ひきこもりの人たちの今後
杉本:さて、少しひきこもりの人に話を持っていきたいんですけど。近藤さんには少し重たい話題なんですけど、ひきこもりの人の高齢化問題なんですよね。どういう風に思ったりしています?
近藤:いまは単発の在宅ワークなどがすごい増えているから。そういう意味では物欲を満たす必要があると思うなら、ある種、新しい仕事を作らなくてもすでにある。目を向けたらすでにあるな、と思います。
杉本:なるほど。自分のプライドをとりあえず捨てたらね。
近藤:はい。でも一方で「生活を組み立てる」という問題については今後は増え続けると。その課題の射程範囲は絶対、増え続けると。それは定年までに老後の蓄えをもてずに労働年齢が終った人たちはぞくぞく出るし、その当時ひきこもりで過ごしてきた人だけの問題じゃなくて、「我々どうしよう」という人たちは、その人たちもまた「何とか働けないか」とは思うかもしれないけれども、その加齢による体力の問題とかで自力で組み立てるのが難しくて、どうしようか?というのは本当に爆発的に増えると思うので。その母数がどんどん増えて言った時にどうなるの?というのは本当にひきこもりの所も答えが出せないし、ほかも答えだせないし、それぞれ興味深いというか(苦笑)。どうなるんですかね?
杉本:いや、そうなんですよね。だから低収入の人とか一時期起きた派遣村の騒動とかも含めて、ひきこもりの人というのはまあ、かつては親に守られて出来る人たちが高齢化を迎えるという問題で。45歳以上くらいから僕くらいの年代のひきこもりの人たちって言うのはそういう課題でしたね。でももう同時代にはすでに親の経済力も当てにできない人も増えていて、本当にね。これから「どうするの?」という、そういうかた。定職につけなかったかた。別にひきこもりをしてこなかった人も定職にはつけなかった母数の多い人たちがどうやって生活していくんですか?という社会問題として考えていかざるを得ないんだろうなと。いまは全く見えないようにしちゃってるけど、そういう風に思わざるを得ないです。近藤さんのところって、若い人から上の世代の人まで幅広く来られるわけじゃないですか?
近藤:そうですね。
杉本:中年世代とかになったら、やっぱり就労の話とかも話題はでますか?
近藤:確実に生活保護だなあと割り切っているかたと、そこにちょっと入れるのかとか、受給するまで大変だという話も聞くし、本当に実際は入れるのかわからないですし。また、親がなくなったあとに何というんだろう?「火事場の馬鹿力」で(笑)背に腹は変えられないという感じでもう、それは「大変だ」という意識もなく、無我夢中で気がついたら就労にアクセスしていたという人もけっこう多くあるな、という感じですね。
杉本:現にもうすでにそうなっている人とかいるんですか?
近藤:いますね。います。
杉本;へえ~。
近藤:で、その最中に親に亡くなられて。今まではひとり悩んでいて「どうしよう」と思っていたけれど、それが「どうしよう」じゃなくて、何というか無我夢中。どうしようと考えている暇もなかったと。何かないかと思ったら、「あった!これこれ」と。もう思考の入る余地もない状態で動いて、で、まあとりあえず何とか定着しました(笑)というかたも何人かいらっしゃいます。で、火事場の馬鹿力もまあまあ、あり得るし。でも、全員は絶対にあり得ないと思うんですね。それはありえない。で、やっぱり親の年金と、あとはまあ、本人の障害者年金でやり繰りしているかたもいます。
杉本:火事場の馬鹿力で何とか社会定着した人はいまでも何とか頑張って?
近藤:ええ。頑張っていらっしゃいますね。
杉本:自助会のほうもたまに?
近藤:はい。
杉本:疲弊しきっているという感じはないですか?変わらずの感じですか。「やってみたらやれたよ」みたいな?
