生涯発達の心理を語る 平野直己さん(北海道教育大学准教授)

 

ー 自分で、自分の悩み相手を見つければいい訳ですよね?そこから先は。ところで最近『セラピスト』という本をとても興味深く読んだんですよ。最相葉月さんというノンフィクションライターが書かれてるんですけれども。あの~、タテ軸は河合隼雄と中井久夫さんなんです。中井久夫さんの絵画療法をお互いにやってるのをひとつの軸として。もうひとつが心理療法の歴史なんですね。やっぱり一応、二大巨頭じゃないですか?まあ、小此木先生も勿論そうなんですけれども。フロイト学派はちょっと出てこないのですけれども。

 

平野 ああ、関西の話ですね。

 

ー そうですね。関西の人たちの話ですけれども。そこでもやっぱり最近の悩みは”悩めない”。あるいは主体的な問題がちょっと見えにくくなっている、ということが書いてあって。いまの臨床の問題。で、臨床をやる側の人もだんだんそういうことがわからなくなりつつある、みたいなことも書いてあるんです。

 

平野 そうそう。主体性なくても出来るカウンセリングみたいなのがあるらしい。

 

ー 主体性無くても出来るんですかね?

 

平野 だからそういうのが無い臨床心理士も、精神科医もいるらしいよ。

 

ー 実存的な問題はほとんど取り上げない?

 

平野 そう。DSM-Ⅳ、DSM-5の場合は診断できるから、自分の責任じゃないわけよ。だって、もう神経症というカテゴリーが無いんだから。DSMに。

 

ー そうですよねえ。いま神経症という言葉、無いんですよね。

 

平野 不安障害、社会障害。

 

ー 全部、障害ですもんね。

 

平野 そう。だからすべてそれに対しての処方という形になるからさ。だから神経症の何というのかな?だから「悩む」という概念がないの。主観的なものを排除するわけ。

 

ー でも、対人恐怖なんて非常に日本文化に根ざしているものなので、無くされると。社会不安にされちゃうと、例えば森田療法の生きる道は厳しいですね。

 

平野 そうそう。ああいうようなフィロソフィーのあるような心理療法はアートの世界だから。で、いま医療現場に必要なのは「効率性と質の最低限の保証」だから。つまりあんまりそんなフィロソフィーを求めないわけよ。下手にフィロソフィーを求めたりすると面倒くさいわけ。

 

ー 時間がかかりますしねえ。

 

平野 そう。だから医療費がかさむわけだから。だから如何なものか、というのがひとつの圧力なんですよ。

 

ー そうですねえ。そのタテ軸話で行くと、アートでずっと来た療法がいま仰るとおりの状況にあるという問題提起で終わっているものでした。その本は。

 

平野 そうそうそう。だからいまはそこが苦しいとこだね。で、多分杉本さんが会う人たちは哲学を持っている人たちだと思うんだ。というか、会いたい人たちはそういう人たちだと思うんだ(笑)。

 

ー (笑)そうですね(笑)。本当に。

 

平野 はははは(笑)。そうそう。でも哲学を持たないという哲学もあるからね。それも何というかね。経済的なところとか、国のシステムの中に割り込んでいくのかという中に目指している人たちもいるわけだから。それはそれでいいんだけどね。僕みたいな浪花節みたいな人にはちょっとね。

 

ー浪花節に義理と人情って最近僕、大事なんじゃないかと思い始めているんですけどねえ。年取るとだんだんそんな風になってくるんだなあと最近しみじみ思うんですけど。

 

平野 うん。でもこうやっていろんな人たちに会いに行けるなんてすごくいい事だと思うし。

 

ー ああ。それは涙もろくなってきたからじゃないですかねえ。

 

平野 へえ~。

 

ー 何かしみじみと情緒的に語り合える人に会いたいという感じがあるんです。はい。

 

