当事者性を打ち出しやすい立場と、打ち出しにくい立場

 

杉本:そうですね。この本にもルース・リスターという研究者のかたが紹介されていますが、ちょっと形を作れなかったんですけど、北大で貧困問題の研究をされているかたにお話しを伺ったことがありまして。これまた話が飛躍して申し訳ないですが、釧路で生活困窮者の活動をやっている櫛部武俊さんという方がいます。ケースワーカーを長くされていて、後に生活保護の・・・。

 

金子:自立支援モデルプログラム。

 

杉本:それですね。その支援に関する釧路モデルの旗を振っていた櫛部さんの自分が働いてきた生活史のロングインタビュー本が行政関係の出版社から出ているんです。で、研究者の人などが櫛部さんのライフヒストリーを聞いているんですけど、その中で研究者の人が生活保護受給者の人たちの当事者会とか自助グループはないのですか?と質問したときに、受給当事者というのはなかなかそこまでやるのは難しいんですよと答えていて。同じ質問をぼくからその先生に聞いてみたんですよ。そのときルース・リスターさんという名前をはじめて聞いて。『貧困とは何か』という本がありますけど、その後『Poverty』という、まだ邦訳されていない本があると。そこに当事者どうしの話でエンパワーメントするような活動を記述した形がありますと教えてくれたんです。リスターさんもおそらく当事者の主体性みたいなことをすごく意識して研究されているかただと思うんですけど。ただ、どうしても「貧困のわたし」というのは、それこそ「トランスジェンダーのわたし」とか、「障害者のわたし」という形で社会に問い返すことができたり、社会や政治に対する対抗論理を言葉として発しやすいのと違って、貧困そのものを主体性として、自分たちのアイデンティティとして語り合うのはルース・リスターさんがやっている作業の中でもなかなか難しいと。例えばいろんな女性問題であるとか、DV(ドメステック・バイオレンス)とか。そういう話し合いの中で“わたしは生活保護を受けているけれども”、みたいな形で語るというのはあるけれど、公的扶助を受けながら「公的扶助を受けている自分たち」について話し合うというところまではイギリスでもまだ行けてはいないようですよ、という話は聞いたんですよね。

 

金子:そうでしょうね。

 

杉本:それはもう、ひきこもりも同じだなと。

 

金子:そうなんですね。

 

杉本:もちろんひきこもりの自助会はだいぶあるんですけど。かつ究極的には政治にも認識をとか、社会的にもマスメディアを通して公に理解してもらうような志を高く持っている人が何人か生まれてきていると思うのですけど。ただ説得力を持った議論は、自助努力とか生産性を求める効率的・能力主義の世の中ではなかなか大変な作業だなというふうに思いますね。特にネット上で匿名のバッシングが発信しやすい時代でもありますからね。

 

金子:そう思いますね。ルース・リスターはまさにそうですよね。ぼくもすごく共感したんです。

 

 

 

本当の福祉は「対象」が限定されないはず

 

杉本:事前にメールしたとおり、貧困がなぜ発生するのか、これはいつの時代も発生するだろうとは言えるんですけど。この近現代社会になって、いろいろ社会保障制度ができていく中で、やはり貧困はない方がいいという人間の意識の高まりも出てきたのだけど。本を読んだ私が改めてなぜ福祉が必要か聞くのも、それは分かるじゃない?と言われるかもしれないですけど()。あえてお聞きしたいというのがありまして。

 

金子:はい()

 

杉本:現代でどういう特徴や課題を持っていて、それが政策や実践に捉えられているか。この本の前書きでも問題提起されてらっしゃるんですけど。あまりにもぼんやりとした質問になってしまいますが。

 

金子:いえいえ。貧困の救済はなぜ必要かという話ですよね。ひょっとすると僕自身の貧困の捉え方が広いのかもしれないんですけど。広義の貧困という言い方をしていますが、つまりもっとこう、幅広い「一般庶民の生活苦」くらいの大きな括りで捉えている部分があるんです。実はそれがむしろ主流というか、人数的に相当多くて、そうでないいわゆる富裕層の方が少ないと考えれば、当然その大多数である庶民の生活を保障するのが普通だろうという考え方があるんですよね。

 

杉本:一般的には貧困は少数派の人たちだと言われてますが、実はそうではないと?

 

金子:そうですね。福祉学で元々「対象論」という言い方をしてきたのですけど、社会福祉とか救済の対象は誰なのか?という伝統的な論点・議論があるんですよ。

 

杉本:はい。

 

金子:対象論はかつてずっと貧困だと考えられていたんです。救貧政策から1960年代くらいまで。福祉の対象は貧困となっていたんですが、そのあと社会政策学とかイギリスの福祉国家の流れの中では、対象は貧困ではなくて「全ての人々」だというふうに変わっていった。福祉が普遍化して、社会保障が誰でも利用できるものになっていくにつれ、実は全ての生活者、市民が対象であっていいんじゃないかという流れになった時期があるんですよ。その考え方の影響をけっこう受けているかもしれません。

 