近藤:う~ん。そうですね。たぶんいつのタイミングで会うかによって違うと思うんですけど。疲弊しているタイミングで会ったり、何か現在はやれてるというタイミングであったりするので。でまあ、「いやあ超シンドクってもう」という。それを人に漏らさずにはいられないので来ました、というかたもあります。
杉本:う~ん。なるほど。
近藤:逆に、「ああ、ちょっと慣れてきてます」というのもあるし。
杉本:じゃあ、近況報告的に来る人もあれば、疲れて休んで愚痴を言いたくて来たという人も?やっぱり「こころのふるさと」みたいな形で来るんですね。
近藤:そうですね。何かでも、何か疲弊しているときも何と言うんだろうな?「俺はもう辞めたい」というのは本心であるのか本心でないのか。その両方があるんだろうなというのがあって。で、それがどっかでこう、もう実際にやらざるを得なくて強制されてるような環境で頑張っているのだけど、でもどっかで、「いや。これは俺が選択してるんだ」というその気持ちになるだけで少しその実際の違いみたいな。何かこう、話しながらも話しているうちにまた自分に納得して、「次回までに伝えに来ますね」みたいなこともあって。そうやって何とか。何というんでしょうかね?「やれる人、やれない人」というのはその同一人物の些細な差、みたいなことはすごく感じますね。
杉本:いやあ、ねえ。でもその選択って一度でも思うことがあってももちろんその後も波があってね。そうはいってもやっぱり辞めたくなるという波はやっぱりあると思うんですけどね。でも何でしょうね?自分の選択で始めたということ。そう思えることってすごく大きなポイントかな~っていま聴いて思いましたね。あの、自分のことで何か手前味噌ぽいですけど、やっぱり本を出したことでこう、広がったような気がするというか。やっぱりこれ、自分でやったことだから責任取りたい、みたいな。自分としては「出さないか」と提案されて、「ああ、やりたいと思います」と言った経験は自分にとってはひとつプラス材料だったかなあ?と思うんです
近藤:うん。
杉本:まあこうやってこういう場に呼んでくれるところまできた、というのは自分にとっては想定外のことだったんです。ただね。とは言っても不安はありますよ。一連のこういう流れがフェイドアウトしたあとに呆然として立ち尽くすかもしれないし。ただいちおうぼくらのところでよく聞くのは「未来不安」なんですよね。「未来」といったって、そんな長い未来ないんだけれども、もう親が死んだとか、もう自分年取って働くこともできなくって、という。それは考えても展望がね、20歳の展望とは違うもんね。中高年の展望なんてそんなにないですよ。はっきり言って選択肢は。それよりはやっぱりもうねえ。中年期まで悩んできて、なお一層未来について日々悩むなんてあんまり楽しくないでしょう?人生がね。だったら真面目に考えるもよし、笑って暮らすもよしで。とりあえずその日その日をまあまあ充実できればよしとしようじゃないかという風にね。今日のいまの僕は思ってるところなんですけど。で、それを1日1日伸ばしていけば、何か「瓢箪から駒」みたいなものがあるのかなあと思って。淡い幻想を抱きつつ、という感じがあるんですけどね(笑)。正直一般論的な答えはないことも事実かもしれないですよね。
生きるということを考えたら働かざるを得ないとなっちゃう人も多いだろうし。本当、わかんないですよね。こればっかりはね。
近藤:でも、どうなんですかね。あの~、働くところへのアクセスは難しくって、生活の不安と課題を抱えるという入り口はやはりひきこもりの外からもたくさん出てきている。で、労働の所での何というんだろう?雇用している側がどれくらいこのことに関心を払うのか?というのは僕も疑い深い。果たして彼らはそんなことを考えるだろうか。もちろん彼らはいちおう自分たちの被雇用者たちを守っていく責任くらいは感じるかもしれないけれど。でもその、根本的な大きなところのことについては関心を向けないだろうと。
杉本:少なくとも派遣とか、パートとか「取替え可能な人たち」のことまでは考えないでしょうね。
近藤:考えない。絶対考えないし。う~ん。それはやっぱり母数が増えたのなら、その増えてる人間同士で考え合って、その共同体と生活を作っていくしかないのかな、と。
杉本:うん。だから生活の仕方も考えなくちゃいけないという。
近藤:ええ。
余剰の流通のしくみを考えるべき時代
杉本:という所、なんでしょうね。いままでは企業福祉でやってきた日本社会ですけど、社会政策では日本は変わりますかね?それとも近藤さんのいまの考えを総合すると、この非正規労働者40%の時代にはいままでの親の世代が得た収入を未来に見込むのは難しいと。それであったら、同じ志を持っているアソシエーションみたいなものになるのかなあ?そういう意味での共同体作りみたいなものに期待をかけるほうがいい、みたいな感じですかね。
近藤:そうですね。う~ん。でも何か。いま日本を母国としない人に日本語で日本語を教えるボランティア養成講座に行ってるんですけど、それはやっぱりこの日本に住んでいて、日本語が話せないことによって、さまざまな疎外感を感じたり、ちょっと苦労するということに対する困りごとにアクセスしようという活動なんですね。で、それも毎回自分のボランティア養成講座に出たときに、ほかの人はみんな定年後のおじいちゃんおばあちゃんで、若い世代は二十何人中三人だけ定年前の人がいる(笑)。あとはみんなおじいちゃんか専業主婦みたいな人なんですよね。で、そのあとのサービスの提供もたぶん仕事と労働の枠組みの外で行われると思うんですけど、結局サービスにアクセスする手段もそいうものが増えたときに貨幣がなくてもサービスにアクセスできることになる。
物の余剰も随分あるんですよね。自分のもの、すでに作られたコップというのがこんなに使いきれてないじゃないか、って。それくらいコップが溜まっていて。物の余剰が溜まっている。で、物の余剰が溜まっている中で新しく生産して走り続けないと労働自体がつながらないんだけども、何か「そんなにいるのか?」って(笑)。ゴミも増えるし。そうすると物の流通も、余剰に関してどうやってお金とは別の形で流すのかという。そういう提言の仕方もあるんじゃないか。
杉本:物のボランティアかな?
