NPO法人フォロ事務局長、「不登校新聞」元編集長
山下耕平さんインタビュー
早生まれ仮説
杉本 山下さんが不登校のことに関わるようになったきっかけは何だったんですか?
山下 一番最初のきっかけは、私が大学1年生のときに、ジャーナリストの保坂展人さん(現世田谷区長)が大学に講演に来られたことです。講演後に保坂さんをつかまえて、いろいろ話をうかがったときに、不登校やフリースクールのことを聞いたんですよね。それで私は学生新聞に関わっていたので、その取材として東京シューレに行ったんです。1992年のことだったと思います。
杉本 大学に入って新聞部ですか。
山下 「新聞会」と言っていましたね。その取材をきっかけとして、その後、東京シューレが毎月やっていた「学生ゼミ」に参加するようになりました。いまもやっているのかは知りませんが、当時はシューレの子たちと学生が議論する会があったんです。そのうち東京シューレでボランティアをするようになりました。大学のほうは4年間行ったんですけど、結局は中退して、96年から東京シューレのスタッフになりました。
杉本 山下さんがこういう世界に入っていく過程というのは意外と知られていないというか、山下さんのファンはけっこう僕らが住んでいる地域でもいると思うんですけど、それまでの山下さんの思春期・青年期の思いとかはあまり聞く機会がないと思うんですよね。
山下 そうかもしれませんね。
杉本 そこらあたり、新聞づくりの前の時代について教えていただけませんか。山下さんの問題意識は深いし、相当いろんなことを考えてきていると思いますので。
山下 そうですね。やはり自分自身の経験があって、そこからの問題意識があるから関わっているということはあります。不登校にしても、ひきこもりにしても、私は「当事者」として関わってきたわけではないですけれども、じゃあ「支援者」かと言ったら、それもちがうって思っているんですね。自分の経験や問題意識から考えているという意味では、「当事者」性もあるように思います。ただ、自分自身の経験については、あまり語ってきてないかもしれないですね。
学校のことについて言えば、私自身、学校で納得がいかなかったことや、理不尽な目にあったことはあります。たとえば、冗談で「早生まれ仮説」を唱えているんですね。市民活動に首をつっこんだり、カネにならないことに血道をあげたり、一般的とされる道から外れてしまう人のなかには早生まれが多いんじゃないか、という仮説です。エビデンスは皆無ですが(笑)、まあ身近にちょいちょいいるぞ、みたいな。私自身、小学校低学年のころは、まったく、まわりについていけなかったんですよね。
杉本 何月生まれなんですか?
山下 3月です。そのせいか、足も遅いし、勉強にもついていけないし、成績はぜんぶ悪かったんですよ。
杉本 4月生まれと3月生まれだとやはり月日的なギャップは相当あるんでしょうか。
山下 まあ、私はそうだったと思います。教室でおしっこやウンチを漏らしたこともあって、それでいじめられたりしていました。休み時間も校庭の隅っこにひとりでいたり、なかなか友だちの輪に入っていけなかったりしたこともあったんですよね。学年が上がるにつれてそういう差は少なくなって、小学校高学年くらいには、あまりそういうことはなかったように思います。
早生まれだと、小さいころに学校でついていけない経験をすることは多いんじゃないかと思うんですね。そういう経験が原点になって、なんらかの活動をしている人もいるんじゃないかというのが「早生まれ仮説」です。まあ、冗談ですけど。
それと、これは早生まれとは関係ないでしょうけど、中学校での経験も原点にはなっているように思います。私が中学生のころは校内暴力もあって、けっこう荒れてたんですよね。
杉本 何年くらいでしたか?
山下 私は1973年生まれなので、中学校に入ったのは85年かな。いわゆるヤンキー連中に目をつけられて、だいぶ殴られたりしていました。
杉本 そうなんですか。でも山下さんは、中学に入るころには勉強ができるほうだったんですよね?
