アナキズムの実践はさまざま
杉本 で、折角ですよね。19世紀のアナキスト偉人の話がいまのところでてきていないんですけど(笑)。
森 ああ~。すみません、申し訳ない(笑)。
杉本 いえいえ(笑)。そういうわけではないんです。でも、この本の「はじめに」に対する「終わりに」がけっこう長いところで、いま語ってくださっていることはこの部分と絡んで結構大きいような気がします。
森 そうですね。比重はいまたぶんそっちに行ってるというのがあるんでしょうけどね。
杉本 でも読んでみると面白いですよね、バクーニンにしてもクロポトキンにしても。時代は多少違うけど、言ってることの本質はなかなか鋭くて、バクーニンなんかはびっくりしますけどね。鋭すぎて。
森 ははは。
杉本 *『神と国家』とか読んだら。すごい現代にも通用するなと。
森 そうですね。
杉本 僕のカウンセラーもなかなか社会政治的な関心が強い人で。要するにアナキズムはいいけど、どうやって集団を組織化するの?それがないよね、みたいなこと、やっぱり言うわけですよ。まあ僕はそういうことではないんだろうなとは思っているので特に反発もしませんけど。実際ふつうはそう思われるところがあるんだろうなとは思うんです。組織化されるということ自体を拒否するということが基本的にあるでしょうから。ただ、人がたくさんいる中でまあ労働もしなくちゃいけないことの中で、どう個々人が自律的に生きて、生産してやっていけるか。対応する現実社会にまだ来てないから、「アイデアないよね」と言われる。そういう社会の実験がされてなくて、実例がないから、どうするの?という疑問はね。出てきちゃうのもまたあらざるを得ないとは思うんですね。
森 アナキストとか、アナキズムといっても実は一口に言えなくて、いろんなグラデーションがあって、集団化、組織化みたいなことをやっていくアナキストたちだって沢山いるわけです。
杉本 ああ、そうなんですか。
森 例えば「アナルコ・サンディカリスト」とか。
杉本 ああ、そうでしたね。
森 アナキストたちのある種の集団、それが結構有名なこの本にも書いた(スイスの)*「ジュラ連合」の人たちなのですが、みんな職人なんです。時計職人だったり、印刷工だったり地域と職人の、地域コミューンと職能があるコミューンで、組合なんですね。で、そこでは組織化もすごくしっかりしていた。まあだんだん「形骸化」じゃないけれども、ちょっと時代が変わったのもあって、かつてのような仕方ではないですけども、でもそれも現実としてあったし、あとはそれこそ*スペイン内戦期ですね。その流れの中でのサンディカリストたちの動きというのは必ずしも全員がアナキストというわけではないですけれども、ある種アナキスト的な仕方での組合の動かしかたというものをしていた事実があります。
もちろんその一方でシュティルナーみたいな人はまさに「単独者」ですから(笑)。シュティルナーも『唯一者とその所有』の最後のほうで社会みたいなものを考えるとっかかりというか、少ししか言ってないんですけど、社会をどう考えるのか?と言った時に、ニヒルな単独者がいっぱい居てその自由なつながりが社会なんだ、みたいなありかたをチョロっと言ったりもしている。だからいろいろ層があると思います。それはもう本当に自分が学べるところを持ってくるというか。レーニンだって、レーニンは文字通り*二段階革命やっていく中で、若干彼の中でもどこかしらアナキスト的な心情がなかったわけでもないと言われることがあって、本当のところは分かりませんけども。
僕も好き勝手やってるようにみえるかもしれないけれども、ここの地域に住むからにはいろんなつながりがあって、嫌な奴もいればいい奴もいて、いま子ども部屋になっている部屋、借りる時に、底が抜けていたもんで、まわりの元大工の友人とかが助けてくれたり、この壁の漆喰とか全部塗ったんですよ。こういうことも僕はやったことがなかったですけど、周りの知り合いで塗ったことがある人が「こうやるんだよ」と教えてくれて一緒に塗ってくれたりとか。ある種共同性みたいなものがあるというか。もちろんその時の倫理みたいなものとして、これはマルクスから言われてることで、また、マルクス以前から言われてたことですけども、「各自の能力に応じて働いて、各自の能力、あるいは各自の要求に応じて受け取る」というのは、社会主義的なものの土台以前にあるコミュニズムや、アナキズムの底流にあるものと思います。
