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もとは東京出身の森元斎さん。縁あって福岡に行かれた後にご自分で中って福岡郊外の古民家の住民になられました。先端のヒップホップなども聞きつつ、畑仕事をしながら思索するアナキスト哲学者です。今回は図々しくも福岡の森さんのご自宅まで押しかけお話を伺いました。改めてお話聞き返し、その知性とやさしさ、そして漢気に心底私はうたれました。どうかこの濃密なお話をぜひお読みください。失礼なほどウザい問いにも森さんは真摯に、そして知的刺激となるお答えをいただき、ありがたい次第です。では。

 

 

 

ひきこもりは思考するか

 

杉本 人によってひきこもりというものを比ゆ的に「現代的な問題だ」と捉える向きの発言があるのを聞いたことがあります。昔は当たり前でなかったけれど、自意識であるとか、個人としてどうありたいか。その発想を一般レベルまで持てる時代になって。とはいえやっぱり他者が必要だという風になったとき、回路として複雑になってきた結果であるかもしれないと。確かにそのような観点での言い方も一理あるかもしれません。でも一度は内省できる人間になっていく人が増えるという意味で、もしかしたら人間としての進歩なのかもしれないと思ったりもするところなんです。

 

 そうですね。ひきこもりという点に関してすごく考えてるわけでもないんですけど、僕が思うのは、ここ何十年かの話かもしれませんが、普段の生活で沈思黙考するとか、考えたりとかをする時間というのがほとんどなくなってきているじゃないですか。朝起きて支度してすぐに会社に行って、仕事という枠組みの中で働き、朝から晩まで働いて帰ってきて、帰りの車中で考えることもなくスマホを見てるみたいな生活。別にそれが悪いとかではないんですけど、そうした中にゆっくり考える時間がなくなってきている。で、ひきこもりが「すげえ」と思うのは、こうした生活から身を引きはがして「思考する」ということをするわけですよね。「ひきこもる」というのは何をしているかというと、むしろ我々が普段しなくなっていたことをしている点でムチャクチャすごい。だから「ひきこもる」というのは哲学者に近づくわけで、その点で素晴らしいと思います。

 

杉本 そういう風に言ってくれるとすごく嬉しいんですけど(笑)。実際は主体的に選んでひきこもった人はほぼいないと思うんですよ。

 

森 うん。

 

杉本 たいがいは何らかの理由でまず傷ついてしまって、撤退してひきこもるという経験で。かなりの場合、「自責の念」が強いと思うんです。ですからおっしゃってくれたようにひきこもって哲学するという風になっていく人は正直多くはなくて、忙しい毎日から取り残されてしまった自分がいると思っているので、どうやったらその社会に戻れるかと。僕もそうでした。だから「これじゃいけない」と。かつ、支援団体みたいなものもあって。社会はある年齢になったら学業に行かなければとか、学業が終わる年齢になったら、就労する準備をするためのクッションとして「人慣れする集まりに行きましょうねぇ」みたいな。結局就労するのがひとつのゴールだし、当事者もそう思ってる人が多かったりする。きっと不登校も同じですよね。本当に主体的にもう学校には行かない。自分で考える時間を作って学校という制度の中には戻らず自分で何かをするという風に考える人ももちろんいると思うけど。やっぱり多くはいずれ学校とかに戻りたい。それは学ぶツールとして必要だと言うより、みんながやってることをやらないと将来大変かもしれない。そういう理由ですよね。だからどちらにせよ現実というものにちょっと縛られている傾向はあるかもしれない。

 

 そういう意味ではひきこもってはいるんだけど、内面的にはおそらく本当の意味でひきこもれないというか。自分でものを考える時間を課されなくてもいい自分でありたいと思うから、それこそアナキズムについて考えてみようとか(笑)。そういう風にはならない。そういう感じがするんです。いま森さんが仰ってくれたような「いいじゃない。それ、すげえじゃん」という風な、一定程度社会にそういう層がいてくれればいいんだけどな、というのはすごく思うところですね。

 

 やっぱりさいなまれているジレンマの中で悶えている状態は本人もすごく苦しいでしょうし、ご家族とかまわりで支援されてるかたとかも「大変だ」と思ったりするかもしれないけれど、とはいえやっぱりその時間そのものは大きな目でみると実は貴重なんじゃないかな、って思いますね。

 