平野 そうか。だから俺、そのさっき言いたいのはね。あんまりカウンセリングっぽくなくてね。そう細かさがないと思われるかもしれないけどね。やっぱり結構、事はそう難しくなくてシンプルだと思ってるんだけど。「誰も声かける人がいない」とかね。それが出来ないそれぞれの事情というか、それぞれ個人差があり、ストーリーがあることで。実はとっても俺、不登校もそうだと思うんだけど、シンプルなことなんだと思うんだよね。

 

ー ただ、とっかかりをつかむための言葉のツールがなかなか共有できなくなりつつあるのかもしれませんね。

 

平野 そう。そうなんだよ。でもそれもやっぱり思春期や青年期についての発達的な理解の枠組みが底辺にあって、これは心理療法で作られているものなので、こういうものがあるからこそ、地域ではこの部分について「どこがどんな形になっているのか」とか、「そういうセラピーの場所に来る土台となる、その土台になるようなものがどこでどういう風に作られていくのか」、という理解の手がかりになる。

 

ー そうか。そうですね。

 

平野 そこは大事だと思うね。

 

ー 臨床場面の展開のほうばっかり考えていましたけど、そう考えるとそこへ至る土台ですね。

 

平野 たとえば多くのお医者さんたちは、患者さんが来てくれるところで仕事するからさあ。あと、薬持ってる。でも僕ら違うわけで。丸腰。セラピーも出来たらいいと思うけど。それより大事なのはセラピーの場に来れること。それ自体がひとつの解決法をもたらしている。「来るまでの文脈をどうやって大事にしていくのか」ということが大事なんだよ。効率性能率性を考え始めるとその時間を短くすることが目標になるけど、こうやって出てきちゃったらみんな一緒だと思うから「実はあの時ああだったんです」と言ってくれるようなさ。それをまた聞いてくれるようなさ。そんな相手が見つかることが大事なんじゃない?とりあえずそれが出来たら人生そんなに悪くないじゃない。やっぱりそこかなと思うんだよね。だから心理の人たちの目標というのはお医者さんたちと違って治すことじゃないんだよね。

 

ー なんでしょうね?

 

平野 僕はね、いつも言ってるのはね。乙武さんっているじゃない?

 

ー ああ。はい。

 

平野 五体不満足の。彼がひとつのモデルだと思うんだよね。何故かっていうと、だれもあの人に手を伸ばしてあげることも出来ないし、足をつけてあげることも出来ないでしょ。でも彼が凄いのは何か?っていうとさ。こんな俺でもいいんだ、って思っちゃったらもうそれでいいわけ。これ「治る」というのとは違うよね?だからカウンセリングのひとつの解決のあり方として「こんな自分でもいいんだ」とか、「あ。俺、これで生きていくしかないんだな」「こんな俺で生きていくしかない」。足は生えないし。何かこう、ひどい奴にも出会っちゃったし、あんなに学校時代人に突き飛ばされていじめられてひどい目にあってさ。ぼろぼろに傷ついてあいつらを恨んでもさ。でもさ。「こんな自分も悪くないかな」と思っちゃえたらいい。症状があってもいいわけじゃない?

 

ーいま51ですから、どう考えても普通にサラリーマンになれる想定出来ないんですよ。

 

平野 そうだよね。

 

ーパンパラパンのパア~で、すでに皆目見当つかないんですよね。だからもう、ここからは自分の一番のウィーク・ポイントであるひきこもりをストロング・ポイントに変える方法を(笑)とにかく見つけにゃいかん、とそんな感じなんですよ。

 

平野 ああ~!そうね。そうそう。そんな自分でさ。もうさ、まあこの世の中に生きてていいんだよな、とかさ。俺が感じる幸せのものってあるんだよなってことに気づけちゃったり、分かっちゃったりさ。そうすると今度は何か切実にひきこもりをやめる必要さえなくなってくるわけでしょ?

