両義性を大事にしながら考える

 

山下 矛盾していることを「矛盾してたらダメだ」と思うと、苦しいですよね。

 

杉本 僕は、山下さんはいい意味での両義性(アンビバレンツ)を常に感じてるんじゃないかと思うのですが。

 

山下 そうですね。そこは大事にしたいと思っているところはあります。

 

杉本 不登校50年証言プロジェクトで、いっしょにインタビューをしている方で『ハマータウンの野郎ども』(ポール・ウィルス:ちくま学芸文庫)を翻訳された方がおられるじゃないですか。

 

山下 山田潤さんですね。

 

杉本 山田さんは、学生運動が終わったあとに町工場で職人として働いた経験もあって、自分の力でモノをつくることのよさを強調されていたと思うんですね。

 

山下 ええ、そうですね。山田さんは、第3次産業で働く人が多くはなっているけれども、それだけで社会が成り立つわけはなくて、手仕事が生活や社会を支えているんだ、ということをおっしゃっていたように思います。

 

杉本 山下さんも、それは重要なことだと捉えていると思うんですよ。でも同時に『名前のない生きづらさ』(子どもの風出版会)を書かれた野田彩花さんのように、繊細な、現代の生きづらさというものも、受けとめている。それって、なかなかできることじゃないなって思ったんです。僕はどちらかと言えば野田さんの語りのほうがなじむ。でも、たしかにわかるんです。山田さんが語られていたように、町工場のような現場と接点を持ち、学校以外の現場を若いときから知って、生きていくコミュニケーションのありようを了解していく。そういう現場を経験している人が持っている、ある種の自由さみたいなものは、わからなくはない。ですけど、やはり自分には無理だなと感じるんですね。表層的には付き合えても、深くは難しいなと。両方を受けとめている山下さんはやはりすごい度量だなと思います。

 

山下 そんなに度量が広いわけでは、けっしてありませんが、むしろ自分の狭量さを自覚していることは大事かな、と思います。実際にできているかどうかは別として、心がけているのは、自分の枠組みで相手の話を聴こうとしない、ということですね。自分の持っている枠組みは、どうしても消すことはできないんだけれども、相手には相手の文脈や枠組みがあるわけで、そこをなるべく素直に聞くようにしないと、話を聞いたことにはならないんですよね。たとえば、山田さんには山田さんの生きてきた文脈があり、経験があり、そのなかから出てきている言葉なので、それを自分の価値観や経験からだけで聞こうとすると、耳が狭くなっちゃうと思うんですね。なるべくそこを取っ払って聞けるようにしたいと心がけてはいます。できているかどうかは別問題ですけど(苦笑)。

 

杉本 やはり経験値でしょうかね。僕も、なかなかそのような経験を積んできた人と話す機会はないですからね。

 

 

 

世代間の体感ギャップ

 

山下 プロジェクトについて、そのあたりのことで言うと、たしかに世代間のギャップは感じました。「生きづらさ」みたいな話って、一定世代より上の人たちは、頭では理解しようと思っても、体感としては、なかなかわからないんだと思います。

 

杉本 たしかに、たとえば小沢牧子さんは選択の自由なんてやはり甘い、みたいな感じがあるじゃないですか。学校がイヤなら、その学校を変革せよ、みたいな。

 

山下 「イヤだったら、そのとき行かないで抗議すればいいのよ」と、おっしゃっていましたね。権力ときちんと対峙して、学校制度や専門家や国家のあり方を正面から問うことが大事だと。

 

杉本 選択の自由っていうのは逃げてるよね、みたいにもおっしゃってましたね。僕は小沢さんのインタビューを読んで、心弱っている人たちに「対峙して変えなさい」というのは難しいし、厳しすぎるんじゃない? と思いました。そういう社会環境でもないのでね。

 

山下 そのあたりは、世代による感覚の差もあるんだと思います。でも逆に言うと、若い世代ほど「この社会は変えられる」とか「もっと別の世界にし得る」という感覚はなくっているわけですよね。その結果、自分の心の問題みたいなところに閉じ込められてしまっている。

 

杉本 その感覚差って、山下さんくらいの世代が、ちょうどはざまじゃないですか?