近藤:そうですね。いろんなその、ある意味「持たざるもの」があたり前に利用できる枠組みを増やして行って、その中で困惑組の働きかたについては、どっちかというと義務から解放された「暇な空いた手」を活用する程度で。何というんだろう?割と軽減の仕方をそういう風に積極的にやるというのは国が一生懸命それを推奨しましょうというのは何だかアレですよね。
杉本:無理ですよね(笑)。逆ですね。持続可能性の話になりますから。
近藤:そうですね。と、言い出すと何だろう?感じとしては福祉にかける経費を抑えてコスト削減の話になってきちゃうんだけれども、何かケチって「ただ働き」させてという話の中でされるんだろうなあという風に思うけれども。でもやっぱりそういう軽減の仕方と、利用の仕方と、すごく大事だな、と思いますね。
杉本:うん、なるほどなるほど。いや本当ね。そうですね。物を作る、まあ物づくりはいま主流じゃないですけど。サービス産業中心になってますけど、それもまた「賃金」を得るためのサービスなんでね。だから過剰に心遣い、気配りのサービスになっちゃって。あの~「感情労働」での差異化を目指すみたいな形になって。いずれにしても資本主義の上昇モデルというか、成長モデルみたいな。「生き残りモデル」しかないんで。いや~、その枠組みがね。本当に変わるのかどうかというのはまだ見えてこないんですけど。
近藤:僕、でもけっこう、公共交通機関無料政策をすればけっこう変わるのかな、って何となく思ってるんですよね。僕が一番ボランティアの課題は何だろうなと思ったとき、交通費だけでけっこうかかるんですよね。持続をすごく妨げるんですよ。来たいなと思っても出費が出る。ひきこもりの人も基本、移動して出てくるだけでお金がマイナスで減るし、続けたいなと思っても、「ああ、毎回350円。ここの往復で700円」って。で、余剰の余った人間が何でこの活動をしぶるのかというと、その動いた分、補填しないと出費になっちゃうから。ですから、その日活動する中の出費の部分をどれだけ削れるか。だからバスも、ボランティアバスみたいなものがあるとけっこういいんじゃないかなと。
何というか、結局どこかのコミュニティに接してその中にいると無料のモノのやりとりに遭遇するじゃないですか?最近野菜送ってきてちょっと余ったんでみなさんに配ります、みたいな。そこの母数が増えれば増えるほど、たぶん無料のモノの交易もたぶん増えると思うんで。そういう所にアクセスするとか、時には対価が出ない労働が出費にはならない仕組みというのがどれくらいできるのか。お年寄りなんかも何というのかな。う~~ん(考え込む)。
どうなんですかね?ひきこもりボランティアの活動がこれが個人にとっても赤字になるというか。だから思うんですよね(笑)。公共交通機関無料政策。誰か政治家いわねえかな、って。
杉本:そうか。それだけいま交通費でも苦しんでいますか。いや~。私も随分甘えた生活してるなあ、って。しみじみ思いますね。そこまでのことはあまり考えたことはなかったなあ。
近藤:まあでも。たまに行くのってそんなにかわんないと思うんですけど、やっぱり継続的に行くと違ってきますよね。
杉本:う~ん。でも移動もできないっていうんじゃ、内的にエネルギーがあるのに人にも会えないというのは辛い話ですよね、それね。
近藤:うん。
杉本:むしろ来てください、という話になる(笑)。
近藤:そうなんですよ。