杉本 ええ。けっこう元気になった人なんかと話すと、やはりそういう話にはなるんですよね。

 

 実はウチの長男が毎日学校に行きたがらなくて(笑)、まあ行ったら行ったで帰ってくるとガキンチョ軍団引き連れて帰ってくるんですけど、行くまでがすごくイヤ~なんですよね。もう泣きながらぐずぐず。結局行かないでその辺に立ちすくんでいることがよくあって、それを車で連れて行くときもあれば、「遊びに行こうか」と行って遊びに連れて行くときもある。でもこれ普通に自分に照らし合わせてみると僕も職場に行くとき、すごく嫌なんですよね。お腹が痛くなる。

 

杉本 (苦笑)

 

 (笑)すごい「イヤだなあ~。もう~」と思ったり。でも授業それ自体は別に嫌いではないので、行ったら行ったで楽しいんですよね。だから行くまでの精神的な失調だったり調整している状態というのは、大人になっても別に変わんないのかなと(笑)。

 

杉本 ええ。そこで思うんですけど。結局、昔の人はどう思ってたんだろう?ということなんです。やっぱりヤダったんだろうなあと思うんですけど。

 

 いやあ。嫌だったでしょうね。

 

杉本 だから「嫌だ」ということが「嫌だ」と言っていいように解放されてるという側面はやっぱりありますよね。僕ら子どものときに「嫌だ」という権利はない、というかね(笑)。義務教育段階の話ですけど。私も時折はずる休みはしました。風邪ひいて2~3日休んだら次の日が何かこう、特殊な感じがして。行きたくねえなと思ってもう1日ズルけるというのはあったですけど、あの、「行かない」という選択は思いもよらなかったですね。昭和の50年代の初めには。1970年代中頃近くなので。そんな大昔ですから、やっぱりちょっと想定もつかなかったというのがあるんですけど。

 

森 なるほど。

 

杉本 いまの大人の人は「ああ、仕事行きたくねえな」って。もしかしたら子どもの前でも言ってるかもしれないですね。

 

 僕はすごい言ってますね。「ヤだなあ」とかね(笑)。それ真似してるとこもあると思います(苦笑)

 

杉本 ははは。「いいんだよね」とか、お子さんもね。

 

 

 

逃げられる場所があるということ

 

 僕自身の経験レベルなんですけど、小学校五年生のときにひきこもりじゃなく、むしろ家出をして2,3ヶ月家に帰らなかったんですよ。ずっと祖母の家に行ってたりしてて。

 

杉本 ああ、なるほど。

 

森 夏休みから家出して、夏休みのあと1,2ヶ月も学校に行かなかったんですね。で、祖母が新興宗教に入っていて、祖母のウチって、まわりにコミュニティがあるんですけど、そういう人たちがワアワア言いながら、何か守ってくれるみたいな。すごく優しかったんですよね。

 

杉本 元気でしょうしね。

 

 そう、元気(笑)。で、これ、いいなあ、と。別にその新興宗教に何のシンパシーもないんですけど、凄い何か「逃げれる環境がある」じゃないけど(笑)。祖母とウチの母親すごく仲悪かったんで、母親が絶対そこに迎えに来ることはなくて。

 

杉本 そうでしたか。

 

 「ああ、守られてる」みたいな感じがあったり。あと、こちらは半ばひきこもりなんですけど、高校3年生のときに友人が自殺したんです。そのあとはもう、学校うんぬんじゃなく世界がどうでもいい、すべてがどうでもいいみたいになってしまいました。学校そのものにはもちろん行かなかった時期があったのですが、でもその時期はその時期で精神的にも物理的にもそれを発散させるように外に出てたんですよね。もう家におってもダメだと。で、おったらおったで親が居て「お前、学校に行け」みたいに言って、「うるさいな」と思って外に出てた。そこであまり大きな声でいえないこともいっぱいして(笑)。でもその時のそこは社会的に是とされる環境ではないかもしれないけれど、コミュニティがあって、その中で生きていける環境ではあったんです。だからそういうものがまだ僕らのときにはあったけど、だんだん若い子たちに無くなってきてるのかな?という印象はあります。

 