 

山下 そうですね。それはあると思います。

 

杉本 いまの若い人はわからないですけど、山下さんから石井さんくらいまでの感じですかね。野田さんは、またちょっと特殊な、きわめて高い感受性を持っていて、表現力もきわめて高いと思うんですけど、そういうものを持てない子も当然いるわけじゃないですか。

 

権力に対峙して社会変革していくという感性に対して、おそらく野田さんなんかは、自分の違和感をある程度文学的に表現できる方なんだと思います。でも、それも特殊な例で、そういう言葉としては発露できないけれど、野田さん的な感覚の繊細さで学校に行けなくなっている人たちも多いんじゃないですかね。昔だったら「野郎ども」とか、「ヤンキー」みたいな集団性だったわけですが。

 

山下 そうですね。

 

 

 

集団の抵抗から個の苦悩へ

 

杉本 昔は、集団になりながら学校と対抗するという表現の仕方ができた。その前は、いわゆる学生運動ですよね。その運動にシンパシーを感じた有識者の人たちには、その後の校内暴力世代の人たちにもシンパシーを感じて、論じていた人たちもいたと思うんですよ。

 

山下 たしかに。

 

杉本 僕も、校内暴力で先生にお礼まいりしたような奴がいたのは知っています。ですけど、同時に、その彼らが気の弱い子をいじめていたという事実もありました。両面があったと思います。最後は肉体ひとつでやっちゃうのを見て知っていたので、学生運動的なシンパシーを校内暴力世代に持ち込んでも、そういう発想はどうなんだろう?と疑問で。代弁の仕方がちがうと思ってました。

 

山下 そうなんですよね。僕も「ヤンチャな子たち」みたいな言い方で、ヤンキー的な子どもたちを肯定的に語ることに対しては、自分に被害経験があることもあって、抵抗感があるんですよね。そこにある暴力性を見ないで、教師や論者がそういう言い方するのは、どうもなと思うところがあります。

 

杉本 たとえば定時制高校の先生たちとかは、子どもたちが早いうちから労働の世界に身を置くことを肯定的に見て、学校の画一化を問題視しますよね。同一世代の一斉学習みたいなものが持つ弊害を問題視して、むしろ学びが実際の労働とどのようにリンクするのか、それが学校の学びと隔絶されてしまっていることの問題を考えてきたんだと思います。それは歴史の過程のなかでは意味のあることかもしれない。

 

山下 それは、その通りだと思います。

 

杉本 とはいえ、それがいまの時代のなかで、どう生み出せるのか? というところですよね。

 

山下 たとえば、ヤンキーみたいな人たちも含めて、学校を相対化して、つながり合えるような関係は、なくなってきてしまっているんだと思います。それは、フリースクールも同じでしょうね。先ほど申し上げたような流れのなかで、求心軸は衰えている。そのなかで、「自分が悪い」とか、「自分が努力して克服する」とかではなくて、なおかつ、「昔はよかった」というようなノスタルジーで語るのでもないコミュニケーションの回路を、いまの子どもや若い人と、どう具体的につくっていくことができるのか。それは、私もずっと悩みながらやっているところです。そういう回路がないと、すごく苦しい気がするんですよね。

 

杉本 いまの若い人たちにとっては、なかなか疎い議論ということでもあるでしょうしね。やはりどうしても個別的なやり取り中心にならざるを得ない部分もあるかと思うんですけれども。でも、そういうことの延長線上で、同世代どうしで話が広がっていくとよいですよね。

 

山下 そうですね。あちこちで、試行錯誤はなされていると思いますし、世代をまたいでの対話もあると思います。そこに希望を持ちたいですね。

 

 

 

二項対立は成り立たない

 

山下 不登校に関して言うと、登校/不登校という二分法、二項対立みたいなものは成り立たなくなってきていると思うんですね。かつてだったら、不登校したことにある種のアイデンティティを置いて、自分の問題意識をつくっていくことも成り立っていたように思います。でも、いまの子どもたちにそういうことができるか、あるいは望ましいのかと言ったら、そうではないだろうという気がしますね。

 

石井志昂さんの場合は、不登校をひとつのアイデンティティにしたんだと思うんですよね。それが一概に悪いこととは言いませんし、私は、石井さんとは不登校新聞での関係以前に、東京シューレのスタッフと会員という関係でしたから、無責任に外から批判したいわけではありません。ただ、やはり、そこには苦しさもあるように思えます。

 

