杉本:ははは。頭っていうのかな、覚えていないってやつですね。

 

浜田:そうそうそう。覚えてなかったり、とんでもないことしたりするやつがおるじゃないですか。

 

杉本:べろべろに酔っぱらっちゃう人とかね。

 

浜田:体はピンシャンしてるから、もう乱暴なことするわけですよ(笑)。

 

杉本:そっか。それはそれでまた問題ですね。

 

浜田:だから高齢になって人も体が弱っていって、頭はシャキッとしてるんだけども、体が弱っていく人もいれば、体はピンシャンしてんだけども頭がどうもどっかおかしいな、ってのも。

 

杉本:なんかそう、夢幻ていうか、夢と現(うつつ)の間を行ったり来たりしてる感じはありますよ。

 

浜田:そうそう。

 

杉本:まあ、まだ極端ではないんですけどもね。まだらな感じなんですけど。

 

浜田:ま、だけどそういう世界を生きてるんだって思えばね。それはそれで楽しいかもしれない。ははは(笑)。

 

杉本:ただね。こうやって私同居してますからあまりにもこう同じことを確認させられたりするとやっぱり…。

 

浜田:イラッとしますか?

 

杉本:いけないいけないと思いつつ、きつい調子で言っちゃったりするんですよね。

 

浜田:そりゃそうや。

 

杉本:向こうは感情的にはまだしっかりしてるから傷つけてるなってやっぱり思うし、傷ついてることは傷ついてるはずだな、って。

 

浜田:それはそうだね。どうせだったらそこはお付き合いすればそのほうが楽なんだと思いますけどね、相手の世界に入って繰り返したときに「はあ~。そうやねえ」と言っといたら、楽やろうけどね(笑)。

 

杉本:それは私のカウンセラーの先生もそういう風に、ってアドバイスしてくれるんですが、なかなか。「まあ、なかなか大変だけどね」とかってやはり言われますけど。

 

浜田:まあそれはそうです、こっちだって考えるから。

 

杉本:先生は漫画とかって読まれますか?

 

浜田:いや、最近のはあんまり読まないです。昔は読んでましたけど。

 

杉本:『ぺコロスの母』という漫画がありまして。あれはほんとに中年の、まぁ中年というよりも、はや老年期にはいらんかってくらいの年齢の60代くらいの作者が認知症になったお母さんを看取るって話なんですけど。グループホームに入るちょっと前くらいのぼけてる状態からずっと描いてるんですけど、あのかたは達人というか。母親の過去、現在、未来を縦横無尽に行き来するわけですよ。お母さんのその世界の中にその人も一緒に入っていってくような描写の漫画で。こういうふうになれたらいいんだけどな、って。だってこっちはもうなんかいろいろとね。浜田先生にあったり昨日もアナキズムの研究をやってる先生に会ったりして、覚醒力を高めようと思ってるこちら側としては(笑)認知力衰えてる人を相手にすると、下手したら相当厳しい目線で見てる可能性があるので…。

 

浜田:だけど面白さもあるでしょう、その少しぼんやりし始めたときの。

 

杉本:面白いかなあ?

 

浜田:あるんじゃないかなと自分では勝手に思うんですけどね。

 

杉本:自分がですか?

 

浜田:いえいえ、お母さんがね。少しぼけてきた時にね、面白い世界を生きてるんかなあ?っと思ったりすることはあるんじゃないですか。

 

杉本:ああ、そういう風な描写をされる方です、その人は。母は面白い世界を生きてるっていう。

 

浜田:うちなんかもね。親父もお袋も死にましたけども、体が先に参るほうだったので、頭がぴんしゃんして体がダメになって死んだので、まったくもうそういうことはなかったですけど。だけど呆けというのは逆に面白い世界を味わってるのかもしれんと思うことはありますねえ。

 