 あと古い時代はどうだったかなというので、これは別に自分が調べたことじゃないですけど、『逝きし世の面影』という本に面白いことが書いてあります。渡辺京二さんというかたが書いた本です。元々河合塾の先生で、日本近世、近代の歴史を書かれている。その人は石牟礼道子さんをバックアップしているかたで熊本に住んでいらっしゃるんですけど、その本の中で、江戸時代の労働者というのはどんなものだったのかということが書かれています。もちろん労働者という近代的概念はないんですけど、働いている人たちはどういうものだったか。ちょうど黒船が来たりして、開国するしかない頃に海外から日本に来た人たちが、江戸時代の働いている人たちを見てると、「こいつらなんでこんなに怠けてるんだ?」みたいな感じに見えたと。キッチリこの時間からこの時間までしっかり労働するんだという意識が広がっていった時代でもあり、それは別に日本に限らず海外でもそうだった。もちろん海外でも職人と言われる人たちは近代的な労働観から見れば、ともすれば怠けてるようにみえる側面もあるけど、その中で自分たちの余裕を持ちながら自分たちの生産物の質を落とさずにやっていく構えでやっていた。で、よく観察すると江戸時代に働いていた人たちはどうやらそっちに近いみたいだぞという感じで海外から来た人たちには見えたようです。また渡辺さんがそれに加えて解説を書いていて、それこそ何の事業だったかちょっと忘れてしまいましたが、大工さんとかだったと思いますが、柱を立てたりするとき「エイヤ」と普通に立てて、サクサク仕事をすればいいものを、見聞録とか見ると、柱を立てながらみなで唄を唄ったり、踊ったりしながら。「ああ持ち上げようか、ああ持ち上げられない、ヤッハッハ」みたいな。で、また踊ろうかみたいな感じで(笑)。

 

杉本 ああ~。遊びが入る?

 

 遊びが入ってる。それも本当かどうかは分かんないですけど、思ったのはやっぱり「働き方」みたいなものがいまカッコ付きですけど、「理性」とか「効率」みたいなものをすごく押しつけてくる側面があるけど、そうじゃないというか。本当は長い目で見たら実はそういう余裕を持った仕方でやっていったほうがちゃんと土台を立てることができるということなんですね。むしろ目先の効率みたいなことを目指してパッパ、サクサクとやっちゃうために、実は基盤のほうがズブズブだったりとかになっちゃうのかなあという気がしますね。

 

 これは本当に研究者界隈などが特にそうで、理系なんかでも「産官学連携」で“いついつまでに業績を出せ”みたいなことを課されていく。それ自体は別にすべて悪いわけではないと思いますけど、やっぱり「科学の知」みたいなものって骨太であって欲しい所で、そもそもそういうものであったし、そこから派生していろいろ生まれてくるものがあったのに、専門分化してしまう。なおかつ目先の利益と目先の合理性みたいなものによってもの凄く先細ってしまう。結局「STAP細胞あります」とあせって言ってみちゃったり。もちろんSTAP細胞が存在すると嘘を言っちゃった彼女に悪い部分もあるだろうし、悪くない部分もあると思いますが。むしろそういう風に余裕がなくなっちゃっている所がある気がする。それをどうしろというのはなかなか難しいですけど、現状認識としてそう思っています。

 

 

 

働くということの意識

 

杉本 だから端的に言っちゃうと競争原理ですよね。僕は古い世代で、もう56歳ですから、競争原理がここまで働いているのがちょっと変だなと。自分が大学生だった時代を考えると、ちょっとここまで無かったなと言うのがありますね。ただ、合理性や計画性への疑いのなさは変わってないといいますか、生産性を根本的に大事と考える。そしてみんな働くんだと。いずれ学生は働くし、その分まだ遊んでていいよという猶予期間としてモラトリアムがある。僕らの頃ってバブル時代だったので、メチャクチャ大学も緩かったんですよ。三流私大だったというのもありますけど(笑)。文系で全然適当だ、というのもあったんですけど。モラトリアムが生きていた時代に育ったんですよね。ただそれはそれとして、学校が終わったら働く。働き始めたらもう必然的に働くんだというような感じで生産性第一義というのはむろん働かせる側もそうだし、働く人たちもたとえ組合活動なんかをやるような人たちもおそらくそうでしょう。

 

