( 原口剛さんインタビュー・前編)

テント村とジェントリフィケーション

 

――次に原口さんの問題意識や活動とつながっているジェントリフィケーションについてお聞きしたいと思います。ジェントリフィケーションとは要するに“都市再開発”という名による「都市浄化」ですよね。資本の論理というのはすごく暴力的なんだろうと思います。ニール・スミスは「地代」と言っていたと思いますけれど、要するに地価がぐんと下がった都市の中心部にもう一回資本を呼び込んでくる。そこが汚いからとか、寄せ場・寄り場だからそこに資本を投下して、地代を上げてどいてもらって、居なくなってもらえればそれでいい程度の想像力で乗り込んでくるわけですね。資本の論理とはどうもそのように思います。その土地に住む人がそこでどういう暮らしをしていて、どういう生を生きているのかというのは等閑視するわけですよね。

 

原口:そうですね。

 

――原口さんはそこにいる人たちが暮らしを守るためにどうやって生きているかということを大事に考えていて、それを対抗の論理として自分の思想の軸にしているんじゃないかなと思うんですよ。

 

原口:はい。そうですね。そのジェントリフィケーションですが、ぼくにとっては野宿者の人たちの「テント村」がそれを考える原点なんです。その活動で直感的に感じた最初の経験ですね。

 

――そのときにはじめて「これがジェントリフィケーションというものじゃないか」と感じたんですか?

 

原口:そうですね。

 

――要するに行政代執行みたいなもの?

 

原口:はい。行政代執行です。

 

――排除された?

 

原口:はい。行政代執行の現場では、テント村を排除しに来る市の職員や業者が押し寄せ、テント村の当事者、支援者が対峙する構図になるわけですけれども。「行政代執行」というのはまさに言葉通りで、そこにはいない他の誰かの代わりに執行されるわけで、結果としてその対立の場面ができるわけです。

 

――当事者がいなくなっちゃう?

 

原口:いえ、そうではなくて、誰が排除しようとしているのかという問題です。テント村を一掃していく力というのは、たぶんテント村を壊しに来ている業者の陰に隠れた所で動いているわけですね。その正体は何だ?と考えた時、やはりそれはジェントリフィケーションという言葉だと思ったんです。

 

――なるほど。

 

原口:なおかつ、ジェントリフィケーションは暮らしを壊す力がある。そして暮らしを壊すというときに、ジェントリフィケーションは階級が絡んでいる。つまり、富める者と虐げられる者の対立がそこにはらまれているわけです。場所をキレイにする、街を住みやすくすると謳うわけですが、これはニール・スミスも言っていることですけれども、問題は「誰にとって住みやすいのか」という話です。街がキレイになることは、あたかもすべての人にとっていいことだと聞こえるかもしれないけれども、果たしてそうなのか?そこに長年住んできた人にとっては、やむを得ずそこに住んでいるかもしれないけれども、その環境こそが一番住みやすい。キレイだからいいじゃないか、という言葉は、マジョリティの心は確かに動くかもしれませんけど、全ての人がそれを肯定するわけではない。その感覚を持つことはやはり重要なことですし、あとこれは例えば釜ヶ崎だけの話だけではない。釜ヶ崎の場合は、流動性やグレーゾーンのなかでの共同体の作法があるわけですけれども。ジェントリフィケーションにさらされている様ざまな共同体には、その土地ならではの歴史や作法が様々にあると思うんです。だから、たしかにジェントリフィケーションという問いをぼくは釜ヶ崎から発信したわけですけれども、たぶん釜ヶ崎だけの問題にしてはならないと思っています。

 

――『男はつらいよ』の寅さんの浅草もそうかもしれませんよね。

 

原口:そうそう。

 

――あの「とらや」はいまどうなってしまった?みたいなね(笑)

 

原口:そうですねえ。それこそ、ことジェントリフィケーションに関しては代々その中で定住してきた人こそがさらされる可能性があるわけです。

 

――ええ、ええ。そうですよね。

 

原口:ジェントリフィケーションに関しては流動的下層労働者だけの問題ではないですから。

 