杉本:うちを居場所にしますからきてください、って。「移動居場所」みたいな形があれば面白いかもね。うん。ぼくも両親がいなくなったら一応土地家屋は相続するかもしれないので、何かやっぱり公共的に利用してもらうようにしなくちゃなと思ってるんですよね。まあ、この話は別途ね。とても面白い。
社会の固定観念からの解放
杉本:最近の障害者雇用での就労の条件付けとか、履歴の空白が多い人への警戒感とか、丸山(康彦)さんとも話の中でいろいろしたんですけど、個人が引き受ける強迫観念というのもあるけど、社会がやっぱり個人を見る目にある種の強迫観念、あるいは固定観念。持っている人が多い気がするんですね。自分を振り返ると自分がもし採用側だったらやっぱり「ん?」って思うかなあ、と。やっぱり理由を確かめてみたいとか思うかなあ、とか。それくらいやっぱり社会の基準って多くの人が内面化しちゃってるんじゃないかなという気がするんですよね。ですから、近藤さんのいまの考え方なんかすごく新しいと思うんだけど、個々人の持ってる固定観念がかなり強固に強いとやっぱり現状的には空白期間多い人はスルーされるのが一般的なのかなあって思ったりするんですね。
近藤:ええ。やっぱりでも僕もおんなじで。あの~、死ぬまで脛をかじると(笑)。でもやっぱり就労して同期で卒業した友だちが死んだときにすごい思ったんですよね。ああどうせそういうことはなるときはなるし、まあ俺も喫煙者だと(笑)。いつガンになるかもしれないし。
杉本:まだ吸ってるの?
近藤:まだ吸ってるんですね。母にこう、あれだけいいこと言われてながら(笑)。擦ってるんですね。それでけっこうどうなるの?って。どうにもなりませんでした、と。けっこう前のめりに倒れてゲームオーバーというのもアリ。そういうのもアリだよね、と。何となくそう思っているのが根本にあって、それでいま日々を動けてるというのがあるんですよね。そこをこう、「それはナシかな」と思うと、とにかく失業保険に入って年金入れてというのを必死に探して。でこう、「これで守られてるんじゃないか」と安心しないとって思うと、それをこう、「うるせえ」と言って。思い切りやるんだという。一応基盤が、家庭が置いてくれる間はそちらは放棄して。まあ実入りがあったら良かったなと。「あった、あった」でいいし。杉本さん、さっき遺言書いといてくれないか、と(笑)。
杉本:ははははは(笑)。
近藤:(笑)それは本当にいいぞ、と。
杉本:早いうちからね。書いてもらっておいたほうがいいです。
近藤:あの~。生涯パラサイトかな、とか。それもまあいいじゃないかとすごく思うんですよね。
杉本:うん。親の理解さえ得られたらねえ。一人っ子でしたっけ?
近藤:いや、三人兄弟です。
杉本:ああそうですか。
近藤:だけどふたりの、姉なんですけど。
杉本:結婚されているんですか?
近藤:はい。お金持ちと。
杉本:(笑)ああ、それであれば。
近藤:わかんない(笑)。でも、最初親もそう思ったかもしれないけど、可愛い孫ができたので。やっぱり孫の方が、と思うかもしれないし。でもそれはそれで、「親父、もうそれでいいぞ」と。好きにやってくれ、と。で、何か全部俺に残んなくてもまあ良いや。それはもう、何というんだろうな?スカンピンになって、後で考えても文句いうのはやめよう、と。
杉本:おお~(感心)。
近藤:もうそれは仕様がないな、と。
杉本:へえ~。それはすごいなあ。思える人はいないよ?