山下 いや、小学校のときは5段階評価で2か3がほとんどで、高学年になって、ひとつかふたつ、4か5をもらって、うれしかった記憶があります。中学校に入ってからはもう少し成績はよかったですが、自分は勉強ができるという認識はあまりなかったですね。
杉本 ちょと信じられない話ですね。
山下 親も、成績にこだわる感じはなかったんですね。父親は鹿児島の工業高校を出て自動車メーカーで働いていて、母親も福井県の農家で生まれ育って高卒でしたし、高学歴指向の家庭ではなかった。父親は「ふつうであればいい」という価値観でしたし、小学校のあいだは、塾に行ったこともありませんでした。近所の子は夜遅くまで塾に行ってたみたいですけど、私は夜8時には寝てましたからね(笑)。
杉本 ははは(笑)。それは健康的ですね。
山下 土曜日だけ「8時だよ!全員集合」とか「オレたちひょうきん族」を見るために夜9時まで起きているという感じでしたから、かなり牧歌的でのほほんとしていたんです。中学に入ってヤンキー連中にからまれたのは、のほほんとしすぎているところが鼻についたのかもしれないですね。
杉本 ああ、僕の兄貴と同じですね。「お前そんなんじゃ社会で生きていけないんだぞ」と。
山下 まあ、そういうなかで暴力をふるわれていたんですが、でも、それを人には言えなかったんですよね。突き飛ばされた勢いで、自分の頭で窓ガラスが割れてしまったこともあったし、殴られて肋骨にヒビが入っていたんだと思いますが、ずっと脇のあたりが痛かったり、精神的にも屈辱的な思いをさせられたことがけっこうありました。その影響で、何か歪んでしまった部分はあって、それは、いまもってあると思います(笑)。でも、ちょっとフタをしてしまっていた部分はあるんでしょうね。高校に進学して以降は暴力はなかったので、忘れたかのように過ごしていたところがありました。でも、自分が不登校のことに強く関心を持った背景には、そういう自分の経験もあったんだろうと思います。ただ、それが自分のなかで明確に意識化されてきたのは、だいぶ後になってからです。たぶん30代に入ってからじゃないかなと思いますね。
杉本 いろいろあったなかでも整理がついてきて、少年時代をふり返ってみるとしんどかったなということなんですね。たぶん学校という構造の器のなかで、ヤンキーの人たちもついていけなくなって、彼らは外在的に自分より弱い人間を対象にやるわけですよね。集団で、場合によっては教師も(苦笑)。でも、教師を殴ったりするというのはリスクが大きいでしょうから、手っ取り早く弱い子をいじめるということはあったんでしょうね。
山下 教師で殴られて入院していた人もいましたけどね。私は入院するまでのことはありませんでした。でも、それなりに苦しい思いをして、それに完全にフタをしていたわけではないんですが、フリースクールのスタッフとして子どもと関わると、「兄貴分」的な役割というか、人生の先輩的な役割で子どもと接してしまっていた面もあって、シューレのスタッフになった当初は、まだ、そういう自分の経験とちゃんと向き合うことはできていなかったような気がします。
杉本 なるほどね。
どうしたらいいかわからない
杉本 山下さんの本を読むと、常に自覚を自分のなかに促すところがあると思うのですが、そこにつながる気がしますね。ひきこもり界隈のことでは、僕も最初のうちは、バイトはやれていたし、正直そういったレッテルを貼られている状態に見られたくないという思いがありました。それと、年齢が30~40歳を超えていたんで、中年の自分が、あらためて「ひきこもり」という問題で行ける場所だとか、あるいは失業中にひとりで孤立していても、そのような自分が行ける場所はないなと思って。でも、たまたま新聞で中高年のためのひきこもり自助会の紹介があって、それで行くようになったんです。まあ、そのうちだいぶいろいろ見えてきてしまって(苦笑)、離れてしまったんですけどね。2012年ごろはまだ少し関与していて、何か「おかしくないか?」みたいなことに気づいて、ひきこもりでない人と知り合って、さまざまに話し合っている時期に、山下さんの本(『迷子の時代を生き抜くために』北大路書房)に出会ったんですよ。そこで、「支援する/支援される」関係性みたいなものは何とかならないものかともやもやしていた時期だったんです。それと、生活困窮者支援で活動されている*櫛部武俊さんにお会いして「あ、これだ。循環型福祉だ」と。
そのあたりの自覚が弱い世界だなと思うなかで、『迷子の時代』を読んだんですね。山下さんは『迷子の時代』のころから、ずっと自己省察を続けている。いい意味でずっとこだわっておられるのがすごいなと思うんですよね。
山下 いい歳になっても、「大人」になれてないだけの気もしますが(笑)。
もうひとつ、自分の経験のことで言うと、いわゆる「浪人生」の1年間は、ほぼ「ひきこもり」状態だったんですね。自室にずっといたわけではないですが、ほとんど人と話していなかったんじゃないかと思います。
杉本 予備校などには行っていたんですか?
山下 予備校には行ってたんですが、なんだか受験勉強をする意味がわからなくなって、予備校のそばにあったミニシアターに行ったり、雑司ヶ谷(東京・池袋界隈)のあたりを散歩したり、1日中本を読んでいたりすることが多かったですね。それまで乗っかってきたものがよくわからないものになって、とはいえ、どうしたらいいかわからないから予備校に行くふりはしていたというか。
杉本 「働く」という選択はなかった?
