社会学者 関水 撤平さんインタビュー
実存問題に関心があった
杉本:関水さんのこの大部な本(『「ひきこもり」経験の社会学』 左右社2016)を読ませていただきまして、本当にひきこもり問題というか、ひきこもりに関するテーマの水準がまた一段上がったなと思ってるところなんです。
関水:ありがとうございます。
杉本:終章の方に書いてあるんですが、ひきこもりの経験は「戦後日本社会をほぼ形作ってきた家族、企業、政府の関係のあり方の問いを投げかけている」(P.367)という問題提起はもっともだと思いますし、本書全体を読むと、ひきこもりの問題を考えることは人間存在の本質みたいなところの深い部分を考えることに通底するんじゃないかなということを思ったわけです。で、実は私個人としてこの本で一番素晴らしいなと思ったのは第二章なんです。二章というのは、つまり生活保障の話なんですけれども。
関水:はい。
杉本:家族の苦しみの問題だし、斉藤環さんの「社会的ひきこもり」論で言えば家族システム論みたいなことがどうして起きてしまうのかっていうことはきちんとまだ分析されきっていなかったんじゃないかと思うんです。もちろん、この第二章の部分はおそらくひきこもりの問題以外の分野で例えば社会保障論を学術的にやってる人とか、その方面では宮本太郎さんとかがいますよね?『生活保障』(岩波新書)などを書かれてる。
関水:はい。
杉本:そういった、一般の若者の支援問題も含めてなんですけど、その困難とか。「反貧困」運動ともからみつつ。ただ、なぜかひきこもりの問題においては問題が家族と当事者中心に負わされる傾向があったと思うんです。家庭の中で不可視なまま、働かない人を家族に持ってしまってることの危機感とその言説。単純に言ってしまえばたとえば、自分が亡くなった後この子はどうなっちゃうんだろうとか、頻繁に聞く高齢ひきこもり問題のことですね。だから経済問題、セーフティーネットをどうするのかっていうことが全部家族に負わされるのはなぜか。これをひきこもり経験に特化し、きちんと分析したっていうのは僕はおそらく初めてじゃないかと思うんです。まずはその辺の話からと思うんですけど。どういう意図でといいますか、関水さん自身、社会保障論の方も専門としてある程度されていらっしゃると思うので、もちろんその方向性はあったとは思うんですけどね。
関水:そうですね。なぜ第二章みたいな視点で取り上げたか。
杉本:この二章がすごく新しいんじゃないかって思ったんですよ。なかなか普通にとり取り上げていない実存の問題とかは確かに先行的には*石川良子さんや、僕の本を監修してくれた村澤(和多里)さんの『ポストモラトリアム時代の若者たち』(世界思想社 2012)などでとりあげられている。特に*(アンソニー・)ギデンズなどの後期近代の話。再帰性の話とか、そういったことがでてきて、非常に新しい考え方なんですけど。
関水:はい。
杉本:それらも含めつつ、日本の社会保障問題、生活保障問題もきちんと含んだっていうのはやっぱり新しいなという印象持ってるんですよね。
関水:そうですね。どういう経緯でこういう章ができたのかっていうところからお話します。
杉本:はい、お願いします。
関水:僕は「ひきこもり経験」という部分に関心があって。もっといえばまさにいま仰られたような、石川良子さんなどが焦点を当ててやられている実存的な問題などにもともとは関心があったんです。更にさかのぼるとそういう自分自身、何ていうのかな。例えば、小さい頃からふと、自分がいるこの世界って何だろう?みたいな疑問があったんです。
杉本:へえ~。
関水:みんな何事もないように日常生活を送っているけれど、生きて存在しているって、こんなにも根拠がないことかもしれないのに、何故みんな根拠があるかのような顔をして生きてられるんだろう?みたいな疑問を持つ子どもだったんですよね。例えば、小学校の時とか友達と遊んで「じゃあ、また明日」とかって言うじゃないですか?でも、「また明日」って言うけどその明日が来るかどうかわかんないじゃないかと(笑)。
杉本:(笑)え~?そうですか。
関水:そういう感じです。
杉本:なるほどねえ。
関水:何でこの根拠のなさみたいなものをみんな乗り越えて生きてられるんだろう?みたいな気持ちがあって。で、そういう気持ちって言葉で言うとある意味では「寄る辺のなさ」みたいなことなんだと思うんですけれども。
杉本:ええ。
関水:そのことをもう少しきちんと考えてみたいと思って、「哲学をやろうかな」と思ったんですけど。結局学問として本格的に哲学をやるだけの度胸といいますか、覚悟が持てないまま、社会学のほうに行ったんです。
杉本:ええ。
関水:大学の専攻としてはですね。で、その頃に、上山和樹さんの『ひきこもりだった僕から』(講談社 2001)という本が出たんです。
杉本:なるほど。
関水:その本の中でまさに上山さんはなぜみんなこう何気ない顔をして日常を生きられるのか?っていう問いを繰り返し書いていたんです。で、ひきこもりの人っていうのはこんなに哲学的な問いに向き合ってる人たちなんだ、ひきこもりはこういう実存的な問題なんだと。そこで僕は上山さんの本にひきこもり経験の一つの核があるという印象をもった。自分自身、さっき言ったように哲学書とかを読んで、哲学的な問題、たとえば「日常性とは何か」とか、「存在の根拠とは何か」とか、そういうことを理論的にやることに多分それほど向いていない気もしていて、経験的な調査とか、そういうことと結びつけて論じられる領域って何だろう?と思った時に、上山さんの本がまず自分の中でつながるきっかけになった感じだったんです。
杉本:なるほど、なるほど。
関水:で、実際、当事者、家族、研究者みんなが一堂に会する*「新ひきこもりについて考える会」に行ったのが、博士課程に入った頃なんですけど。実は博士課程でも研究テーマで悩んでいたんです。
杉本:うん。
関水:このまま自分は研究者としてやっていけるか。とてもそうは思えない部分もあって。
杉本:そうすると院は卒業されて?