――そこに長く定住して小さいかもしれないけれどもコミュニティを持っている人たちが、資本を持ってないがゆえに地価が上がったりして立ち退かざるを得なかったり、場合によっては公権力によって「動いてくれ」みたいな。それこそ行政代執行みたいな形。権力が介入してくることも時にはある。排除される、というのですかね。やはりコミュニティというものは、ある習慣の中で培かわれているものだから、パワーが皆さんあるわけではないでしょうし。離ればなれになってしまったらそのまま付き合いもなくなり、孤立もする。まあそれは明らかに福島とか、東北とかに起きた震災の出来事でもあるでしょうけれども。あ、でもそれはジェントリフィケーションとはちょっと違うかな(笑)。

 

原口:おおきな視野をもてば、インフラや土建国家の問題、ということになるでしょう。そのなかのひとつに、ジェントリフィケーションがある。で、ジェントリフィケーションの場合は、都心で起きるんですね。やっぱり都心にあるということの重要性というのは昔から理由がありまして、どの都市であれ、ニューヨークでも、ロンドンでも大阪でも東京でも、都心というのは貧しい人々や貧しい人のすみかをすぐそばに持つ。そういった場所であり続けたと思うんですね。

 

――なるほど。

 

原口:20世紀からそうで、ニューヨークであればすぐそばにハーレム。セントラルパークのすぐ北側にあります。どんなに虐げられても、最後の政治的可能性というものは常に都心にあるというのが重要。すぐ目に見える存在として街中に繰り出すことができるし、選挙権とか諸々の権利よりもっと深い次元で、生身の身体として訴えかけることができる。街の中心にあることがとても重要なことだと思いますね。ちょっと違う言い方をすると、都市は排除され差別されてきた人びとの歴史やコミュニティがもちつづけてきたわけですが、排除や差別というとき、そこには基本的に「接触」という契機があったと思うんです。接触があるがゆえの排除、接触があるからこその差別。けれども、先ほど歩きながら「ジェントリフィケーションによって貧しい人はどこへ行くのか」という話が何度か話題になりましたけれど、基本的には都心から離れた場所に追いやられていくわけです。そうなると、都市での「接触」という契機すらなくなったまま、完全に無視することが出来るようになってしまう。だから、集団でコミュニティを作りだす可能性は、もう徹底的に奪われてしまう。たぶんそれが、ジェントリフィケーションの根本問題としてあると思うんですね。まずは根本の問題としてそのことがあって、そのプロセスの中で空間がみんなキレイになっていくとか、空間が均質化されていくとか、そういったものがついてまわってくる。そういう風にぼく自身は考えています。

 

――日常が変わりますよね。街がキレイになっていく、タワーマンションができていく。さっき歩いたように野宿テントがあった所がなくなって、なにかこう「文化的」みたいな感じ?

 

原口:だれにとっての文化的な感じ?というね。

 

――そういうものが無意識なうちにまで浸み込むようなことですよね。実はそれが資本の暴力。先ほどのお話しのように、均質化すればするほど、代替可能な個人になってしまうようなことでもあると?

 

原口:そうです。

 

都市の根本の魂

 

――全国一律のショッピングモールみたいに。それこそ、車を作ることを均質的なマニュアルでやってきたわけですから、独自な動きがない(笑)。労働者の独自な動きなんてないわけですね。特に都会の中心では。

 

原口:ええ。それから、都市で生きるというのは社会で生活するということですけど、街中の暮らしているならではの経験があると思うんですね。例えば思わず顔をしかめたくなるような、思わぬ出来事にばったり遭遇する。というのはやっぱり生きているからこそ。それはどういうことかというと、街中を歩いていたら、すぐそばをアルミ缶を集めている野宿の労働者が通り過ぎるとか。思わずからだが固まるような経験というのは、まさに都市的な経験としてあると思うんです。その中で都市生活が鍛えられていくと思うんですね。生活の作法、それこそ大阪が誇るお笑い文化だって、もともとは都市の下層の人々と共振していく中で、そういう場だからこそ生まれたことを考えると、場が都市を生かしてきたと思うんですよね。だから常に街に出ると予測不可能な出来事があって、思わぬ人がいて、いろいろな体験をして、ごったになっていく。そういった場があるということ。こういう状態は都市を都市たらしめている重要な要素だと思っているんです。もしもグローバルに展開するショッピングモールのように、すべて商品化された消費の空間になってしまうと、すべて見たくないものは見なくていいという商品空間の特性に取り込まれてしまう。仮にもし、人々から「どういう空間がいいですか」というようなアンケートを採ったなら、まあ確かにそういった空間を求める回答がたくさん出てくる可能性が高いけれども、長期的な目で見たときそれがいいものなのかどうか。それはつまらないものがひたすら繰り返されることでしかないのではないかと思うんですね。そういった意味で都市の根本にある魂が奪われてしまうことになるとぼくは思うんです。