 私、育ちは昔の国鉄時代の鉄道機関区に近いところだったんです。ですからけっこう鉄道はストライキとか打ってたし、北海道は教員組合なんかが強くて、中学時代に1回だけ短時間ストライキもありました。「一時間目がない。やった、ラッキー」みたいな。時限ストですよね。それをやったこともあって。働く側もけっこう形式的かもしれないけどスト打ったりしたんですけど。でもそれってやはり究極的に「生産する側」の権利を要求するみたいな感じ。教員はイデオロギー闘争もありましたけれど。でも「給料あげろ」とか「役職管理するな」とかいうような話でもあって。基本的に生産するんだ、働くんだ、頑張っていっそう日本の国を豊かにするんだという思想はいまと変わらないと思うんです。それはおそらく社会党系シンパシーみたいな人たちも、あるいはもっとハードな共産党シンパシーみたいな人にもあったと思うんです。基本、「生産力大事」「働くの大事」で。規定時間の中で時限ストライキを打つぞ、カッコ付きの資本家を困らしてやろうみたいな。要求をのませるために1時間や2時間休むんだとか、路線バスとかもストライキがあったんです。まだ僕が大学に入る前くらいまでは。で、80年代に入ってからスッカリなくなりますけど。だからけっこう、左側も「働くんだ」ということに対して、「そういう形で働かんといかんの?」という発想はなかったな、という風に思うんです。で、大学に来たら不思議なくらい休むんですよ。休講をよく打つんですよね。

 

 かつてはそうでしたね。

 

杉本 非常にラッキーなんですけど。「どうすんの、この余った時間?」。唐突に休むなよ、前もって教えてくれよという。それくらい緩かったです。昔の大学の先生の自由。いま、ないでしょう?

 

 うん、ないですね。

 

杉本 ましてこういう言い方は大変申し訳ないですけど、森さんのような立場の非常勤講師はいわゆる高学歴ワーキングプアみたいな扱いじゃないですか。普通あり得ないというか。つまり働くことは前提で、働くことで労働者が集結して、こちら側の要求を少しでも呑ませて見せたいという側面が社会主義が瓦解していまはもう資本の論理しかないから、やりたい放題ですよね。だから、先ほどの神社の柱の話のように神聖なものを持ち込むとか、遊びを仕事の中に組み込むとかというのはもう現代じゃあり得ないというか、完全に排除される話ですよね。これはどう考えたらいいのかな?という。ちょっと質問が(苦笑)。質問というものになっていませんけど。

 

 いえいえいえ。全然。まあでも完全になくなってしまったかというとそういうわけでもない気がするというか。

 

杉本 そうですか。

 

 例えばグーグルとか。最近ではアナキスト界隈でも「グーグル、ファックだぜ」みたいな流れがあるんですけど。それは一応置いといて、例えばグーグルの中でも検索のトップ画面にその日付、その日ごとに遊び心のあるものを入れたりとか、そういった所もあったり。別にグーグルを誉めたい気持ちは無いですけど(笑)。まあ必ずしも全部が全部バリバリの合理性で担保されているというのでもないと思います。ただ、合理的に「やれ」というのがちょっと行き過ぎちゃっている所はあるかな。でも普通に会社に行って例えば会社の入り口から、5階にセクションがあるとして、エレベーターで行くか階段で行くか。まあ普通だとエレベーターで行ったら早いになるんですけど。階段で行ってるあいだに今日の会議どうやろうかなというのが突然思いついたりすることもあるじゃないですか。あるいは、ちょっと健康のために階段くらいは上ろうかねとか。だから必ずしも人間そういう側面は全部捨て去られることは無い気はしますね。

 

 あとはもう制度設計的な問題に関してはそうですね。ここは難しいところではあるんですけど、制度の中にいかに遊び的な要素を入れていくか、余白を入れていくかというのはすごく重要だと思っています。例えば大学とかでも「ファカルティ・デペロップメント」とかで大学教員内での教員と学生に対してもそうなんですけど、授業改善とかやらざるをえない。それも文科省が言ってるからやらざるを得ないというのもあるんですけど(苦笑)。でもある種旧態依然とした悪さみたいなものも確かにあるわけで、今の学生のニーズを考慮する。本当はニーズなんてバカみたいな言葉、使いたくないのですが。

 

杉本 ははは。

 

 (笑)でも学生なんかも時代とともに考えが変わるから。で、それで「教える」のも教員側が教える内容をそんなに曲げずに学生と一緒に構築できる環境を作ってあげるとか。そのときにある種の余白みたいなものは必要だという気がします。それをどう受け取っていくか。「ファカルティ・デペロップメント」で文科省の言ったとおりにやっていってしまうと、圧倒的に悪い方向へ変わっちゃう。

 

杉本 やっぱり変わってくる部分はあるんですか?

