『不登校・ひきこもりが終わるとき』丸山康彦 ライフサポート社
「荷物」と「よろい」
杉本:で、話を別の方向に持っていきたいと思うんですけど。丸山さんの本(『不登校・ひきこもりが終るとき』:ライフサポート社)にも*「荷物」と「よろい」という面白い表現がありました。まあ、これは丸山さんの表現では「荷物」というのは自分自身の過去に由来するこだわりですけど、ですからこだわりにはその人の経験に基づくいろんな側面があるでしょう。あと「よろい」というのは世間の常識の部分だと思うんですけど。この例えって本当にその通りで、まさにそうだなあと思うのですけど。どうしてこういう例え、比喩が生まれたのかなあ?というあたりを少しお話くださいませんか。
丸山:はい。僕はもうとにかくメールマガジンは最初の頃は本当に実践が少ないので、自分の体験の中で、自分の過去の経験から考えたことを書いていたんです。それがだんだん経験をつむにつれて、特に親御さんからいろんなお話、悩み、そしてお子さんの状態を伺っていくにつれて、「これはこうなんじゃないか」ということでメルマガにいろいろ書いてるんですが、これもそのひとつなんです。文章の中で書いてありますように、僕はこれはスタジオ始めた当初思っていたのは、親御さんが「常識」から解放されて、そして親御さんとお子さんが常識から両方とも解放されていくプロセスを歩むであろうと。そういう仮定で、ただし順番は本人が先だろうな、と思っていたんですね。それまで見聞きしたり、本を読んだりしている中で本人が常識から解放されて動けるようになり、本人が元気になっていく過程を親が見て、「そうなのか」と。これは自分が常識にこだわっていたから本人が動けなかったのかと。これは自分も学校へ戻さなくちゃいけないという常識は捨てた方がいいんだな、という風に思える。あるいはほぼ同時にというか。親御さんが常識から解放されるとお子さんも元気になっていく。そういう関係をね。よく読んでいたりしたので、「ああそうか。親御さんが常識から解放されれば本人もじき解放されるんだな」と。あるいは逆に本人が先に解放されることで親御さんはハタと気づくケースがあるんだなと思ってずっと相談を受けていたりしてたのですけれども。ところがですね。本当にもう相談とか、あと合同進路相談会なんかでも相談ブースを出させていただいたりして相談受けたりしてると実はそういう親御さんが最初の頃から結構いらっしゃるんですよね。「自分はもうとっくに常識から解放された」という親御さんがね。
杉本:ほう。
丸山:だから本人にも学校に行かなくてもいいと思っている。それでも本人が「自分は学校に行かなきゃいけないのに、学校に行けないんだ」ということで悩まれている。
杉本:あ、本人の方が?
丸山:ええ。本人のほうがもうず~っと。親は自分が常識から解放されてるから本人への見方も明らかに自分は変わっているんだと。だが本人はいつまで経っても前の、元のまんまなんだと。そういうことでどうしたらいいんでしょう?というお悩みがときどき聞かれるんですよ。
杉本:へえ~。
丸山:で、それが僕は最初は不思議だったので。
杉本:ああ、それはそうでしょうね。
丸山:それについていろいろ考えていくと、どうもこれはよくいわれるこだわりが強いから本人がなかなか変われないというけれど、そのこだわりって一般的には自分のこだわり、つまり自分が過去の経験にこだわっていたりとか、何か昔、親に何かされたとか。
杉本:うん、トラウマですね。
丸山:昔いじめられたとか、そういうことで学校に行けないんだとか。そういう風な自分の中でしか通用しないこだわりというのですかね?周りから見るとそんなことは過去のことじゃないか、そんな些細なことにこだわって、というような「こだわり」ですよね。それが一般的に「こだわりが強い」ということを指すと思うんですけれど、でも実は本当に言われていないのは、そしてどの本を読んでも書かれていないのは、本人の「常識へのこだわりが強い」ということ。これがどこにも書かれていなかったと思うんですよ。僕が読んだ限りでは。なので、もしかしたら問題なのはむしろ、そっちのこだわりが本人にとって難しいのではないかと。つまり思ったのは、こだわりには二種類あるんだということ。一般的に言われるこだわりというのは自分へのこだわりの一種類だけだけど、本人が「常識」というものに対してこだわっているその「こだわり」。この2つめのこだわりを同時に本人が持っているんだな、ということに思い至ったということでしょうか。
杉本:親が常識を、意識的にか無意識的にか植えつけてるんじゃなくて、子ども自身が世間の常識のこだわりを自分から引き受けちゃっている。まあこれはひきこもりの話なんかではよく聞く話なんですけど、「自罰感情」とか「自己否定感」とかで聞くんですけど、やっぱりそういうものを子どもが引き受けちゃってると。
丸山:そうですね、ええ。
杉本:ふ~む。その原因は何でしょう?やはり世間の常識感の強さに起因するものでしょうか?
