「生きる」という名のつく本を3年間読み合わせ、積み重ねをしてきた

 

工藤 何人か来てた遠友夜学校の卒業生の人たちに私が共通して受けた感覚ですが、顔を見たらみんなおじいちゃん、おばあちゃんだけど、どこかキリッとしている。あの姿勢はやっぱり「学び」かなあ?と思ったんです。その人たちが「本当によかった」とその表情で言ったときにやはり今こういう学校が必要だということを強く感じましてね。それで私も含めてそこに来ている人たちの中から「夜間中学、つくろうか」という話が出てきた。ところが夜間中学は当時本州に公立の夜間中学が35校、あと自主夜間中学が10数校あったんですけど、こちらは全然どう運営しているのか分からないわけですよね。何をどうしたらいいのかわからなくて。とにかく3年間毎年一冊ずつ本を読んでいったんです。みんなで読み合わせていった。最初は吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」。

 

―― 今年流行っているやつですね。

 

工藤 あ!いま流行っているやつです。それから2つめは岩波新書で、今小樽に住んでいる花崎皋平(はなさきこうへい)さんという人が書いた「生きる場の哲学」という本。それをやって3冊目が高史明(コウサミヨン)さんの「生きることの意味」。高史明さんは息子さんが自殺した。その「生きる」という名前のついた3冊の本を3年間かけて年に一冊ずつ読みました。そこに遠友夜学校出身者が何人か来ていました。

 

 それでその後夜間中学を作ろうということになりまして。そうしたら今度はスタッフの中に元公立の夜間中学(大阪の天王寺夜間中学)で教えていた人がいたんですよ。公立ですから授業料がないわけですよ。だからこちらで作る自主的な学校もタダにするべきだと彼が主張して。それで空中分解しそうになったんですよ。お金がないのにですよ(笑)。

 

―― そうですよね。

 

工藤 金もないのにどうやったらいいんだ?と。対案も出さないで、ただそう言っても始まらない。

 

―― 場所、ボランティア、職員の人件費。いろいろありますね。

 

 

 

賛助会員を集めるところから始まった

 

工藤 ええ。だから仕方がないので、本当にそのとき空中分解しそうになったんですけど、とにかくまず賛助会員制度というのを目標を定めて作りました。受講生を募集する前に。目標として60万集めようと。一番最初は1989年の10月に「こういうような趣旨で自主夜間中学を立ち上げるんだけど、スタッフになる人いませんか」と募集し、20名くらい集まったんです。その人たちを軸に、今度はそれから各教科の担当者をいろいろツテを頼って求めて行きました。そして翌年の2月に賛助会員を集め、2ヶ月か3ヶ月かかって60万円を集めました。そのお金で3ヶ月分の市民会館の教室となる会議室のお金を払い、90年の3月25日の日曜日朝刊の北海道新聞に受講生募集の記事を載せてもらって。これは助かりましたよ、年齢に関係なく夜に勉強をしたい人たちが集まるところ、これが夜間中学だとイラスト入りの記事が教えてくれたのです。このとき初めて広報ができた。

 

―― はい。

 

工藤 最初は不安だったんですよね。誰も来なかったらどうしようか、ところがフタを開けたらどうもならないくらいたくさん来てくれて。当時の市民会館の2階の1号室。150人入る部屋なんです。それが前から後ろまでびっしり埋まった。

 

―― 100人以上ですか?

 

工藤 100名以上。

 

―― それはやっぱり学習機会が持てなかった人たちですか?

 

工藤 そう。大半が戦争などで学校に行けなかった人。

 

―― ええ。直接間接の戦争経験で。

 

工藤 あとは病気ですよね。

 

―― 病気というのは例えば、小さいときから長く医療機関に罹ってしまっていたとか、そういう人たちですか?僕らの頃は何というのか。虚弱児童なんて言い方があったような気もするのですが。

 

工藤 「就学免除」とかね。特にポリオ。病気に罹って。

 

―― ポリオというのは?

 

工藤 小児まひです。

 

―― ああ~。はい。

 

工藤 そういう病気に罹ったときは学校に行かなくてもいいという。就学免除という制度があるんですよ。

 

―― う~ん、なるほど。

 

工藤 で、そういう人たちも学ぶ機会を作らないといけないということになり、出来たのが養護学校。それが出来たのは昭和54年ですから。

 

―― その時期までなかったんですね。

 

 

 

学ぶ機会を逸した人たちを見過ごしてきた

 

工藤 そう、それまではなかった。ということは、そういう人たちが通学するという形で外に出るようになりました。それまでは家の中にこもってたけれど、その人たちもやっぱり勉強したいので「来たい」ということになった。そういう人たちって沢山いるんですよね。だって本当に何にもなかったんですから。

 

―― そうですねえ。これは別の例で、けっこういい高校に受かったんだけど、車いすだと入れないから入学できないというので裁判が起きたことがありましたよね。全然まだ「ノーマライゼーション」という意識も無い時代。80年代くらいの頃だったと思いますが。

 

工藤 病気といっても、さまざまな病気があります。特に戦前などは病気でもすごく長期間の病気がありましたからね。

 

―― 結核とか?