私は、今後、必要なのは、登校/不登校という二分法ではないかたちで考え合っていけるような対話の回路だと思っています。それには、マジョリティに向かって、不登校をわかってほしいと語るのではなくて、不登校と一口に言っても、それぞれに経験も背景も文脈も異なるので、当事者どうしのなかで、その差異を踏まえながら話し合って、そのなかから、不登校という言葉に縛られないかたちで、自分の軸みたいなものを手にしていくことが大事になってくると思うんです。それは、さまざまな試行錯誤のなかで培われていくことであって、まっすぐに行くものではないですよね。ぐるぐると、対話を重ねていくことが必要なんだと思います。

 

でも、その対話をするということが、若い世代や子どもにとって、難しくなってきているとも思うんですね。「づら研(生きづらさからの当事者研究会)」などでも、いろいろ試みていますけれども、子どもとは、まだできていないですしね。

 

とくに、大人と子どもの力関係は、気をつけないといけないところで、「洗脳」じゃないですけど、大人の問題意識に、子どもを無理に引っぱりすぎてしまうのもよくないと思うんですね。だから、フォロでは、「なるにわ」「づら研」とフリースクールは一線を引いてやっているところはあります。

 

杉本 そういう難しさは、いくつくらいまでの子に感じますか? ある程度表現力がつく世代でも、かつてと質がちがっている感じがしますか?

 

山下 う~ん……。

 

杉本 もっとデリケートに接しなくてはならなくなっているとか?

 

山下 自分の輪郭がつかみにくくなっているような感じは、あるような気がします。それは、年齢というよりも世代の問題かもしれませんね。不登校に関して言えば、かつてとは構図がちがってきているので、先ほどお話ししたように、学校に対するアンチみたいな構図で不登校を語ることはできなくなってきていると思います。いずれにしても、いまの社会の価値観を相対化して、自分のことを考えるみたいなことは難しくなっている。そういうことができたのは、おっしゃるように、石井さんの世代ぐらいまでだったかもしれないですね。

 

杉本 じゃあ、いまはやはり「適応したい」みたいなかたちになってきているのでしょうか。

 

山下 そうですね。これまでの学校は古い、もっと自由に個性や能力は伸ばせる、みたいな語りはありますよね。でも、それはやはり、個人モデルに即した語りだと思います。個人の生き方としては、別に悪いわけではないんですけどね。

 

杉本 学校に適応できなくて、別の教育機会には適応できるとしても、今度は別にひきこもりというかたちで出てくるかもしれませんよね。

 

山下 そうですね。個人の生き方としては、この社会と折り合いをつけて、何らかのかたちでうまくやっていくというのは、何ら否定されることではなくて、それはそれでいいと思うんです。ただ、くり返しになりますが、それだけでは、社会はますます苦しくなっていく、ということですよね。

 

不登校やひきこもりに関わる人というのは、この社会でやっていけるようになるから大丈夫という肯定の仕方ではなく、やっていけない側に立ち続けることが大事だと、私は思っています。それは、個々人が「やっていける」ようになることを否定しているわけじゃないんです。社会に適応する人は許さないみたいになってしまうと、カルトみたいになってしまいますからね。だから、ある種の柔軟さというか、いいかげんさ、矛盾を抱えることが必要だと思うんですね。逆に、そういう問いを持たないで、たんに社会適応を応援するツールとしてフリースクールが認められることになったとしても、それが無意味とまでは言いませんが、そんなものはいくらでもあると思うんですね。

 

杉本 だから、ある種独自路線を行かれているということですよね(笑)。

 

山下 私としては独自であってほしくはなくて、共感してくれる人が多いほうがいいんですけどね(笑)。

 

 

 

矛盾のないまぜのなかで、手放さないものを持つ生き方

 

杉本 山下さんには、独自になれる純粋さと両義性に加えて、人の自然性にこだわっているのではないかな、という印象があるんですね。やはり、なかなか大人は自然体で生きてないですよね。

 

山下 そうですね。

 

杉本 場面場面で演じてますから。そういう意味では、もしそれが大人というものの定義的なものなら、稼ぐ場所ではサービス業として自分の時間を売ることになる。山下さんは、この領域にいる以上は、それはちがうだろうと。

 

山下 まあ、そういう面もあるかもです。でも、私は「部分的に魂を売る」ということも言っているんですね。矛盾を抱えつつ、魂の売りたくない部分を守るために、部分的には売ることも必要じゃないかと。まあ、矛盾を完全に解消しようとしたら、死ぬしかなくなっちゃいますからね。

 

杉本 ははは(笑)。けっこう、がんばっているんじゃないかと思いますけどね。

 