 

 あると思うんです。それは文科省の言うとおり全部報告書とかの書類をあげていたら自分の研究する時間がなくなってしまうから、手分けをしてやっていくとか、無視するとか。何かいま本当に大学がダメになりつつあって、ほとんどのところはやられまくってる訳ですが、ただ、やられまくっているなかでの後退戦と言われるかもしれないけれども、その中でもまだ抜けていく穴はいくらでもあるんじゃないかな、という気がしています。ただ僕自身は非常勤で、常勤で働いているわけではないので、制度的なものがまだ見えてないところが沢山あって、難しいんですけど、まだおそらくやりようや逃げようはあるんじゃないかという気もしてます。それこそ僕が東京から出て、福岡の田舎に住んで自分なりに生きやすい環境を見つけたように、その人に合う抜け方があるんじゃないかと。

 

杉本 なるほど。いろんな意味で環境と個人の工夫が必要というか。必要性に基づいて動いたほうが生きやすくなる可能性もあるでしょうか。

 

 もちろんそれは双方必要で、自分自身が変わっていく側面もすごく大事だし、一方でそれを制度的に作る側面も重要。であると同時に、そうじゃないひとりひとりの動き方というのも大事な気がしますね。

 

 アナキストなどは制度なんかぶっ壊せというのがある一方で、その制度そのものをちゃんと自発的に作っていく。それも個人の動きだったりするわけですよね。ですから、その辺の見極めかたって本当はとても細かい話の気がするんです。けっこう事細やかに見ていかなければならないし、そこを見誤ると自分ですら、「これだけ制度を作ってやったんだから」みたいな感じなりかねない。それはどんな人でもそうだと思うので、だから自分の中のアナキストと、自分の中の権威的なスターリニストみたいなもののある種の見極めというのは常にしていかなければならない気がします。

 

杉本 基本的にはそれが人間の普通でしょうか。片っぽだけという傾向はそうあるものでないかもしれませんね。

 

 

 

政治という「位相」との付き合いかた

 

杉本 あとやっぱりさっきの話に戻るみたいですけど、政治にちょっと絶望したんですよね。ここ2~3年。安倍政権になって(笑)。彼の政権になってからどうしてこんなに権威的になれるのかなあというのは非常に思ってまして。さっき言われたように権威的になってしまう自分と、「ああ~、しまった。パターナリズムになっている自分が出てる。嫌だな」と思う自分と両方ありますよね。なぜ、国家の中心に居る人たちというのは自分の弱さみたいなものを見せたらいけないと思うかな?というのがありまして。民主党の時って一回弱さを見せたような気がするんですね。政治家が。で、脆くもリーダーシップがないと言われて潰れてしまい、今度逆にリーダーシップアリアリだと思われてるけど、実はたいしてリーダーシップを発揮してるワケではない安倍首相みたいな人が何故支持されるのか?と言うことと同時に、その人の存在自体がなんであんなにガチガチに自分のマッチョな姿しか見せられないのかということはやっぱり思うところで。それはいまのアメリカの大統領もそうだし、お互いさまの話なのかなという。国民と政治家とお互いさまの話なのかなというのもあると同時に、枝野幸男さんが言うようにどうやったって多様なこの現代の日本社会で一方向にリーダーシップ、トップダウンでやれませんよというのは正論だと思うんですよね。この社会の多様性ばかりはいくら上から「ああだこうだ」と言っても戻りようがないという認識は正しいと思うんです。だけどメディア。マスメディアとかTVとか大きなメディアを通して見るとやっぱり強いリーダーシップが必要だとか、安倍さんのように弱みは絶対に見せない姿勢を崩さないというのがある。これは何でかな?という時代の中でやっぱりアナキズム思想が大きな権力機構の中で生きる人へどう切り結ぶのかという話になるんですけど。

 

 何でしょうね。アナキストと自称する人の「人にもよる」としか言えないですけど、これは僕自身の話で言うと、幾つか僕の中で考えている層があります。根本的には「反政治」みたいなところがあって、実は正直言うと国政に何の関心もないというのがあるんですよ。

 

杉本 なるほど。

 