関水:学部を出てそうですね。修士課程入って修士論文はけっこう理論的なテーマで書きました。理論的というのもおこがましいんですけど、つまり調査とかはしないで、「日常が日常であるというのはどういうことなのか」っていうことをテーマに書いたんですね。
社会構築主義
杉本:いちおう社会学の枠組みの中で?
関水:そうですね。社会学の領域では「社会構築主義」っていう考え方があるんです。
杉本:言葉は聞いたことありますね。
関水:つまり「当たり前」と思われていること、例えば男性と女性の区別っていうのは当たり前だとみんな思っているけど、それがいかにコミュニケーションの中で構築されてるかっていうような視点で、例えば小さい頃からまず赤ちゃんを見ると男の子、女の子って聞いて区別しますね。男の子だとわかると、「坊やはこういう子になるといいね」とかって言って周りの人たちはジェンダー別の水路付けをしていく。そういう形で「男らしさ」、「女らしさ」とか「男である」とか「女である」ことっていうのは構築されていくものなんだよ、といったような。社会構築主義っていうのはそういう視点で考えていくんです。その社会構築主義の視点から「日常性」はどう構築されるのか。そこから何が排除されているのか。そういうテーマで修士論文を書きました。でもあまりそれがモノになった感じがしなくて。今後どういう風に研究者としてやっていくのかな?と。一般企業でバリバリ勤められる気もしなかったですし、多少就職活動もしたんですがことごとく落ちまして。
杉本:そうですか。それは厳しいものですね。
関水:そのように思案を巡らしつつ、博士課程に入った時に、自分の取り掛かれるテーマとしてひきこもりというのがあるんじゃないかなっていう風に思ったんです。先ほどの上山和樹さんの本へのひっかかりもあって。そこで「考える会」に行ってみようと思って行くことになるんですけど。実はそういう風に思いつつ行くまで結構時間かかったんですけれど、いざ行ってみたら、全然自分が思ってた哲学的な議論がそこでされてるわけではなかった。
杉本:そうでしょうね(笑)。
関水:それが最初の印象でした。
杉本:あっ、じゃあそういう議論がされてると思ってたんですか。もしかして?
関水:はい。
杉本:まあ、「考える会」ですもんね。
関水:そうですね。
杉本:読書会が先でしたか?確か2006年の東京でやった会に参加されたと聞いていますが。
関水:そうですね、2006年。読書会が最初だったと思いますね。
杉本:読書会が最初でしたか。その時取り上げられた本のテーマは?
関水:何だったかな?
杉本:上山さんの本ではないですね、そうすると。
関水:そうですね、違いましたね。
杉本:それで、実際に話し合われていることはそんなに哲学的なものだとは思えなかった?
関水:そうですね、やっぱりそれぞれの経験。もっと具体的なことでした。母親との関係だったり、学校のことだったり。しかもそれが人それぞれで。ひきこもりって「こんなに捉えどころがないものなんだ」っていうのが最初の印象でした。
杉本:なるほど。
関水:自分と共通の部分、僕が向かい合っている問いと、共通・共有できる何かをそこに求めていたはずなのに、意外にもあまりそれが見つからずにちょっと最初の印象としては戸惑いましたね。
杉本:(笑)すると、もしかして上山さんの本がひきこもりの人たちの一つのベーシックな思考回路だと思って?
関水:そうです。最初はそうですね。
杉本:うわ~、随分ひきこもりも持ち上げられて(笑)。
関水:(笑)。
杉本:おそらく上山さんは特別でしょう?あれだけ思考できる、できるって言い方がいいのかな?とりあえずできる人はそんなにいないんじゃないですかね?