山下 父親からは「そんなに受験がしんどいんだったら、工場を紹介するから働いたらどうか」と言われたこともありました。でも、「どうしたらいいかわからない」というのが正直な感じだったと思います。大学進学の流れに乗っかってきたものの受験に失敗して、ほかにも挫折経験が重なって、自分のことがほんとうによくわからなくなった感じでした。
杉本 やはり山下さんご自身としても苦しかった?
山下 苦しかったですね。
杉本 青年期初期の感じでしょうか。
山下 いま思えば、あの時間が自分の原点になっている感じはあります。ただ、当時はすごく苦しくて、とにかく時間が重くて、流れていかない感じがありましたね。
杉本 そのころはどういった本を読んでたんですか?
山下 とくによく読んでいたのは、ドストエフスキーと夏目漱石ですね。
杉本 ドストエフスキーは『地下室の手記』という短めの作品を最初に手にしたことがありますが、たしかにね(笑)。
山下 私が最初に読んだのは『罪と罰』でしたけど、衝撃を受けて、そこから文庫本で手に入るものから片っ端に読んでいった感じでしたね。
杉本 夏目漱石も『坊っちゃん』以外は基本的には……。
山下 暗いですからね、ほんとうに(笑)。
杉本 暗いですし、自意識小説が多いですもんね。
風穴が空いた感じの新聞会活動
山下 まあ、そういう1年間だったんですが、受験はして、大学には受かって行ったんですね。だけど、入学早々、「新歓(新入生歓迎)」の雰囲気がとにかくイヤで、授業もまったくおもしろくないし、「何のために来たんだろう?」と思って、大学に入ったあとも、鬱々としていました。そうしたなか、気まぐれで新聞会の部屋に行ったんですね。そうしたら、留年して5年生だという人がひとり寝ていて、「これからちょっと国会に行くからいっしょに行かへん?」と言うんですね(関西人でした)。ちょうどPKO法案が国会に上程されようとしていたころで、デモに行くというんです。それで、ノコノコついて行ったら、機動隊がジュラルミンの盾をかまえて待機していて、「ああ、いまでもこういうことがあるんだな」って、びっくりした覚えがあります。
杉本 学生運動の残党みたいなことですか?
山下 私のいた大学には、いわゆる「セクト」の人はあまりいなかったんですね。それは幸いでしたね。政党とか党派には属さない「ノンセクト」で、まあアナキズム的なノリなので、とにかくいいかげんなんです。運動といっても、組織だったことはやらない。部屋のなかは、いつもタバコがもうもうとしていて、昼間から酒を飲んでいたりね。新聞会の人ではないですが、自称ヒッピーで、すでに学籍がないのに大学に住んで、生協で万引きするのと、キャンパス内で露天商をするので喰いつないでいる人なんかもいました(笑)。
杉本 それって、90年代の話ですか?
山下 92年入学でしたね。
杉本 90年代に入って、まだそんな人たちがいたと(笑)。
山下 いやあ、いたんですよ。いろいろ、おもしろかったですね。
杉本 すごい話ですねえ。それまでは、山下さんはそのような関心とかはまったくなかった?
山下 知らなかったですね。当時はどちらかと言えば文学よりだったんですよ。社会問題に意識があるというより、自分のわけのわからなさに悩む感じでした。
杉本 どちらかというと文学青年的な感覚で。そうすると自分が持っている潜在的な気持ちみたいなものを新聞で表現できるのではないかと思ったのですか?
山下 新聞会に行ったのも、社会問題意識からというよりは、とにかく大学の「新歓」の雰囲気がイヤで、どこかに居場所がほしかったのだと思います。新聞そのものにも興味はあったんですけど、そんなに強いモチベーションがあったわけではなくて、たまたま訪ねてみたということだったと思います。
杉本 なるほど。それで訪ねた日にいきなり国会に行ってみようと言われて、そうしたら機動隊がいてびっくりして。でも拒絶反応は起こさなかったんですね?
山下 あまりなかったですね。むしろ、浪人時代以来、自分のこともわからなくなっていたなかで、そこに風穴が空いた感じがしたというか。そこからいろんな社会運動や市民活動に顔を出すようになりました。
杉本 部員さんのなかに、そういう活動をしている人がいたんですか?
*櫛部武俊 (くしべ たけとし 1951年 - )社会運動家。元釧路市職員(ケースワーカー)、現在釧路社会的企業創造協議会副代表。 櫛部氏については本インタビューサイト、2015年3月30日付も参照されたし。