例えば、工場を共同所有するとする。国家のものにするにせよ、地域のものにするにせよ、みんなで出し合って所有するにせよですね、そこではそこの印刷機の使いかたに長けている人がやったほうがいいですよね。その意味ではその印刷機の使い方というのは慣れた人のある種所有物として見なされるかもしれないけれど、それは出来るやつが率先してやったほうがいいわけだし、その一方でその人だけに特化しちゃうと例えばその人が休んじゃう日とか、死んじゃった場合とかに出来なくなるというのがあるので、それは操作を教えあったりとか、使いあったりとか。それは適宜にやれること。実はそんなことって普段我々は常にやってることですよね。会社から言われなくても。なので、そういった所をもっと見直したほうがいいんじゃないの?っていう思いがありますね。そこはアナキストたちから改めて学んだと言う気がします。特にバクーニン以降ですね。クロポトキンとか、ルクリュとか、マフノとかはそういったことにすごい長けてやっていたし、まあバクーニンもそういった所がなかったわけではない人だけれども。如何せん、彼はある意味突出しすぎていた所みたいなのがあって。まあプルードン、バクーニンに関しては厳密にはアナキストではないので。
杉本 あ、バクーニンってアナキストではない?
アナキズムという言葉は徐々に広まった
森 文字通りに言うとアナキストという号が使われるようになったのはバクーニンが死んだ後なんです。時代的にはアナキズムないしはアナキストとか言われたりはしてましたけど。「アナキズム」という号そのものに関してはそれこそクロポトキンとかがよく執筆活動をしている頃にすごく使われるようになった。元々はフライハイトだったかな?イギリスの新聞の「フリーダム」とかですごく語られるようになった言葉なんですね。それがちょっとずつ広まっていって、その後例えばドイツやスイスでフライハイトとか、*ヨハン・モストなんかがアナキズムという言葉を使った。だから徐々に広まっていって、プルードンとかバクーニンの時代にはそういう言葉はなかったんですよね。ただその萌芽みたいなものは見出すことはできるんじゃないかということで、入れていったというのはあります。まあ普通に教科書的にはここははずせないでしょう、というところで(笑)。
杉本 そうですね。教科書的というか、僕、持ってきた古本、かなり昔ずいぶん安く手に入れたんですけど(『世界の名著:「アナキズム」』)やっぱりプルードン、バクーニン、クロポトキンの3人ですもんね。それこそルクリュさんとか、マフノさんて知りませんでした。アナキズムをそんな真剣に考えた人間ではないので。
森 ヨーロッパ、特にフランス語圏だとルクリュとかはムチャクチャ有名で、アナキズムと言ったときにルクリュとかがやっぱり入り口になるんです。依然、エリゼ・ルクリュ。
杉本 格好いい名前ですよね。エリゼ・ルクリュ。
森 格好いい(笑)。で、マフノはやっぱり実際に戦争とかバトルしたという意味でのある種先駆者でもあるので。
杉本 近代ゲリラの初っ端みたいな人ですかね。
森 そうですね。
杉本 何か栗原さんの書いた文章を読むとベトナム戦争の頃の農村ゲリラみたいなものとか、想像したんですけど。やっぱりこの人から始まってるんですかね?
森 いや。元々こういう戦い方そのものはずっとあったと思うんですね。ただ近代革命前後くらいから次第に軍隊のある種官僚システムみたいなのが出来上がっていく訳ですけど、それとは別様の仕方で戦うやりかたというのはずっと昔からあったと思うので、そっちに依拠してやってたのではないかという気がします。それに彼らの場合は本当に武装してたから時に近代戦みたいなことをやっても勝てた時があったし、それで実際に蹴散らしていった部分もあれば、逆にそれで負けた側面もある。だから今だと核とか持ってるわけではないのでほぼ無理なんですけど、ただ一方でさっき言ったようなテクノロジーを使いこなすとかは、戦い方という意味では新しい戦い方だと思いますね。
杉本 なるほどね。アナキストとして戦うという方法論のひとつとして、はじめにマフノみたいな人がいたということですね?この人の考えている哲学みたいなものというのはあるんですか?自分で書いたりしたものは?