 

――そうですねえ。

 

原口:典型的には、いちばん都市らしい、都市ならではの経験というのは、ぼくは電車だと思うんです。

 

――ほぅ。

 

原口:電車というのはそれこそ超エリート層は別ですけれども、さまざまな人、さまざまな出自を持つ人が狭い空間で、一瞬とはいえ、同じ時間を共有せざるを得ない状況になる。それは、とても重要なことだと思うんです。ですから「見た目」や「におい」も含めてさまざまな人が乗り合わせる電車という空間の中でひとときとはいえ運命を共にしている。ぼくにとってはこの状態というのが、都市のいちばん凝縮した場所のありかたなんですよね。たぶんその感覚がなくなってしまう。

 

――う~ん、そうですよね。だから若いホームレスの人たちもそれこそ「それなりの身なり」でという話は聞きますよね。いかにもホームレスらしい風情。それは嫌だということで。そう見られたくないというのもあるかもしれませんね。

 

原口:そうしていると思います。きっとしんどい思いをしているだろうと思うのは、非正規の貧しい労働者のひとたち。現代のひょっとしたらサービス業に就いているかもしれないですけど、貧困に苦しみながら、けれど、文化的には同調せざるを得なくなっていること。

 

――みなと似たような格好をして。

 

原口:だからその人の貧困というのが、見た目では分からないということが果たしていいことなのかどうか。

 

――元々都市というのは仰られるように、電車の中でいろいろな階層の人たちが乗り合わせる。服装なり、いろいろな態度なり、姿勢なりによって集まっているのが都市。その部分もジェントリフィケーションというのは、これもクリアランス(浄化)され、さまざまの人たちが乗り合わせる共同体になっていちゃイカンみたいな形でどんどん異臭を放っている人たちが追い払われていってしまい、排除されていってしまう。そういう傾向が徐々に浸透していく感じなんですかね。何かそういう過程にあるという感じなのかな。

 

原口:たぶんそうなんだと思いますね。

 

――『ジェントリフィケーションー報復都市』を書かれたニール・スミスさんの本はすごく難しかったんですけど、ただぼくが思ったのはおそらくデベロッパーの人とか、土地不動産の仕事をやっている人とか、都市開発をやっている人たちが読むとすごく分かりがいいのかなあ?と。ぼくのように日頃土地とか建物とかに関心がない人間にはけっこう難しい本だなあと思って、正直とっつきにくいなというのがあったんですけど、でもこれは不動産屋とか、デベロッパーをやってる人間だったらわかるんじゃないかなあと思いました。

 

原口:わかるでしょうけど、受け入れがたいと思います。

 

――受け入れがたいでしょうね。ただ書かれている内容はおそらく本質を突かれたと思うかなあと想像しました。。

 

原口:ニール・スミスがいちばん自分の本を読んで欲しいと願っていたのは、ぼくもそう思っているわけですけれども、再開発にさらされている住民の人たちでしょう。彼らこそ「ジェントリフィケーションとはなにか」をいちばん深く理解しているわけです。その人たちにとってこそ必要な論理で。他方で日本ですごく思い込みが大きいのは、ジェントリフィケーションというのは自然な流れだという。自然な資本主義の流れだと。僕からするとそれは語義矛盾なんですけど。

 

――正直ぼくもそんな風に受け止めていました。自然な流れなんじゃないかと。もっと言ってしまえば、世の中の進歩の進み具合だとさえ思っていましたよ(苦笑)。

 

原口:確実にジェントリフィケーションというのはいわゆる世に言う「貧富の格差」というのを拡大するものです。

 

――そうなんですね。

 

原口:それを「自然な流れ」と肯定するということは、貧富の格差がますますかけ離れていくことを「自然な流れ」といっているのとほとんど同じことなんですよね。実は10年くらい前までジェントリフィケーションというのは肯定的な言葉として日本の中で解されていたんですけれども。それが問題含みなんだと気づくことが、ジェントリフィケーションという言葉の一番のキモなのであって。その論理を分析的に理解することより、それはずっと重要なことなんです。「地代の動き」を知らなくてはいけないというのは研究者的には重要ですけれども、むしろ現状を変えていくためのパワーとして大事なのは、「自然な流れ」ではなくて、これは資本主義の力学なんだということ。そのように理解することこそがまず必要なことです。そして資本主義の力学というのは、これは貧しい人にとって敵対的なものであるということであって、その論理ががいま露骨に出てきている。そのことが重要なことだと思うんです。