近藤:でも、いざそうなった時にそう思えるか?というと。それはわからない。
杉本:それはわからない。それは確かにそうです。でもね。日常的な観念でそう思えるのはたいしたものです。
近藤:そうでないと僕は一日一日を動けないと思っているから。したいことなんか出来ないぞって。
杉本:う~ん。そこは僕は相当弱い部分だと思いますね。勝山さんが『安心ひきこもりライフ』の最後のあとがきで、「大丈夫くん」と「現実くん」の両方があって、という話があって。本当、”そうそうそう”と思ったんだけど、無意味な楽観主義が僕の中に宿っていると同時に、変な「現実くん」というのが存在してて、やっぱり社会保険労務士というのは、年金とか、労働保険・雇用保険とか勉強するわけですよ。あの、労働者の基準を守る法律の労働基準法とか。やっぱりそれは「現実くん」の自分の中にある呼びかけで、やったんだと思うんですね。
でも僕は最近はそれも全部棚上げして社労士会もやめて(笑)。僕ももう、ひきこもりで考えようモードにいるわけで。「現実くん」をいま大分棚上げしていて、あとはまあ、親の様子を看るという所に軸足をおけばまあいいかな、みたいに思ってるんですね。でまあ、土地家屋に関してはまあ僕が相続させたいといちおう親は言ってくれてるんで、行けるところまで行こうと僕もとりあえずは思ってるんですけど。う~ん、でもねえ。近藤さんのようになかなかすっきりとは、おそらく自分は頭の中で行ってないかなあという気はしますね。
近藤:いや。それはどうなんですかね。
悲観の暴力性
杉本:でも、それはね。確かに絶対あるんです。その現実が来たときにじたばたする。でもね。「じたばたする」前提で語られてるんですよ。必ずじたばたするに違いないと。親の葬式さえまともにあげられないだろうという発想で。見たこともないひきこもり当事者のことを語っているわけ。あの、俺はね。正直分からない。会ったこともない人のこと、考えたところでどうしようもないと思っているし、究極的にそれを極めていくと、正直言うと自分のことしかないんですよ(笑)。そうすると問題は当然じたばたするだろうけど、まあ、シュミレートはしますよ?「どうなっていくんだろうなあ」と。結局でも、なかなかどうも行かない現実というのもあるんだろうけれども。何というか、結局分からない人のことまではちょっと想像出来ませんというのが僕の本音なんで。
でも本当に思います。何でこんなに悲観的未来しか想像できないんだろう?ということは。客観的には悲観的な未来かもしれないんだけれど、個々人にとって本当にすべて悲観的なのかどうか?というのはよく分からないですよね?例えば何か個々に個別の事件が起きたり、子どもさんが親御さんを殺しちゃったりとか、今回の「引き出し屋」の人間だって結局外に出さないと、出して社会適応させないと未来が真っ暗になる、って勝手な善意で踏み込んでやるわけでしょう?この奇妙な想像力は何とかしてもらいたいなあと思いますね。ひきこもっている人たちみながみなそう思っているわけではないんじゃないの?と思うんですけど。あまり受け入れてくれない議論ではあります(苦笑)。
近藤:う~ん。うん。でも本当にそうですよね。その何か、「悲観的未来」の何というんだろうな?その怖さって。「無理心中」ってあれ、現実じゃなくて予想で、予想によって殺されてるという感じだな、って思うんですよね。現実が殺したんじゃなくて、想像が殺してる。すごい本当は「想像」が強引なことを正当化するということがあるし、その悲観の「暴力性」というか。
杉本:うん。悲観の暴力性ね。うん、なるほど。
近藤:現実は、何か実際本当の現実の危険というのは自分から何かしなくても強引に到来するものじゃないですか?引っ張られて。悲観的だろうが、ポジティヴだろうが。それが「現実の危険」なのであって。生活の危険というのはほとんどは空想だな、って思うんですよ。「生きていけない」ということに関しては。
杉本:うん。だからライフプランとか、もちろんあったほうが良いというか、予備知識。そういう危険に対する予備的なリスク管理は必要なんだけど、そっちのほうに呑み込まれちゃうと。
近藤:そうそうそう。
杉本:ということが危ういというか、もっと危うくなると。悲観主義の暴力性に行きかねないという感じですかね。ちょっとリスク管理の意識というのは最近非常に高まっている気がしてて。
ひきこもりオールスターとの出会いについて
杉本:ところで、近藤さんはひきこもりのコアメンバーと最初に知り合ったのはどこなんですか?
近藤:どこでしょう?勝山さんとかどこで会ったのかは全然覚えてないんですよね。でも何かひきこもりと不登校の子どもの接し方ボランティア講座。あれのときに「月イチの会」というのがあって、それは青年ひきこもりの親の会と支援をセットにしているようなところなんですけど、その時の親の会のイベントで勝山さんが小咄をする会。
杉本:小咄をする会(笑)。
近藤:その中で受付けの手伝いをするときがあって、それが最初だったかもしれないです。その時初めて勝山さんと伊藤さんを見て、で、その先も何度も顔をあわせる機会がちょこちょこあって、で僕、「考える会」なんかも行ったことがあって。考える会とかでもっと接点を持ったのかもしれません。
杉本:考える会に参加したのは何年位前ですか?