森 書いてます。書いてますけど、ちょっとした文章と、まわりの人が書いている文章はあるのですが、そんなに多くはないんですよね。ですから、ちょっと評伝的な形を取らざるを得なかったりするんです。ただ彼のやってた実践はアナキズムの思想と言うよりむしろ実践そのもので、もちろん軍隊だけが突出してたわけじゃなくて、軍隊がそれを守った部分ももちろんあるんですけど、その一方でソビエト(評議会)という概念がそのうちにソビエト連邦とかに取られちゃうものですけど、アナキストたちが発案していってやっていったもので。
杉本 ああ~。元々はそうなんだ。
森 そうですね。そうした中で軍部とかがあったりとか、教育のセクションがあったり、農業のセクションがあったりとか、いろいろと話し合って直接民主主義的な仕方でやっていった。その時にさっき言った各人のまあ「能力に応じて」というので、マフノは軍部だと。軍事能力に長けていたのでやってたという感じですよね。
森 そうかもしれません。それこそウクライナでの大河ドラマでの主題にもなってる。
杉本 やっぱりねえ、なるほど。国民的なヒーローなんですね。
森 要するに日本では誰ですか。坂本龍馬とか勝海舟とか。西郷どんかわかんないですけど。まあ、そういう風に考えられてますよね。だからレーニンなんかもある種そういった側面がやっぱあって。
杉本 ソビエトで。というか、ロシアですか。
森 何かそういう風に見られやすいのかもしれませんね。
杉本 まあ、いわゆるヒーロー的な存在ということですよね。それに対してクロポトキンは書斎派というか、理論構築の人。でもこの人の文章は本当に綺麗な。
森 ああ、すごい綺麗です。
杉本 倫理的で、すごい優しいというか。文章が易しいってんではなくて、考え方の優しさですよね。確かに日本でアナキズムって、僕なんか栗原さんにも話したんですけど、ピストルズでアナーキーという言葉を知っただけですから(笑)。16の時に。あの~、やっぱり「破壊だ!」という。「デストロイ~!」という最後の雄叫びみたいなイメージが圧倒的に強かったですから、激しく攻撃的なものというイメージが相当強かったんですけど、やっぱり日本の最初の受容のされ方ってクロポトキンなんですね。だから「有島武郎が、え?」みたいな。*白樺派、クロポトキンに会って「え?」みたいな感じがあったんですけど。かなり広く向こうの人もそうですけど、いわゆるヒューマニストの人たちってクロポトキンを評価してますよね?
森 そう。それこそドストエフスキーなんかもクロポトキン好きだったし。
杉本 あ!そうなんですか。
森 まあね。白樺派はクロポトキンの影響もあるけれども、もちろんドストエフスキーからの影響もあったり。まあ彼の場合徹底して非暴力を訴えていて、その点でのある種の人気みたいなものがあったと思いますね。もちろんクロポトキンもすごく重要なんだけれども、それだけではないし。マフノみたいな人もいたしというわけで、この本では何か可能性をちゃんと広げてあげたかったというのがありました。
杉本 はい。ルクリュも。
バクーニンとプルードン
森 そうですね。ルクリュは両方やった人。で、その萌芽としてのバクーニンと*プルードンがいて。で、プルードンは本当に何というのかな。もっと前の時代の人ではあるけれども、彼に関しては……。
杉本 僕はプルードンはフランス革命時代の経済的な変革者のイメージが強いのかなと思いました。だから難しくてですね。状況が分からないと相当読みにくいというか。バクーニンとかだったら国家批判と「キリスト教批判」とか、「宗教批判」とか。何か「国家と宗教」の絡み合いみたいなものがあって権威と権力はそれが源泉だ、みたいな。徹底的に叩くじゃないですか。情熱的に。だからそういう意味じゃ観念的に理解しやすいというか。分かりやすいのですが、プルードンさんは労働はどうあるべきかみたいな話が出てくるので、しかもそれを革命期にやっていて、政治革命では意味がないみたいなことを仰っているようじゃないですか。まず変革は経済でしょ?みたいな。そこらへんはやっぱりその時代状況……。
森 う~ん。あるし、バクーニンに関しては地に足がついてないので(笑)。
杉本 ははは(笑)。
森 (笑)その意味では観念的すぎるから逆にクリアな文章が書けて、また体系的な文章も実はないんですけど、その一方で散文というか、エッセイとか評論はまあクリアでわかりやすいですけど。
杉本 アジテーション的な?