関水:そうかもしれないですね。
杉本:やっぱり経験主体で語られることが多いですよね。
関水:それでもまあ、一応、「考える会」に参加、定例会に参加し続けていく中でいろんな話を聞くようになって。
ひきこもり経験を俯瞰で捉えるのが得意だと気がついた
杉本:ちょっとそこで切っちゃって申し訳ないですが、一回参加され、少し思っているものと違ったと?
関水:はい。
杉本:でもこれはやはり継続して参加しなくては見えてこないな、と思われたんですか?
関水:そうですね。
杉本:他のチョイスもなかった感じですかね?ひきこもりの人たちの話を聞く場としては。
関水:そうですね。そこに参加するまでにすごく自分の中で躊躇があって。つまり研究というのはある意味で何か人を食い物にすると言ったらたいへん言葉が悪いですけど。
杉本:わかります。
関水:研究のためにその人たちはそういう経験をしたわけじゃないですから。
杉本:ええ。
関水:そういう風に研究材料みたいな形で関わるってことに対する躊躇のようなものがありまして。だからもし関わるんだったら、ある程度覚悟を決めて関わらないといけないだろうという気持ちがありましたね。「ちょっと違うかも」という最初の想定とは違うものがあっても、じゃあそこに行くのをやめて違うフィールドへ、という風には考えなかったですね。
杉本:そうすると最初なかなかこれはちょっと大変かもしれないという印象がありましたか?
関水:そうですね。自分の中で何かまとめるにしても、どう形になるんだろう?っていうのがあって。そういう思いが一年ぐらいあったかな。けれども、月に一回とか読書会、定例会とかに参加し続ける中で、ふっと、いま話されているこの人たちの経験と、そして自分がいま生きてる世界というのは「あっ、同じ世界の話をしてるんだ」ということに気がついて。つまりどういうことかと言いますと、その当時僕の立場って大学院の文学研究科の博士課程で、この先自分自身どうなるかわからない。就職とかという意味では、二十代半ばから後半まで学生を続けている状況。「考える会」でも働くことに対する悩みとかが話されている。向こう側の人たちが語っていることが、自分が生きている世界と地続きの世界なんだとようやく気がついた。つまりこの社会、「働かないといけない」ということに苦しむ、あるいは働かなかったら家に居るしかないこの社会って何なんだろう?そこでひきこもり経験の土台となっている客観的だといっていい社会構造のようなものがちょっと見えた気がした。それをちゃんとした形で描けないかな?というところでひとつ着想が生まれた。ただそれがどういう風な形になるのかなって思ってはいたんですけど。実はこの本を出してから、お世話になっている先生にこの本読んでいただいたんです。そのとき、「君はひきこもるっていう経験を俯瞰的にみることの方が得意なんだろうね」って言われたんです。
杉本:あ~、なるほど。
関水:逆に「ひきこもり経験の社会学」というタイトルで書いているけど、あんまりその“核”の部分、ひきこもる人たちの、ひきこもる経験の核は正直、生々しく伝わってこないって言われたんですよね。
杉本:なるほどね。う~ん。
関水:別の研究者の方にも、このタイトルの割には一番その、「ひきこもるという経験」がちゃんと書けているのかというところを言われて。ですから、そういう俯瞰的に見るという視点があると思います。
杉本:そんな感じがします。マクロ的な観点ですよね。
関水:それはやはり一つには歴史的な長いスパンでの日本社会における「ひきこもり」問題の位置づけを確認したかった。「縦軸」と「横軸」って言っていいのかわからないですけど、時間軸と空間軸という視点で。その視点から時間軸でみると、産業化が進んでいくということが日本の場合は高度経済成長期がすごく大きな転換点になっているっていうこと。そして後発的に近代化を果たした日本が、空間的に他の国と比べてみた時に、福祉国家としてどういう位置にあるのか。それを俯瞰的にみると、僕とひきこもり経験をした人たちが同じこの日本社会を生きてるんだということの意味が掴まえられるような気がして。そういう着想でこの第二章を書いたということです。
杉本:そうすると、第二章は割と初期の頃に書かれている研究なんでしょうか?