 

――存在としての橋下徹とか。大阪では橋下徹の都構想とか特区とかをワッと打ち上げて喝采を浴びてテレビなんかで持ち上げられた。まさにそういう人が一般庶民にとって実は最も敵対的な存在?

 

原口:そうそう。

 

――本人が自覚しているか知りませんけど。

 

原口:それはもう明らかに結果的にやっていることは都市の生活を資本を持っている人間にとって有利にすることだし、いわゆる大企業とかにとって有利な環境になっているわけで、けして生活する人にとって有利な環境になっているわけではない。それは間違いないことですから。

 

――いわゆる新自由主義の一番残酷な面を露骨に示している。

 

 

 

都市がきれいになることと、社会が良くなることは別のこと

 

原口:そしてもうひとつ考えないといけないのは、これは日本だからこそ強いのかもしれないですけども、キレイなことを何か街が良くなったことと勘違いしてしまう。これ、ありますよね?

 

――ありますね。

 

原口:ところがそれで考えるなら、ニューヨークなんかはものすごく社会が良くなったという話になっちゃうんですよ。つまりジュリアーニ市長が何をやったかというと、まず物乞いの人たちを徹底的に弾圧したんですよね。あるいは貧民に対する社会的補助を徹底的にカットしまくった。そのうえでもうひとつやったのは、公園をキレイにすることなんです。そういう意味で言うと90年代のニューヨークは確実にキレイになったんですよね。ただそれが社会の分裂を広げたか縮小したかといえば間違いなく分裂を広げていったのであって、キレイになることと、社会がよりよくなることは全く別物であるということ。あるいはもしかするとキレイになること自体が、ことジェントリフィケーションに関しては社会的な状況がより悪化しているインデックスになり得るかもしれないことで、まずいことであると逆転して考える必要があるんじゃないかと思うんですね。

 

――そうですねえ……。

 

原口:だから学生と話すのは、ぼく自身もそういうことが無きにしもあらずですけど、目の前の視覚的に整ったことが、何かが良くなった兆候としてつい受け取ってしまう。

 

――ええ、ええ。そうですね。

 

原口:ちょっと冷静に考えたら分かることですけど、それは別。目の前の景観がキレイになる、整うことと社会的状態が良好になることは別のことです。

 

――確かに。考えさせられるなあ…。考えるとまさに資本主義が、対抗軸としての社会主義世界がまだ生きていた時代に。社会主義が良かったかどうかは別ですけど、対抗論理としてある程度あった時代のせめぎ合いみたいなものがなくなった結果、やはりバーバリアンな、野蛮な資本主義が進行しているということでしょうかね?

 

原口:そうですね。

 

――結局その「蛮行」というのでしょうか。その野蛮さというのが帝国主義的に進行しているというのであればわかるし、あるいはフォーディズム時代の労働者のように大量に特定のラインで働いて搾取をされているみたいな形で労働者が団結しやすい時代であればわかりやすかっただろうけれど、それがなくなってしまった今のような時代ではより一層階級的なつながり意識みたいなものはなくなっていくし、個人主義的にもなっていく。でも格差社会は進行していく。だから大学もね。この前大学の先生から聞いたのですが、学生さんも4割くらい。それは福祉の学部なんですけど、4割くらいが日本学生機構から奨学金を借りているらしいんです。

 

原口:ああ~。「負債」の問題ですね。

 

――ええ。かつ親も大変で、親御さんの面倒も卒業後見ようとしている話らしくて。何てけなげなことなんだろう!で、何という「ノー・フーチャー」な話なんだろう、と思って。

 

原口:ははは(笑)

 

――でもけなげですよね。借金抱えて親も見ようと。年金の保険料をどうしようかと相談をされるとか。そういう話を聞いてこれは本当に僕が大学生時代と文字通りさま変わりしてるなって。改めて思ったんですよ。

 

原口:そうそう。同じ大学、同じ学生といってもたぶん数十年前とは全く意味合いが違っている。

 