森 そうですね。だから長めのビラを書いてたようなもので(笑)。その面白さもあるし、まあプルードンはもう少し自分の生まれの貧困みたいなものが最初の動機ですね。小さい頃ブザンソンという地域で育って、自分自身もお金がない中で「あいつは勉強ができるから」ってお金をもらったりして、教会でラテン語覚えて少し賢くなって自分で論文出したらアカデミーの懸賞論文でお金をもらってパリに行けるぜ、みたいな感じでパリに行ったら行ったで今度は根が元々職人ですから、職人の友だちとかいっぱい増えてそこでまた仕事してるとか。その職人とのやりとりの中で彼なりの生活のリアリティに基盤を置きながら革命を起こしていこうと思ったときに、上がすげ変わっただけじゃ意味がないでしょうと。その際に、ひとりひとりが変わっていくこと。社会のレベルで変わっていくこと。経済のレベルで変わっていくこと。それが重要だろうという風に言ったりするわけです。そのつながりの中で「プロプリエテ(Propriété)」ですね。「所有」という概念と、「ポセッション(possession)」。まあ、保有というか。区分けなどをしながらどれが良くてどれが悪くてみたいな議論を展開していき、「保有」という観点にこそ可能性があって、それは我々の自然権とともにあるものなんだと。それにとは異なるのが「プロプリエテ(Propriété)=所有」。
杉本 相続ですね。
森 相続になってしまって。自然権というのは一世代のもの。一人一人に、一つ一つにあるもの。だけどそれがある種永続してしまうので、そこで不平等が生じてしまう可能性がある。もちろんそれは我々が親の遺産をもらうレベルとかじゃなく、前提として貴族とかが敵なので。そういった不平等をなくしていくためにも、切り分けをしながら理論構築をして、それによって人も集まってくる中で、ひとつ面白いことを言ってるよねというので、思想家ですよね。経済学に関してももちろん沢山難しいところがあるんですけれども、おそらく彼自身晩年、途中マルクスに揚げ足だけ取られちゃってやられてしまった所もあったりしたけれども、彼は最後の最後まで経済学をもう1回作りたい欲望とか要求があって、おそらくそのままアナキストの経済学を打ち立てられたらまたちょっと面白いことになっていたかなという気がしますね。バクーニンはさっき言ったようにあまり地に足が着いてないというか(笑)。革命だ、やったあ!みたいな。まあそれもいいところなんですけども、瞬間的にいろんな才能を発揮するんですけど、長い目では何も出来ないみたいな(笑)。
杉本 ははははは(笑)。
森 まあ、天然なんですよ。それはもう、人によっていろんな役割があっていいと思うんですけど。彼は人物として面白いという感じですね。で、もちろん「不可視の独裁」という言葉とか。そういう側面で組織化みたいなものをもくろんでいたんだろうけども、それはどういったものなのかは未だにちょっと分からない所もあるし、途中でフリーメーソンとかの協会に入ったりとか。
杉本 そういえばドイツもすごい嫌いだったとか。
森 ドイツも嫌い。けっこう平気でヘイトスピーチ言っちゃう奴なんです。
杉本 (笑)。
森 もちろんスラブ人で。
杉本 そういえば、もともとは民族主義者なんですもんね。
森 民族主義者なんです。なのでドイツがいろいろやってくるから、スラブ人の貧困があるんだ、みたいな。ある種そういった所に定位して語るのは時代の潮流でもあるので。
杉本 この人はなんでこんなにも。僕的にはどうしてもピストルズ的なね。「アンチ・クライスト」のあとに、接続詞的には「アナーキスト」というこの2連がすごいハマるなという感じなんですけど。あの~。西洋人にとってキリスト教ってものすごく大きなものじゃないですか?この人のキリスト教批判ってすごいパワーなんですけど、何でこんなに出来たんでしょうね?