関水:そうですね。この視点というのは、実はずっと自分の中に温めていた部分だと思います。
杉本:なるほど。
関水:でもちょっと難しかったのが、さっき少し仰っていたように、若者支援という文脈に即していうと、日本の若者をめぐる社会保障の問題。若者に対する社会保障が弱いものであるとか、そういうことというのはすでに言われてきていることですね。
杉本:そうですね。
関水:それをひきこもりっていう切り口で再構成し直すみたいな作業が必要だったということはあるかな。
杉本:で、かつおそらく無かったと思いますよ。社会保障論を論じる研究者の人は結構いると思いますが、おそらくひきこもり経験を中心に据えた本で、これだけきちんと書かれたものは。端的に言ってしまうと企業福祉が無ければひきこもっている人の生活を家族が保障するしかないっていう事実はみんなわかってる。わかってるけど、そのことの意味をきちんと理論化して伝えるということ。僕は学問世界の人じゃないからそちらはよくわかんないですけど、分析的にちゃんとデータで示して出しているのはいままでは無かったんじゃないですかね?そして特にやっぱり親の会のアンケート。具体的な自由記述されている話の紹介がありますよね。自分が亡くなった後、どうなっちゃうだろう?みたいな。これって本当にたまに親の会なんかの会合なんかにも参加させてもらうと、正にでてくることで。本当によく聞くなあというか。これは私、ちょっと雑談ですからやめた方がいいですけど、70年代に最初にひきこもった時に、当時は精神障害の人としか過ごせなかったんで、親が一応精神障害者の家族会、大きな全国組織だと思うんですけど、当時はまだ黎明期的な傾向が残っていて、僕なんかもそういう会報で、「読者の声」(笑)みたいなもの目にとめると。やっぱりその時「私が死んだ後、この子はどうなるのだろう」みたいなのがあったのね。
関水:はい。
杉本:だから僕は、十代の時そういうの読むと、デイケアとかで統合失調症の人たちと活動したりっていうか、まあ、したくてしてたわけじゃなく、行きなさいって言われて行ってたんですけど(苦笑)。とてもとても、というか。当時は精神抗薬もいま一つまだ良いものが無かった時代であったので、ちょっと逸脱している人が多かったせいもあって、「うわあ、こっちの世界の人間になったのか」と。
関水:はい。
杉本:親がいちおう流れ上ね、そういう会に入って会報送られてくると、読者の声で正にひきこもり親御さんが言う「自分が亡くなったらこの子はどうやって生きて行くんだろうか」みたいな話を十代の時から読んでいて、ものすごく落ち込むっていうね。つまり「その対象が僕なのか?」っていう。
関水:うん。
杉本:投げかけられている対象が僕自身なのか?っていうこと。これは思春期の自分にとってみると異様に落ち込ませられるというか(笑)。それがしんどかった。歳もとったから、自分事としてはもう受け止めてないですけど。やっぱりひきこもりの親の会でもよく聞くっていうのがあるんですよね。で、変な話ですけど、その場にいくと僕は割と、もはや聞かされるっていうんですか?滅多に行きませんけど。なんかこう、聞いてしまう立場で。うちの子どもはあなたと違って出ない、十年来とか出ないから、私が死んだらうちの子はどうなるんだろうみたいな話が聞くと、ちょっと言葉を失っちゃうっていうか。
関水:はい。
杉本:ジャーナリスティックな立ち位置だと、メディアの人が「ひきこもりクライシス」みたいなのを書いたりして(笑)。それを読むとやっぱり中高年の人たちのひきこもりは危機だ、みたいな。「百万人大変です」みたいな。「もう親はそろそろ亡くなる年齢だ」みたいな話。そういうとらえ方に対してはずっと違和感がありました。なんかすっきりしない。僕の結論は結局個人。個人としての問題ってとこに行き着くところがあって。俺はこの中に含まれたくない。実はそれは結局十代の時と同じ気持ちなんですよ。
関水:うん。
杉本:俺はこれじゃないっていうか。「こういう風に親に嘆かれたくはない」っていうかね。ちょっと話がインタビューする側として逸脱してますけど。だから結局関心がやっぱりずっとあったということですよね。いま話していて気がつきましたけど。家族がなんでこうも抱えて悩まなきゃいけないのか?っていうこと。それに対するひとつの答えがやっとでてきたかなって。この本を読んで思いました。
関水:そうですね、社会問題になっているひきこもり問題っていうのは家族の問題。
杉本:ですよねえ。本人が語る問題になってないですよ、おそらく。
関水:うん、そうですね。
杉本:勿論、本人も親も気持ちを汲んで苦しんでいるとは思いますけど。だから本人が語らない以上は親が代弁。親の思いが表舞台に出てくるじゃないですか。
関水:うん、うん。
杉本:そうするとやっぱり親も自分の思いの発露だからズレがありますよね。本人とはね。そこで結局、国っていうか。まあ、国の政策を選択するのは国民だっていう一応建前上はそういう風になってますけど(笑)。それはそれとして、とりあえず国家的な社会福祉政策は、基本、企業福祉でやってきた日本としてはあまり成熟していない。ですからバブル崩壊以後90年代末ぐらいから、リストラの嵐や企業福祉削減の波の中で、いよいよもって働けない人たちの家族、端的に言えば、親や兄弟が悩むという。
関水:そうですね。だからさっき障害の、精神障害の話がちょっとでましたけど。
杉本:はい。