 

工藤 結核とかね。そうすると何年も入院してるんですよ。そして学校に戻ってみたら自分の机がなかったりする。かつまた、戦争がからんでくると親が戦死する。だから片親であったりとか。

 

―― 戦災孤児だとか。

 

工藤 戦災孤児の問題は本州の爆撃とか、それから樺太でも出てきましたし。あと酷かったのは沖縄ですよ。あそこは地上戦が行われましたからね。だから結局その方たちが、必死に小さい頃から働き、ハッと気づいたらもう義務教育年齢を通り越してる。で、その義務教育が6歳から15歳までと学校教育法の規定にあるのですけど、そこからはずれた人は義務教育を受けられなかったのですよ。遠友塾に来た人たちっていうのは、そういう学ぶ機会を何らかの形で失った人たちが、学びたいということで来るんですよ。しかしねえ。よくそういう事態を行政は見過ごしてきたもんだと。学ぶ権利は憲法で保障されているにもかかわらずです。

 

―― う~む。

 

工藤 教育を保障する立場にある人たちはいったい何を考えて生きてきたのか。憲法第26条にある「学ぶ権利」は「法律の定め」で行うとなっていますが、その法律がなかったという理由からだけですよ。教育機会確保法という法律が出来てからでも、まだ抵抗してますからね。おざなりなニーズ調査をやって、夜間中学のニーズはないなどと、県の教育委員会が発表するとかね。まだまだそういう時代なんですよ。

 

―― こういった本(『月明かりの学舎から』―東京シューレ出版)も読みましたけどね。けっこう憤りみたいなのも書いてあって。そういうものなのかと。でもこうやって実際に間近でお話を聞くと事実そうなんだって思いますね。

 

工藤 国勢調査で10年に一度、教育項目の調査があります。しかし、義務教育を終えてない人が何人いるかというのが分からないように作ってあるんです。たったひとつ分かるのはね、小学校出てない人の人数はある程度分かる。これが現行の国勢調査の用紙ですけどね。だいたい普通の場合は高校出たら卒業で、そこにマルをするだけであとは見ませんよ。

 

―― でも、「未就学」という欄がありますね。

 

工藤 ええ。ここで幼稚園、保育所、乳児。

 

―― ああ、そうか。

 

工藤 あとは「その他」なんですよ。その上に年齢がある。ところがね。遠友塾に来る人の経験から言うと、「未就学」という文言は読めないし、意味も分かりません。

 

―― そうですね。意味、分かんないですよね。僕が見ても分からないと思う(笑)。

 

工藤 しかもここは「乳幼児なんだ」と書く欄だと思いますから。

 

―― 本当にそうですよね。

 

工藤 だからつけようがない。エラー率がすごく高くなる。

 

―― うん、うん。

 

工藤 札幌市のエラー率が18%。

 

―― うん。これは不親切だな。

 

工藤 ええ。義務教育を終えていない人のことが分かるように、教育質問項目の改正を昔からずっと言ってきて、文科省がようやく総務省に改善を要求した。去年の7月13日に全国の1万5千世帯に改善した形の試験調査を実施しました。こういうことなども国に対する必要なアプローチです。エラー率が高い中、数は少ないのですが、この未就学の「その他」に○をつける、小学校を出ていない15歳以上の人がいたんですよ。

 

―― ああ~、そうですか。

 

工藤 で、それを探っていくとやっぱり一つの市町村。北海道でいくと197の市町村で戦後に大変だった地域で学校に行けなかった人がやっぱりすごい数でいるんですよ。特に例えば新篠津村ね。いままでもそういうデーターは出てきてるんですよ。各市町村の教育委員会に出てて、この「その他」の人数も出てるんです。いままで見過ごしてきたといえばそれまでですけど、よくあの数字を見て、平気でいることができたなと。もう怒りしかないですよ。何を考えてんだろう。(苦笑)。

 

―― もしかしたらそういう感じなのかなあ。かつての人のことはもう頭にも浮かばないのか……。

 

工藤 はっきり言って無自覚的な切り捨て、「棄民」ですよ。人間扱いじゃない。で、そういうことがいま現実にも起きていることなんですよ。しかし、教育の機会を求めて行政の人たちに分かってもらわなければいけないので、話し合うときには、おだやかに話をしていかないといけません。

 

―― 行政の人たちですね?

 

工藤 そうです。喧嘩していいことはない。いや、だからやらなきゃならんことは無数にあって、まだまだこれからです。

 

 

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花崎皋平―はなさきこうへい。(1931-)。著述業・哲学者。東京出身。1954年東京大学文学部哲学科卒業。1964年より、北海道大学の西洋哲学の教員となる。マルクス主義の研究などが専門。北海道大学助教授を務めたのち、1971年に自主退官。マルクス主義、市民運動や住民運動、アイヌ民族に関連した執筆活動を行っている。(ウィキペディアより編集)。

 

高史明―(コ・サミョン、こうしめい、1932年 ー)。山口県下関市に生まれる。3歳で母と死別し、石炭仲仕であった父に育てられる。高等小学校中退後、職を転々としつつ政治活動などを行う。1971年、初の著作を上梓、評論家となり、1975年『生きることの意味』で日本児童文学者協会賞、産経児童出版文化賞を受賞するが、同年、一人息子が12歳で自殺、その遺稿詩集『ぼくは12歳』を妻の岡百合子との編纂で刊行し、話題となり、1979年にNHKでテレビドラマ化もされる。その後、親鸞と『歎異抄』の教えに帰依し、著作のほか、各地で講話活動を行う。(ウィキペディアより編集)

 

就学免除―学齢児童・生徒が、病弱・発育不全その他やむをえない事由のために就学困難と認められた場合、就学義務を猶予または免除すること。保護者の申請により、教育委員会が決定する。