杉本:いま現在じゃなくて過去の記憶を今生きてるような時はありますね。だから居間の向こう側に父が寝てた介護用のベットがあるんですけど、あそこで誰か寝てないか?って。いや誰も寝てないよと。すると寝てない?なんか私のお父さん、おじいちゃんが寝てるような気がするって言うんですね。「旦那じゃないの?」って突っ込みいれたいんだけど(笑)。ウチのお父ちゃんのことじゃないのかい?って言いたいんだけど。その時、お袋的にはお父さんが生きてて、まあ凄く温和なおじいちゃんだったんですけど、お父さんが生きてた頃の自分。うちのお袋はナースで、おじいちゃんの介護もしてたので。やっぱりそういうような連想なのかな、と。居間とベットでずっと介護してたんですよね、父を。で、もう無理だなって僕の方で判断をして、病院、施設という流れを僕の方で進めちゃったんですけど。そう考えると、これは勝手な思い込みですけど看護の対象者がいなくなっちゃったところで実際は旦那をやってたんだけど、いろんなものを投影しちゃったのかな。お父さんになっちゃったり、旦那になっちゃったり。

 

浜田:そうですねえ。

 

杉本:旦那をお父さんと思ってたのかもしれないし、どっかで自分の父親的に考えてたのかもしれないし。いまのは思い付きで言ってるだけですけども。

 

浜田:ま、だから世話される一方、というのは人はつらいですからね。何か自分がケアをしてるんだ、っていうのかね。そういう思いを持つっていうのはある部分自然なことで、自分を支えますよね。自分は相手から面倒をみてもらってるだけじゃなくて、自分が何かをやって相手が喜んでくれるっていう姿が自分を支えるってことはあるじゃないですか。だからその介護をするって経験がお母さんにとっては大きかっただろうし、それは大変なことをしたってだけじゃなくて、相手が喜んでくれるのがうれしいっていことでしょうね。

 

杉本:そうですね、まさにそうです。うちのお袋は生き甲斐が他人の世話の人だったと思います。だからちょっと寂しいんだとは思います。自分にできないことが増えてくることが。

 

浜田:そうなんだと思います。逆になんかケアするっていうのか、何かする相手がいたほうが健康になるんじゃないかと思いますよね。…ま、そういう意味ではちっちゃい子がいるとかね。いやいや自分の孫とは限らんですよ。孫とは限らずにいろんな人、子ども、周辺に子どもがいて面倒を見られるような役割があるとかね。そういうのが自然なんだろうと。

 

杉本:先生が最近お書きになっているような本でもおそらくそういうものがなくなってるっていうことの危惧感はお持ちなんだろうなって思いましたね。

 

浜田:そうですね。

 

 

 

現代は円環する生き方から直線の生き方になってきた

 

杉本:私の周りは住宅街で、もう同じ町内会の班でも高齢者しかいないんですよね。子どもがまったくいないので静かで閑散としてていいんですけど、そうするとほんとにアレですよね。あと父に関していうと施設はやはり老人しかいないわけで、あとはもう職員の人しかいないですから。なんかこう生理的に「ううむ…」って感じがありますね。これは社会なのかな?っていうか。

 

浜田:だから、直線でその年齢、ゼロ歳からまっすぐ歳がいくまでの直線ていうのじゃなくて、昔は大きくなる過程の中で、自分より後ろにやってくる子どもがいて、子どもの後ろに孫、別に血縁でなくてもいいんですけども、後ろから来る世代がいて、っていう円環で生きてたでしょ?自分が死んでいくっていうのは次の子が育つ過程だっていう。だからいまはもうそういう地域の共同体が無くなってるもんですから、一本線なんです。生まれて稼いで、稼いで施設に入って。そこでコトンと死ぬんや、っていう。後から来る人からは見えない構図の中で、一直線で生きてるっていう感じですよね。だから昔はなんやかや言いながらも、「円環」。生まれてくるところから閉じてるんですよね。自分の後ろから来る世代が見える中で死んでいくっていう構図があったと思うんですよ。生き物みんなそうだったんだろうと思うんですね。で、いまみたいにそれこそグローバリズムの状況で、人が移動するのが当然っていう。その地域が無くなってしまった時に一方通行になっちゃう。行きっぱなしの人生ってやつ。だから行きの帰りがない、っていうことね。