 別にあってもいいと思うし。かといって無い人をいじめるのもすごくいやだなと思うんです(笑)。やっぱり我々が生きるということと、その国政うんぬん、国政の変なパワーゲームというのはあまり関係がないというか。もちろん制度的に何かをやられて、その末端部分で我々はすごい影響を受けることはあるでしょう。例えば一番悪い部分で言えば「戦争へ行け」ということであるだろうし、普通に税金払えとか、マイナンバーとか。そういうのがあったりしても、そこは自分のある一定範囲内まできたら払いのけるということを率先してやっていくということも国政に対する僕としての付き合いかた。

 

杉本 なるほど。

 

 と同時に、全く興味がないと言ったらそうでもなくって、ただ一応アナキズムがイデオロギーだとすれば、そうとらえたときに普通に投票したい政党とか人というのは全く居ないというか、共産党と自民党の違いすらもうよく分からない。天皇の前にひれ伏し、共産党が言ってた内部留保を出せみたいなことを自民党もとりあげるようになって、もはやただの鏡の「表と裏」ぐらいでしかなく、全部、保守や右翼にしか見えない。別に左派の政党なんか何ひとつない。

 

 ただまあ、そこで個人的には「ケッ」と思っている一方で、同時にすごい頑張って欲しいなという風に政治的なパワーゲームに対して思っているのはあるんですよね。ちゃんとみてないので分かんないですけど。枝野がどうしたとか。山本太郎がどうしたとか。何かその時に政治というものが国会や議会の中の政治に集約され過ぎちゃってる。ともすれば矮小化されすぎちゃってるんじゃないか。政治というのはそれだけではない。その意味では「反政治」であると同時に、非常に政治的というか。議会みたいな所で喋るだけじゃなくて、我々がデモに行くのだって政治だと思うし、火焔ビン投げるのだって政治だと思うし(笑)。圧力をかけていく。その圧のかけ方も火焔ビンもあれば、普通に交渉していく部分もあるだろう。それはすごく多様。デモもジグザグ・デモもあったりとか、スネーク・デモがあったりとか。いろんな種類があるわけですね。だからもっと多様な状態、いろんなやり方がある気はしている。もっとそこをちゃんと掘り起こしていきたい。それはちょっと賢いとされている研究者たちがやっていくべきことだし、知恵者が私たちに伝達していって欲しいところでもある。で、さっきのストライキのことで思い出したんですけど、大正時代はすごかったってオチにはしたいわけではなく、やっぱりすごかったなと思うのは、何だかんだ、いまの労働環境というのはもちろん昔のほうが悪いところがあるのだけど、いまのほうがもちろん悪いところがあったりする。実は変わった部分もあれば変わってない部分もある。大正時代で労働運動するという最大の目的は栗原さんの話ともつながるかもしれませんけど、本当に「労働の拒否」だったわけですね。ストライキをするという。で、それが年に数百件というのがボンボンボンボンあって。で、それが広がっていた時期というのはあった。要するに自分たちの「生」というものを考えたときに社会が自分たちより上にあると考えるのではなくて、僕らの生そのもののほうが重要だし、そっちのほうが上にあるという意識は大正時代の人たちのほうが強かったんじゃないかと思うんです。で、僕らはいまでも本来そういう意識はあるはずですが、そこが覆い被さられている。それこそシュティルナーみたいなアナキストが面白いことを言っていて。一見自由だと思っていることも実はまやかしで、どうかしたらそれは「与えられた自由」だと。一つは政治的自由で、もう一つは社会的自由。そして最後は人道主義的自由という三つの自由。

 

杉本 なるほど。人道主義的自由…。

 

 政治的自由は政治の現場から私たちに対して「ほら。自由をやるからお前たち遊べば?」みたいな感じ。でもそれは自分自身の自由ではなくて、与えられた自由。それと同じレトリックで社会的自由もマルクスや共産主義政権とかで打ち立てたとして、そこから自由をもらったとしても「社会からの自由」で僕らからの自由ではない。最後に人道主義的自由というのは「人間らしさ」とか、「ヒューマニティ」という概念を人間自身より上位に置いてしまうことによって、それで何か「人類」みたいな観念に縛られてしまう。そんなことしなくたって我々は常に人類だし(笑)むしろ私たちひとりひとりのほうが上にあるべき。要するに私たちより上に置くということを絶対してはならないと。で、そう考えたときにはじめて自由というのが現れるのじゃないかということを言っていて。そのあとの議論というのをもっと展開してくれると面白かったですけど。まあ、展開してないんですけど(笑)。シュティルナー自身は。

 

杉本 イデオロギーを拒否する、という感じでしょうかね?