ーうん。あとは(親指と人差し指で円マーク作って)これです。ははは(笑)。

 

平野 ああ、それそれ。これだってそうでしょう。これだってそうなんだよ。何故かっていうと、日本はモンスーン気候だから種を植えちゃえば生えてきちゃうんだよ。

 

ー ああ~。

 

平野 本当の意味で死ぬことはないんだよ。

 

ー なるほど、なるほど。

 

平野 本当の意味で死ぬことないんだよ。砂漠で生きてるわけじゃないから。でもね。お金はもちろんあったほうがいいけど。だけどさっき言ったけど、無いことに絶望している人がじゃあ、お金を持つことで幸せになるか?というとそうでもないわけ。つまりさ。さっきの乙武さんのモデルで言えばさ。こんな自分を丸抱えしちゃったらさ。吹っ切れちゃうわけでしょ?立川談志大先生はね。それを「人間の業の肯定」というわけだ。その業を帳消しにすることは宗教の人たちがやることかもしれないけど、その人間の情けなさとか惨めさみたいなものを肯定して笑っちゃえばそれは落語になっちゃうわけ。で、僕って心理ってそういう仕事だと思うんだよね。治すのが目的じゃなくてね。でもそれはさ、「受け入れること」とか「受容」とかね。言うほどそんな簡単な話じゃないよね?これがもう大変なわけだよ。もう七転八倒なわけ。誰かを恨んでみたりさ、人を傷つけてみたりさ。そうそう。だけどそれをさ、聞いているカウンセラーだって別にそんな人間出来てる人ばかりじゃないしさ。一緒になって困ったり、焦ったりさ。「まあ、そう言わずに」とかやりながらさ。でもひとつだけできるのは、「行ける所まで行こう」という覚悟を持てるかどうかだよ。

 

ー そうか。そうなると本当大変ですわね。

 

平野 いや、大変だよ。だから物好きじゃなきゃいけない。「食えるか食えないか」じゃないと思う。だからその「引き受け方」ってみんなそれぞれじゃないですか?

 

ー そうですよねえ。

 

平野 だっていまこうやって「引き受ける」旅をしているわけでしょ?

 

ー 旅をしたいんです。

 

平野 ね?

 

ー はい~。

 

平野 だから初対面の人に出会ったり、人に出会ったりさ。

 

ー いやあ~。ありがたいです。平野先生にも出会えて。

 

平野 いやあ、そんなことないよ。でもさ、何かさ、そうそう。例えばそれはフロイトも言ってるんだよ。「諦める術を心得れば人生はけっこう楽しい」って。そう言ったらしいんだ。どれが原典なのか探しても見つからないから多分これは神話だと思うんだけど。だから本当に言ったかどうかわからないんだけど、フロイトの心情はそれなんだよね。俺、結構それ好きなんだよな。だから善人じゃなきゃカウンセラーになれないとかさ。何かさ、心きれいな人じゃなきゃとかいうのはちょっと苦手。フロイトはその意味じゃあとても人間臭いということだよね。

 

ー おそらくきちんとした形で、やっぱり大学院までこうしてカウンセラーの枠をちゃんと学んでちゃんとした近代的なやり方を得て臨床心理士になると思うんですけど。でも、その軸の中心にはいま平野先生が仰ったような割と泥臭い、昔からあるカウンセラーの要素。まあ、もしかしたら宗教者などが引き受けてた部分なのかもしれませんね。

 

平野 僕なんかは割りと古臭い人間なんだと思う。職人であると思ってるからさ。だから教え子たちに僕のやっているカウンセリングを見てもらって。もちろんクライエントの了解を得てだけども。見て覚えてもらうということ。本読んだって分かんないよ。

 

ー あ。じゃあ実際もうカウンセリング場面見てもらうんですか?