 

杉本:行き帰りがね…。

 

浜田:だからそういう意味では人類ってのは凄く大変な状況を作ってきてる。僕らの時代の子ども時代はまだ人は場所を「動かない」って前提でしたから。

 

杉本:ええ。

 

浜田:今はもう田舎に帰るってことも、田舎ってものが無くなってきてるからね。

 

杉本:そうですね。

 

浜田:一直線になってるんですね、人の人生が。円環じゃなくて。だから還暦といいますけど、還暦の実感がなくなってるわけですよ。暦は巡ってまた戻るっていう。で、まぁだいたいそれで死ぬわけですけどね、次の世代が育って。

 

杉本:還暦ってそういう意味もあるんですか。

 

浜田:暦が一巡りするっていうことですからね。

 

杉本:なるほどね、そういうことなのか。

 

浜田:だからその、僕らの人生のイメージも、もう一直線なんですよ。

 

杉本:いや、ほんとそうですね。ちょっと寂しいものになってきてますね。

 

浜田:だからそれはもうある意味では家族がそういう状況を作ってきたのはもう変えようがないと思うんですけど、改めてだけど、周りに次の世代がやってくるのが見えるような共同体を作ってくって発想が必要なんでしょう。それが自分の子どもでなくても、というのが必要なんだろう。だからちょこちょこと老人施設の横に保育所っていうようなね。で実際、交流がどこまでなされてるかはかなり疑問ですけど、そういう発想はちょっとずつありますけど。

 

杉本:なんなんでしょうね、ですからもう老いて90歳くらいまで、ウチ90歳まで生きてるんですけど、そういう歳の人たちにとって幼児とか子どもがいるっていうことがどういう喜びの形なんでしょう?

 

浜田:いやあ、でも子どもってのは面白いですよ(笑)。子どもは遊んでくれますからね、偏見なく。

 

杉本:確かにね、邪気がない。

 

浜田:それはだけど、遊んであげる子どもが目の前、周りにいるっていうのはすごく大きいですよ。お年寄りにとって。いや、もちろんかなわん人もいると思うから。うるさいのはかなわんって。それはもうその人が遠ざかればええだけの話で、昔から子どもなんてかなわんって親もいたんですけど、でもそういう意味では関わろうと思えば近くにいるっていう構図がおそらく一番自然なんでしょう。人類はそうやって生きてきましたから。一直線で生きるようになったのは最近ですからね。ま、その一直線で行った先を社会的な制度で、老人施設という形で支えようって発想が無理があるわけですよね、おそらくね。

 

杉本:しかしまあ、社会を形成、維持していく以上やんごとなくそうなっちゃってしまっているというか。まあでも工夫のしようは今後必要なのかもしれませんね、いろいろと。というか私が年取ったら本当、どうなっちゃうのかなあ?ていうか、もうなんの想像もつかないわけですけど。

 

浜田:そうですか。

 

杉本:えらいこっちゃろうっていう、この方向性が変わらないという予測に立てば。

 

浜田:まあ、そうですね。そら僕らも他人事じゃなくて自分自身もそうですけど。

 

 

 

相模原事件 2016年(平成28年)726日未明、神奈川県相模原市にある、神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」に犯行当時26歳の元施設職員の男Aが侵入し刃物で19人を刺殺、26人に重軽傷を負わせた大量殺人事件。第二次世界大戦後の日本で発生した殺人事件としては犠牲者の数が最も多く、戦後最悪の大量殺人事件として日本社会に衝撃を与えた。(ウィキペデアより)

 

 

 

人間、この両義的な生き物

 

 

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