森 これはもう時代の流れみたいなものもあったと思います。だんだんと知も分化して行ったし、ニーチェはすごいわかりますね。「神は死んだ」と言って、要するに人間より上位にある者、神であったものがなくなってしまって、信仰も形骸化してしまいニヒリズムが到来する、みたいな。この時ニヒリズムの捉え方が二通りあって、能動的ニヒリズムと受動的ニヒリズム。
杉本 そうか。
森 で、受動的ニヒリズムはただダラダラしちゃってダメなんだけど、能動的ニヒリズムに陥るということはいまの既成の概念とかは全部幻想だと。すべてはダメなんだと自分で認識することによって、じゃあ自分で新たに価値を転倒させていこう、超人になろうと。
杉本 アナキズムのほうにだんだん寄っていきますね。
森 近いですね。まあアナキズム的に読み解くこともできる人だと思います。その一方で何か「超人」みたいな話で、ファシストたちが好んで読むような側面もあった。
杉本 そうですねえ。ヒットラーとか。
森 それはニーチェがその後の歴史を見ていたらどういう反応していたかもちろん分からないですけれども。そういった側面もある。それはやっぱり時代の潮流かなと。シュティルナーなんかもそうだし、マルクスなんかもそうだし、19世紀という時代の潮流だったんじゃないかなという気がしますね。マルクスなんかは*フォイエルバッハを批判する際に「神学とは人間学である」というテーゼを批判するわけです。要するに神様について語っていることは人間の映し鏡なんだから神様について論じていることを見るのは人間の生きるさま見ることなんじゃないか、ってフォイエルバッハが言ったことに対し、マルクスはバカじゃねえの?神様なんか見たって別に関係ないじゃんと。もっと人間のリアリティを追求しなくちゃならないでしょ、と言って経済的な側面とかを見ましょうねと。そういう風に展開していった。
*『神と国家』―バクーニンの著書。1882年。
*「ジュラ連合」―バクーニンによって、1868年には、急進派と労働者組織の連合であり、ヨーロッパ各地に支部を持つ国際組織第一インターナショナルに加入。のち、自身の支持者とともにジュラ連合を形成した。
*スペイン内戦―1936年7月スペインの人民戦線(共和国)政府とフランコ将軍派との間に起こった内戦。人民戦線は国際義勇兵やソビエトロシアの援助を受けて抗戦したが、ドイツ・イタリア両国が後者を支援して、39年3月に後者が勝利し、フランコ独裁政権が誕生する。
*二段階革命―社会主義を実現するのに、第一段階として封建制を打破し、第二段階として資本主義を打倒するとした革命の方式。(広辞苑より)
*ヨハン・モストー(1846~1906 )。1871年、25歳でドイツ社会民主労働者党に入党、熱心な宣伝・煽動の活動家として活動。72年に激しい反戦デモンストレーションを組織して逮捕され、獄中で、『資本論』第一巻を抜粋しながら平易化した『資本と労働―カール・マルクス著『資本論』のわかるダイジェスト』をつくった。英国で雑誌『フリーダム』編集。
*「吉里吉里人」―井上ひさしの長編小説。東北地方の一寒村が日本政府に愛想を尽かし、突如「吉里吉里国」を名乗り独立を宣言する。当然日本政府は反発、これを阻止すべく策を講じるが吉里吉里側は食料やエネルギーの自給自足で足元を固め、高度な医学(当時日本で認められていなかった脳死による臓器移植を含む)や独自の金本位制、タックス・ヘイヴンといった切り札を世界各国にアピールすることで存続をはかる。その攻防を含む1日半の出来事を、全28章にわたって描写している。(ウィキペディアより)
*白樺派―雑誌「白樺」に依拠して、キリスト教、トルストイ主義、メーテルランク、ホイットマン、ブレイクなどの影響を受けつつ、人道主義、理想主義、自我・生命の肯定などを旗印に掲げた文学者、芸術家たち。1910年に創刊され、23年、関東大震災で幕を閉じた。創刊に携わった者の多くは、武者小路実篤、志賀直哉、里見弴、柳宗悦、有島武郎、有島生馬など学習院出身者である。
*プルードンー(1809~1865)。フランスの社会哲学者,社会改革論者。詳細は『アナキズム入門』第一章を参照のこと。
*フォイエルバッハー(1804~1872)。ドイツの哲学者。ヘーゲル学派の左派の一人。ヘーゲル批判から唯物論の立場に立ち、自らの哲学を「人間学」と呼んだ。宗教批判の書『キリスト教の本質」は、青年期のマルクス・エンゲルスらに大きな影響を与えた。
玉石混合で面白い19世紀