山下 部分的に魂を売りつつも、一方では考え続けたいから、文章にしたり、言葉にしたりしているところはあるんですけどね。かといって、そんなに純粋に生きているわけではまったくありません。いいかげんだからこそ生きていられるわけで。

 

その点、若いときほど、「白か黒か」になっちゃうと思うんですね。私にもそういうところがあったと思います。だけど現実はないまぜなもので、じゃあ黒になりきるのが大人だとか、逆に白であり続けなければならないとかではなく、ないまぜのなかで、問いを手放さないことが大事だと思います。そういう大人のあり方もあっていいんじゃないかと思ってるんですね。もう少し、そういう生き方が社会で許容されるようになれば、「ひきこもり」も、その枠組みからもう少し自由になれるかもしれないですね。

 

杉本 ある程度、そういう話も出つくしている感じもするんですよね。ただ、世の中がキツキツみたいなので。

 

山下 そうですね。

 

杉本 とくに貧困の問題などになるとね。昨日も失業の研究をされている先生とお話していたんですけど、「どうなりますかねえ……」みたいなところでおたがいに沈黙する、みたいな。貧困の研究をされる方は、同様のことがけっこう多くて(苦笑)。方向の見えなさに耐えていかなくてはいけない、という。

 

山下 たぶん、不登校にもひきこもりにも、どこか「文学的」なところがあるのかもしれませんね。それを「高等遊民」と言っても、「中2病」と言ってもいいのかもしれませんけど(笑)。

 

杉本 たぶんに実存的なところがあって、それを引きずっているという(笑)。

 

山下 「終わらない思春期」じゃないですけど、別にそれでもいいと思うんですよね。そういうことがもっと許容されたほうが、多くの人たちにとっても生きやすい世の中になるはずで、それは登校/不登校とか、就労/ひきこもりといった二項対立で線引きできる話ではない。

 

杉本 何かそこで終わっちゃうとつまらない感じがあるんです。

 

山下 不登校やひきこもりって、具体的なお金の話とか、制度の話が進んだとしても、どうしても引きずるものが、たぶんあると思うんですよね。

 

杉本 経済問題になると、それはひとりの人間が占める要素よりも大きな話で、文学的なことを言っている場合じゃない、みたいになりがちですからね。難しいところもありますが。ただ、あえて言えば、山下さんも存在意義みたいなものに惹きつけられる何かがあるのだと思います。同時に、それで行動もされているというか。先に行く先輩として。

 

山下 まあ、ダメな大人のひとりです。いい歳になっても、この社会に対する問いを持ちつつ、小さくとも、それを共有できる関係や場があって、それをなんらかのかたちで続けていければいいな、と思ってます。いまやっていることで、あるものはダメになるかもしれないし、残るものもあるかもしれないし、転がる石のように、変わっていくこともあると思います。私はそれでいいと思っているんですね。まあ、とはいえ、いまある関係や場は大事に、つぶさないようにしたいとは思ってますけれども。

 

 小さい場が、小さいままに存在できるということも大事なことですしね。社会を根本的に変革することは難しくても、すみっこに、こんなダメな大人でも、ぐだぐだな場でも存在できる社会が、いい社会だと思います。そして、そういう人たちが、こうやって対話していけることが大事だなと思いますね。なので、今日はこういう機会をいただいてありがとうございました。

 

杉本 こちらこそ、すばらしい話をありがとうございました。

 

 『ハマータウンの野郎ども』 イギリスの文化社会学者、ポール・ウィリス(1950年 - )が、1977年に出版したイギリスの若者研究の著作。当著は、労働者階層の家庭出身の若者たちが、中流階層に対して抱く反抗的な気分を提示し、社会の中で中心的な位置にある学校の学習文化を克明に描き出したことで知られている。この『ハマータウンの野郎ども』以来、ウィリスはイギリスの現代文化研究の指導的な研究者の一人と目されるようになった。(Wikipedia参照)

 

2019.9.30 大阪市内のコーヒーショップにて)

 

 

インタビュー後記

 

山下耕平さん:元『不登校新聞』編集長。NPO法人フォロ事務局長。同法人で18歳以上の居場所「なるにわ」のコーディネーターを務めている。ほかに、全国不登校新聞社理事、関西学院大学非常勤講師など。著書に『迷子の時代を生き抜くために』(北大路書房2009)、共著に『名前のない生きづらさ』(子どもの風出版会2017)。

 

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