――だからひきこもって働かないで生きていこう、なんて想定もつかない感じ?モラトリアムを学生時代過ごそうなんてやっていられない感じの印象を受けるんですよね。

 

原口:借金にくわえて、これは教員とかもそうなんですけど。意味不明な書類を書くことによってますます忙しくさせられているという面もあって。学生の夏休みも減っている。モラトリアムがなくなっていることのひとつには生活がきつくなっているというのがあるんですけど、もうひとつ占めているのは意味不明なことで生活が奪われているということですね。

 

――何か宿題を出すんですか?大学は。

 

原口:ほっとかないんですよね。

 

――へえ~。

 

原口:何か大学自体が人間に対して、特に若者に対して不信に思っているんじゃないか?というくらい家の中まで、休み中まで。

 

――みんな労働力として生きなくちゃいけないって大学生が思いつめ始めているみたいな。これもすごい変容ですよね。

 

原口:そうですね。だから賃金の話ですけれども、賃労働の呪縛から解き放たれるうんぬんの話以前に賃労働の枠組みに入ること自体を拒まれている層が沢山いるわけですし、従来の賃労働とも違っていて……ええと、なにを話してたんでしたっけ。けっこうぼくが根本的だと思うのは、負債の問題ですけどね。やはりいま経済成長だとか、経済的な困窮とかいわれているものが昔は全部もれなく工場がついていたじゃないですか?

 

――工場?ですか。

 

原口:経済のイメージには。

 

――ああ、生産ですね。

 

原口:生産です。生産と、だいたい昔であれば例えば1960年代の学生運動の聞き取りなどをすると学校に行きつつ稼ぎ口が工場だったり、それに類する場所だったりする。接点を持つ経済の中心に工場という存在があって、都市もそうだと思うんです。ちょっと湾岸のほうにいったら紡績工場があったりとか。生産と関係して労働者がおり、生産と関係して学生もいて、たぶん労働者予備軍という形で学生が位置づけられていたと思うんです。でもいまはどこを見ても工場がないですね。ひたすらまず出てくるのは借金。

 

――借金か……。

 

原口:工場なき借金。負債づけにして、負債の話が出て、負債がまとわりついている。

 

――工場はでも、稼ぎがいいんですかね?

 

原口:いや。良くはないと思いますし、工場自体がもう大概移転してしまって…。

 

――どこで物が作られているのか分からなくなりましたね。北海道も室蘭とか苫小牧とか。今回大きな地震がありましたけど。いろいろ工場がありました。北の方に行けば炭鉱があって。全部廃坑になりましたけど。ですから極端なことをいえば札幌だけなんですよね。札幌ですが、いわゆる観光なんですけれども。観光って持続性のある産業なのかな?って思うんです。今はとにかく観光、観光で。観光客を呼びこもう。先ほど大通公園の話をしましたけど、イベント、イベント。それはもちろん稼ぎになるのは事実なんでしょうけど、持続性のある話なのかな?と。何度も何度も日本へ北海道へ遊びに行きたいか?というとそんなことはないんじゃないか。いまは中国経済良いかもしれないけど、何度もこちらに来たいかと言ったらそんな人はそうはいませんよね?これからイベントとしての東京オリンピックがありますけど、あれでもうマックスなんじゃないかな?と思うんですけどね。たぶんあれで大不況が来るとしか思えないんですけど(笑)。

 

原口:だいたいの人がそう予想してるんじゃないですか?たぶん。

 

――だから「あとは野となれ山となれ」という話なんだろうなあと思っていて。いまの政権にとっては。

 

原口:たぶんそうですね。2020年まであとどれだけ稼げるか、しのげるかという。えげつなさ。

 

 

 

インフラがインフラを自己増殖する

 

――僕はあの首相がガッツポーズして喜んでいる写真を見たときに本当に呼びたかったんだろうなと思った。というか、招致されなかったら「そんなことはありえないぞ」と圧力をかけるような感じで招致させたんじゃないかと(笑)。でもまあ、ロンドンもおそらくそうでしょうけど、終わったあとはたいして実りのない話でしょうね。一度やってるわけですから。

 