丸山:はい。そうですね。やはり大きくいえば社会状況、時代状況があると思いますね。だからやっぱり生まれてから人間って大人を通じて常識とか社会通念とか価値観を取り込んでいってるわけですね。
杉本:そうですね。
丸山:それは結局ね。親という大人に育ててもらう、養ってもらう以上、やっぱり人間は親の元に居場所を確保しないと生きていけないので、こう、押しつけられたわけじゃなく、自然に無意識的に取り込んで育っていくんだと思うんですね。だからその結果として、やっぱり自分で作り上げている自然に作られた価値観というものがあって。やはり10何年とか、20何年生きてきて、いまさら捨てられない。いまさら否定できない、というね。それを否定するというのは本当に自分が生きてきた10何年間、20何年間を否定することになるということですね。それくらい本人にとっては重大なことがらだと思うので。
杉本:う~ん。別の道があるよとか、オルタナティヴな方向とかって頭では言ってみたところで、そう簡単に変われるもんじゃないよな、っていうことですよね。そう考えると親のほうはそういうとらわれはもういいと。そう思い至ったけれども、子どもさんのほうはそこに思い至ることは難しくて、親御さんから相談が来ると?
丸山:そうです。確かに親の立場からすればそうだと思うんですね。だって親御さんは所詮は自分のことじゃないんだもの。ねえ?本人の、わが子のことですから。ですから常識を捨てやすいといえば、捨てやすいじゃないですか。
杉本:まあねえ。大人ですからねぇ。
丸山:ねえ?でも本人は自分の人生ですから。そう簡単に常識から解放されて自分の生きたいように生きることのリスクをそうそう簡単に引き受けられないじゃないですか。だからやっぱりそこは本人のほうが難しいというのは確かにそうだ、その通りだなと思いますよ。
杉本:なるほどね。そうか、この「荷物」と「よろい」の話はむしろ子どもさんの問題として書かれている部分だったんですね。子どもさん自身の、っていったらいいのかな。いち個人の子どもさん自身の問題といいましょうか。これってどう対応したらよろしいのでしょうか。結局は本人さんと会えないことが多いんでしょうけど。親御さんとはどういう風に子どもさんと接したらいいというアドバイスをされるのでしょうか?
取り組みやすい課題から順番を並べ直す
丸山:はい。やはり何というのかな。とにかく人間にとっての生活上の課題というのは小さく、軽い、まあ解決しやすい。あるいは実現しやすいものから、すごく重荷である生きていく上での本当に重荷になるようなものまで。いろいろあるわけですよね?で、その中で一番本当に重い、重荷になっている、「学校に行けない」であるとか、「社会に出られない」こと。このことに全神経を集中させている。本人も家族も。そこに一番この、「学校に行けない」という課題。一番そこを解決しようと一生懸命になればなるほど逆に解決は遠のく。
杉本:そうですね。フォーカスしてしまうような感じかな。
丸山:そうです。だからやっぱり「ズームアウト」ですね。
杉本:はい、ズームアウト。
丸山:本当にいま生きているこの生活の中でいろんなことがあると。学校に行けない自分が、あるいは社会に出られないということが「問題」だと思っている。でもそれ以外にもいろいろあるということ。例えばこれこれこういうことでやってみたいことならば、やってもいいわけですよね。あるいは何か出来ないことがあったら解決をするというのはあたり前のことですよね。それは人間は生きていくうえで誰だってそれをやっているわけです。だから僕の場合はそれと比較するんです。つまり学校に行ける行けないで行っている人と比較するとか、社会に出ている人と本人とを比較するのではなくて、むしろ「生活」をしている人。何というのかな。まあ、自分が思っているようなある程度の生活が出来ている人。例えば早寝早起きができて、朝はちゃんと朝食をとって歯を磨いて身支度して職場なり学校に行く。で、帰宅したらちょっと楽しんでテレビを見たりなんかして、ゲームでもしたり楽しんでそして一家食卓を囲んでとか、という風なこと以外のこと。つまりそれはどれをやり、どれをやっていないかというのは人それぞれなわけですから。