 

 そうですね。あらゆるイデオロギーも拒否して、自分の上に何かが君臨するという状態を拒否するというのは、ひとつアナキストらしいという気はしますね。

 

杉本 その点はまたもう一回あとでお話伺えればと思うんですけど。仰ること、よくわかりました。で、実質けっこう新聞好きで政治欄から読んじゃうような人間としてはですね(笑)。そういう意味では与えられた自由をけっこうシリアスに受け止めるキャラクターかもしれないですけど(笑)。この現代にどうしてわかりやすい権威主義的な態度をとってしまう政治家がトップに君臨しているの?という気がするんですよね。ヨーロッパも右翼政党みたいなのが台頭してきているということもありますよね。日本も北朝鮮の問題が急に出てきちゃってますけど、それ以前から安倍さんという人は割とそういう権威主義的な人物として出てきてて、そこそこ政治的自由から考える人間として見ているとそこそこ一般大衆の人たちの支持もあるようだと。不思議だなあという感じがするんです。まあ、繰り返すようで申し訳ないんですけど権威的になっちゃう自分と、それが元々嫌だったよね。子どもの時代の僕はね、という自分と。大人ってやっぱり本来あるはずじゃないですか。子どもの自分と、大人として言わなくちゃいけない自分の葛藤って。それを見せたくないような要素が強くなっている世界。まあ日本かな。日本の政治、保守政治家がそうなってしまっている。

 

 代議制を考えると、我々民衆というか、民衆のレベルと政治的なレベルとは全く異なる。仮にそれを上位に置くとして、置いたときに「価値」が違うというか、存在論的に位相が違う。異なるわけですよね。それらが異なったときに上位に置かれたものに思いを備給して集約していくのは別に日本に限らず昔からずっとあったことだという気がしてます。それの繰り返し。例えばギリシャは最初は王がいたけれどいなくなり、今度は寡頭制になって、寡頭制から民主制になって、民主制から独裁制になっての繰り返し。そのあとにローマでもどうなったかというと、ローマもそう。じゃあその前のエジプトの人たちもどうだったかというと同じような歴史を辿っている感じがしていて。まあすごく長い目で考えれば(笑)、どの部分にいま位置してるのかは分からないですけど、独裁制とかが生まれるような時期になっているのかなという。長い目で見るとそういう気がするというか。まあ所詮というと語弊がありますけど、我々とはちょっと関係のない所にあって「政治の位相」というのは常にそういう風に動いている気がするんです。もちろん別の位相で我々が生きてるときにある種そことどううまく付き合うか、ということですよね。

 

 

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*シュティルナーマックス・シュティルナー(18061856)。ドイツの哲学者。青年ヘーゲル派の代表的な哲学者の一人とされる。マックス・シュティルナーという名前は、ペンネーム(筆名)であり、本名はヨハン・カスパー・シュミット(Johann Kaspar Schmidt)である。シュティルナーの名は、彼の身体的特徴である突起している「おでこ」(Stirn)を基に高校時代につけられたニックネームに由来する。なお日本語では「スチルネル」や「スティルネル」と表記されることもある。フィヒテとフォイエルバッハの哲学に影響され、極端なエゴイズムを軸とする哲学を展開。しかしながら、彼のエゴイズムは単なる浅薄な利己主義ではなく、個々の人間の人格の独自性と自律性を最大限に重んじる立場である。(ウィキペデアより)

 

*渡辺京二―(1930~ )は、熊本市在住の日本の思想史家・歴史家・評論家。満州大連を引き上げたのち、第五高等学校を経て、法政大学社会学部卒業。書評紙「日本読書新聞」編集者、河合塾福岡校講師を経て、河合文化教育研究所主任研究員。2010年、熊本大学大学院社会文化科学研究科客員教授に就任。(ウィキペディアより)

 

*「ファカルティ・デペロップメント」―一般には教員に授業の内容は方法を改善させるための組織的対策をいう。2008年度から大学教育で義務化された。授業・講義の公開とそれによる授業内容の改善や、学生の意見も取り入れた組織的な新しい実効性のある授業・研修法の開発など。大学同士の横の連携を図る多数校の協議会も出来ている。日本では大学審議会の答申で大学改革の一環として、授業計画の作成、カリキュラム・ガイダンスの充実などともに提言された。