原口:あと、東京に行ってびっくりするのは向こうではすさまじい規模の部屋数を持ったタワーマンションが港へ向けて続々と出来ているんですよ。これは明らかに住むために建ててるんじゃなくて、一目瞭然、これはもうオリンピックをダシにして、本の中ではインフラのことにも触れましたけど、インフラがインフラ自体を自己増殖させているような状況が東京に生み出されている。また、これもおかしなことに一方では「空き屋」が問題になっていて、その一方では不安定居住が問題になっている。こちらに空き家が沢山あり、あちらには不安定居住がたくさんある。これ自体が壮大な矛盾ですよね。

 

――本来それで受給がマッチするはずなんですけどね(苦笑)。

 

原口:そうなんですよ。本当に部屋がただ必要なのであれば、空き家の数のほうが人口よりあり余っているわけですから、あっという間に解決できるのですが。その必要を差し置いて、ムダなモノを作ってるわけですよね。もうそれはクレイジーとしか言いようがないです。

 

――まさに壮大な矛盾ですよね。なんで本当はそっちを考えないんだろう?って思うんですけどね。

 

原口:空き屋問題に関して僕はすごく違和感を持っていて、違和感と言うよりもこれはプロパガンダだと思ってるんですけども、最近は「空き屋問題が日本を滅ぼす』みたいな言葉が溢れかえっていますよね。

 

――へえぇ。

 

原口:空き家が増えるというのはタダで住める場所が増えるということですから、これ自体はすごく展望がある話なんじゃないかなと思うんですけどね。しかも空き家なので、人がいないよりも誰か人が住んでいるほうが長持ちするわけだから。

 

――まさに。

 

原口:そういった意味で言うと、作りすぎたモノ、資本主義の法則というのはムダなモノを沢山作るということで、こと部屋に関してはこれから空き家が大量に出てくるのを、それをどういう風に奪い返すかというのはあり得ます。

 

――結局売れ残り商品でもありますよね。資本主義的に言えば。生産したものの…。

 

原口:そうです。部屋を作っているのに誰も住んでいるわけじゃなく、かつそれを厳重に人が入らないように守らなくてはいけない。これくらいばかばかしいこと、不条理なことはないんじゃないかと思うんです。その一方で公園からはどんどん野宿が出来ないように屋根が取り外されていってるわけですよ。こっちには過剰な屋根を作って、こっちには屋根がどんどんなくなっていく。

 

――おかしいですよね。先駆的にヨーロッパではスクウォッターみたいな人たちがいたわけですけど、どうですかね?日本でも今後そういう若者とか出てきますかね。

 

原口:たぶんヨーロッパのスクウォットも長い歴史の中でようやく技術も培われてきましたし、いま縮小していますけど、ある一定期間住んだら、そこに居住権が発生する法律。これも元からあったわけではなく、もうあっちこっちで事実上スクウォットをやっているうちに作られたものなんですよね。そういった意識的なスクウォット運動というのは日本ではまだ深められていませんから、これからじゃないですか。

 

 

 

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ホームレスの日欧の意識の違い

 

*ニール・スミスー(Neil Smith1954618 - 2012929日)スコットランド出身の地理学者。セント・アンドルーズ大学卒業後、渡米し、ジョンズ・ホプキンス大学大学院でデヴィッド・ハーヴェイに師事し、1982年に博士号を取得。ペンシルベニア大学、コロンビア大学、ラトガース大学を経て、ニューヨーク市立大学教授。 主著に『ジェントリフィケーションと報復都市――新たなる都市のフロンティア』、原口剛訳、ミネルヴァ書房、2014年(原著、19962012929日、臓器不全のために死去。58歳没。

 

*「テント村」―ホームレスの人たちが公園などにブルーシートなどのテントを貼って居住空間とする形態。大阪では大阪城公園、うつぼ公園、長居公園など。行政代執行などで強制撤去させられ、特に長居公園の行政代執行などについては記録集として書籍、『それでもつながりはつづく 長居公園テント村行政代執行の記録』など、行政代執行による強制撤去の記録も残っている。

 

*ジュリアーニ市長―ルドルフ・ジュリアーニ。元ニューヨーク市長(199411日から20011231日まで。)2018年、ドナルド・トランプ大統領の顧問弁護士になる。ニューヨーク市を浄化、再開発した市長として有名。治安回復を目標に掲げ、ニューヨーク市警のトップにウィリアム・ブラットンを据え、いわゆる「割れ窓理論」を用いて犯罪率の減少に取り組む。