近藤:考える会もけっこう前ですね。あの、自分の中の手帳を買って。
杉本:(笑)ああ、さっきの。
近藤:片っ端から興味があって安い、財布からあまりお金を奪われないものを入れておこうと思ったときに、考える会も情報として見つかった。
杉本:どうでした?考える会に関しては。印象は。
近藤:う~ん。う~ん。何というんだろうな。何か語弊がありそうなんですけど(笑)。いや、考える会、面白かったんですね。面白かったですけど、何かこう、来てる人たちの、一種の道楽というか(笑)。
杉本:道楽(笑)。
近藤:「無意味無利益」みたいな。そのところも世話人たちも別に、石川(良子)さんなんかはもちろん研究のテーマにしたいというのはあるかもしれないですけど、基本的にはみなこれで何かはっきりとした実利を得るわけでもなく、で、利益があるわけでもなく。何となく来て、ガヤガヤやって、それが持続的にず~っと続いているという。そういう取り組みですよね。学校の放課後の部活にちょっと近いんですけど、学校が卒業したあとにもそういう取り組みが持続的にあって、続いている。参加できるという場。それが、「あ、けっこうあるんだ」という。そういうのって結局自分たちで探さないと見つからないんですけど、何か社会の重層感みたいなものを思ったんですよね。「ああ~」って。で、けっこう好き勝手に、好き勝手なことをする(笑)というのが意外と実現性があるというか。
杉本:ねえ?ねえ~。
近藤:それがちょっと安心感があって、やっぱり面白いなと。
杉本:好き勝手で実現性があるといわれましたけど、実現してますね。その後いろいろとね。
近藤:何かアレですよね。やっぱり動かされ方というのも、働いて任務があって。これに賃金とともに働くというのもあるんですけど。そのコミュニティの中の声のかかり方がある種自分の肉体労働を提供するサービスだとすると、別に対価なしに提供することにためらいがないんですよね。「いいよ」という感覚がある。それは自分の中のけっこうキモなんですよね。それが、「構わんぞ」と思って動ける部分と、まあ一方でお金とセットで動いているものとが両方日常にあったとして、この両輪としてもってるものがないと何か気持ち悪いですね。勝山さんの小屋建ても一緒に行くんですけど、まあ、勝山さんが「良い奴隷」と言ってくれるんですけど(笑)。
杉本:ははは(笑)。
近藤:近藤さんはこうやってみてるとサボっていると。チラッとみるとサボっている非常に良い奴隷で、すぐサボるから良心が痛まずに声をかけれると。一生懸命やられると勝山さん、「ああ~」って。何かこう、「あなたには何も出せないのにすみません」と。
杉本:ああ。勝山さんとしてはそういう人にはちょっと良心が痛むんですか?
近藤:一生懸命やってくれると悪いなあと。
杉本:ああ~。気遣いが出るんですね。
近藤:たぶんそれがこう、勝山さんのユーモアですけれども。でも自分からするとパック旅行でもあるじゃないですか。パック旅行というか、和歌山観光。でその、小屋作り体験というサービスの体験でもあって。で、それがその、本当に完全な密室的なプライベートの人間関係ではないような所なんですけれども。でも、そういった互いの、何というんだろうな?お互いの人間の利用の仕方がある所にやっぱりすごく感じ入るものがあるというか。そこが大事だな、と思うんですよね。
杉本:いや。だからこの前の湘南ユースファクトリーの「ひき☆スタ」の振り返りの映像も見ましたけれど、皆さん揃ってね。していましたけれど。まあ、「UX会議」もそうなんですけど、この長い人脈の継続性とアウトプット?人前に出てやるという活動歴とか。ないですよ、うん。長い継続ってけっこう大事なことだなと思いますね。
近藤:うん。そうなんですよね。
杉本:1回1回のイベント、ぽんぽんと打つのも大事だと思うんですけど、その背後にこういうロングな話し合いとか、お互いを理解するための無意味なくらいの話し合いは大事だという風に思っていて。それができた上での大きなイベントたるべきだろうなと思います。その付き合いかたの秘訣の一端もお伺いできた気がしました。本当に長時間ありがとうございました。
(2016.4.17 横浜市青少年サポートセンターと桜木町のカフェにて)
湘南ユースファクトリーの「ひき☆スタ」の振り返りの映像 「ひき☆スタイベント ひきこもてライヴ ~それぞれの居場所から考える~」YOU TUBE映像(2時間20分過ぎより) https://www.youtube.com/watch?v=6xSJtdEzyR8