 

平野 見てもらうのが一番いい勉強になるし。でもそれは僕の真似しても上手くいかない。自分の形を作ってもらわないと困るでしょ?学生たちは学生たちのカウンセリンのやり方を作る。

 

ー うん。そうですね。

 

平野 そう。でも型の勉強にはなる。

 

ー うん。型を知って。自分の型を作るんですね。

 

平野 そうそうそう。

 

ー なるほどねえ。アートだなあ。

 

平野 アート。やはり職人の芸だと思うんだな。だからそれはまあ、みんなやればいいことで。それで食える奴もいれば食えない奴もいるし。ね?だからどんな親と出会うのかも結構大事だし。

 

ー 親、選べないですからねえ。

 

平野 出会いだからね。うん。選べないね。いや、でもさ。でも芸事はほれ込んだ人の扉を叩けばいいんだから。

 

ー そうですよねえ。あの、もう一つ自立ということを考えたときにですね、最近考えるのは自立って本当にひとりで立つもんなんだろうか?という問題意識が最初にあって。先生はどう考えているか聞きたいという事もあったんですよね。

 

平野 ああ~。それはね、僕はね。二つあるんだと思うんだ。ひとつはね。えっとね。「一人だ」という体験をしっかりと抱えられること。

 

ーまず自分はひとりだと。

 

平野 ひとり。人間は基本的に一人なんだという気持ちを抱えられないと。仲間というものがしがみつく相手になってしまうから。寂しさへのしがみつきの相手になっちゃう。それは対象としてはお母ちゃんと変わらない。だから、ひとつは精神的には一人でいるということをしっかり持てることなんだよ。これはね。僕の大好きなウィニコットという人が「ひとりという経験はふたりという経験をいっぱいしている人が出来る」と言っていて。そういうことなんだよ。

 

ー 母親が一緒にいる時、初めてひとりになれるとも言ってますよね。

 

平野 でも、この母親は心の中だけでとどめるんだよ。あとはもう捨てることが出来ることが大事なわけ。

 

ー ああ、そうか。

 

平野 だから人格化されちゃうと困るんだ。親がいつまでも一緒にいられると。

 

ー 内面化すること。

 

平野 そうそうそう。精神的に死んでてくれるといいわけだ。自分の中に”母親的なもの”として留まる。女の人でなくてもいい。父親の中にも母親的なものがあるだろうし。だから孤独というかね、一人でいられることを抱えることね。つまり「他の人と違う自分」とか、「わかってもらえない自分」というプライベートを持っていることね。その上で「みんなで立つ」ということだよ。

 俺、もう一つ人間が面白いのはね。人の顔が見えないということだと思うんだよね。人間は構造的に人の顔だけ見えないように出来てるんですよ。つまり「自分の顔だけ知らないのを知っている」わけ。ナマで見れないから。じゃあどうするかっていうと、誰かを通して見るしか方法がない。だからさっき言ったように一人じゃ自分のことがわからない。

 

ー そうですよねえ。

 

平野 そういう意味で誰かがいなきゃ駄目なんだよ。つまり自分がいまの自分がどういう状態であるか、自分が何を考えているのか、自分がどんな気持ちであるかというのを全部何かを通して学習していくものなんだよ。で、それはどれだけ沢山の人と出会っているかとか、そこで「あ、俺もその感じ、知ってるよ」とか「お前のその顔、俺けっこう好きだよ」とか「お前の話、良く分かるよ」という仲間がいないと自分の妥当性が測れないわけ。批判も含めて。だからね、誰かいないと僕たちは生きていけないんだ。だから自立にはふたつあると思うんだよね。でも、どちらも誰かと関わってるんだよね。だからひとりで自立出来ない。

 

ー そうなんですね。うん。

 

平野 だから俺、人間ってすげえなあと思ってね。神さまってさ。だって自分の顔だけ見えないように出来てるんだよ?すごいことだと思うんだよなあ。まあ~、何でこんな風に考えたんだろうね?上手く出来てるよな。弱い動物だからさ、哺乳類でも。だけど鏡の中に映るような自分を自分と思えるような形で生きていける動物ってそんなに多くないわけじゃない?で、これで脅かされるわけじゃない?さっきの対人恐怖ってまさにそうじゃない?自分がどうであるかわからないという病気じゃないですか。

 

ー そうです、そうです。

 

 

平野 醜貌恐怖なんてそういうことじゃない?

次へ→

 

弟2回   第4回→