それぞれの人がやれている生活と、本人のいまの生活を比較して、そのやれてる生活のほうへ向いて歩んで行こう、ということです。つまり「生活」ですよ。学校とか、つまり一番大きな問題は一番最後。つまりそれまでの順番をきちんと揃えなおすというか。本人とご家族は一番大きなものを一番手前に持ってきているわけですから。それをちゃんと解決しやすいものとか、取り組みやすい順番に並べ替えよう、というのが僕の進め方だと思います。
杉本:なるほどねえ、うん。だからそうですね。これは本にも書かれている*「願い」と「思い」ということにも結局は通じるようなことをいま仰ってくださった気がしますけどね。
「願い」と「思い」
丸山:僕の言っているのはちょっと深層心理みたいな。いちおう僕の心理学の知識というのは割りあい浅いわけで。その浅い中での深層心理なので。そんな深くはないと思いますが、さっきのキーワードの「あたり前」ということで言えば、「あたり前に生きたい」という本人の願いから、学校に行かなければならないとか、社会に戻らなきゃいけないとかという発想が出てくるわけですよね。でも心の奥底では「そのために自分を殺されたくはない」とか、「借り物の自分」で無理やり戻るんじゃなくて、やはり本物の自分として戻っていきたいという気持ちがあるんだという理解。で、僕の援助目標というのはそれを統合させる。どっちかを切り捨てることによって戻っていくとか、元気になっていくとかというのではなくて、両方の出来るだけ「良いとこ取り」をして、こういう「思い」という何か本人にとり本当の自分、例えば本人が思い描いている本当の自分があるとすると、支援を受けるなりして、復帰をすることによって、これが原型をとどめないくらいにもう跡形もなくボロボロにされてしまうと。「思い」の原型がね。
多分これはさっきの「無意識の指令」のこともそうですけど、多分無意識的に「お前、こうなっちまうぞ」とね。このまま学校に行き続けたり、社会に行き続けたりしたらボロボロになってしまうぞ、というのが多分「無意識の指令」だと思うんですね。だとしたらやはりその無意識の指令に逆らったままの自分で復帰しようとすれば、当然支援を受けたり治療を受けたりする中で自分自身が削ぎ落とされて、要するにスカスカというか、原型をとどめずに歪んだ形で学校に戻ったり社会に戻ったりしなくてはならない。無意識というのはこれを予言しているという風に思うので。だからそうはならない、出来るだけそうならないように。
逆に「思い」を100パーセント実現すれば原型のままでいられるけど、多分それは無理ですから。いまの学校、社会システムでは。それは無理なので。多分削ぎ落とされることにはなるんだと思いますけれど。まあ出来るだけ、出来るだけね。原型に近いような形で。つまり本人が自分がこれくらいなら納得出来るなと。そういうような新しい生き方や価値観、人生観を「願い」と統合することによって新しい生き方や人生観をつかむということは、まあ、ひとえに自分がズタズタに原型をとどめないものにならずにすむ。まあ、この程度削ぎ落とされるくらいなら良いかなと妥協できるようなね。そういう自分として新たに人生を歩めるという、そういうことなんじゃないかと思っている。僕の相談における援助目標というのはこれなんですね。
杉本:そういうことなんですね。100パーセント思い通りに生きるということはほとんどの人はできることではないと。社会的な意味での「あたり前」ということも加味しながら新しい生き方を作っていこうという感じでしょうか。そうですね。そしてそれはどの辺なのかというのは人様ざま違うんでしょうけどね。でも自己納得した形での多少のへこみという形であればまさにそれは「その人自身」ということになっていくんだろうなあという感じがしますね。
*「荷物」と「よろい」ー『不登校・ひきこもりが終わるとき』丸山康彦 第三章「”こだわり”にはふたつの種類がある」(P.94以後)に詳細な記述がされている。
*「思い」と「願い」ー上記書籍、丸山康彦。序章「“願い”と”思い”を受けとめる」に詳細。