杉本:なるほど。

 

金子:だから貧困とは言ってるんですけど、そこで言ってる中身はもっと幅広い生活者のこと。日本語で言うと庶民。イギリスっぽく言うと労働者ということなんですね。

 

杉本:ああ。特にイギリスで言う労働者というのは失業している人たちも含めているんですか。

 

金子:そうです。そう思います。労働者階級という意味ですね。

 

杉本:また話が飛んで申し訳ないのですけど、ひきこもりの難しさというのは失業ではないんですよね。

 

金子:ええ。

 

杉本:かつニートという言葉もありますよね。これをどう考えるか?というのがあって。まあ、ひきこもりという問題も時代が変遷していくと徐々に形骸化というものがあるのかもしれない……そこは分からないですけど。ただ僕ら高齢世代は家庭内葛藤であるとか、家族との関係性のことでひきこもるなど、いわば心理問題がけっこうある。同時にまた、家族が抱えることができたという時代の中でもあった。だから問題提起したのは家族が抱えられなくなってきているという現代の話なんですよね。僕ら50代前後は家族が抱えつつ、抱えてあげてる側のパターナリズム的なもの。こちらに都合のいい言い方をすれば、親のパターナリズムの中で親をふり払い、社会の方に自分を投げられなくて、そこで家族内葛藤を繰り返すうちにある年齢まで行ってしまったという。そういう意味の共通性みたいなことが「分かる、分かる」というのがあるんですけど。

 逆にむしろ、「労働者階級の自分たち」というようにひきこもりの自分たちを捉えるということは、普遍的に考えたらそういうふうに捉えていいのかもしれないですけど。一般的にひきこもりの人たちとの間で、「僕ら労働者階級の問題・長期失業の問題なんだ」という捉え方で語るのはお互いに理解してもらうのは無理がある気がするんです。

 

金子:そうですね。

 

杉本:こうなるとイギリスと日本の違いというのはどこにあるのかしら?と思いました。

 

金子:労働者階級という捉え方は日本では、ほぼないですからね。

 

 

 

どこかへ行けそうで、いつの間にかどこにも行けなくなった日本人

 

杉本:ええ。そもそも日本は階級論がないですよね。イギリスのようにはないなという感じがします。

 

金子:何と呼んだらいいのか分からないんですけどね。とりあえず貧困と呼んでいるだけで。

 

杉本:日本で言えば庶民とか中流階級のなれの果てでもいいんでしょうけどね。

 

金子:中流階級でも借金が多かったりとか、アルコール依存や精神疾患があるとか、孤立化しているとかという意味で見ていけば、日本でも多くの人々が充分に社会福祉の「対象」なんですけどね。

 

杉本:イギリスではどうなんでしょう。「中流」というクラス・イメージってあるんでしょうか。

 

金子:イギリスで中流というのはほとんど上流ですよね。

 

杉本:アッパーミドルというものですか。

 

金子:そうですね。

 

杉本:なるほどね。じゃあアッパーミドル以上とワーキングクラスに二分されるようなものなんですかね。

 

金子:たぶんそうです。

 

杉本:私は英国のロックが好きで、パンクロックから始まって、80年代くらいまでずっとイギリスのロックをリアルタイムで聴いていたんです。あの頃は労働者階級・ワーキングクラスの新人がたくさん出た時代でもあったので。最近で言えばブレイディみかこさん。彼女の好きなミュージシャンが自分とほぼ同じということもあり、ブレイディさんの語りがイギリスを考えるときに……。

 

金子:いいですよね。ぼくもブレイディさんも、それに80~90年代の英国ロックも大好きです。

 

杉本:イギリスの対抗文化が好きだった者としてはブレイディさんの言葉がいろんな意味で響く。「地べたの生活者」という言い方をしていて、イギリスの典型的な労働者階級の中に入っていった人ですよね。そうすると何となく向こうの庶民が見えてくるというか、自分のアイデンティティをしっかり持っているというか、プライドを持っている。たとえ失業していようが自分はこちら側なんだという立ち位置がはっきりしている。そこがイギリス人の面白いところというか。

 

金子:面白いですね。

 

杉本:ぼくら日本人ってどこにでも行ける気がして、いつの間にかどこにも行けないことになっていたという(笑)。

 

金子:(笑)何かこうセレブ信仰みたいなものもあったりして、バブルのまま止まってますね。

 

 

 

けなげな学生さんたち

 

杉本:学生さんはどうですか?そういう部分って。

 

金子:自分たちが労働者階級や庶民とはあまり思ってはいないみたいだけども、でも別世界。アッパーミドルやバブル世代とは別世界という感覚は強くあるみたいですね。ひょとすると、日本の若者の対抗的な生き方というのは、ひきこもりとか、アニメオタクとか腐女子みたいな空想を大事にして生きることなんだろうなと考えたりもします。

 

杉本:そうなんですね。そこでむしろぼくの場合は年齢のせいもあるでしょうが、「現在もこれからも大変みたいだよ」という話をけっこう聞く機会が多くて。金子先生もメールで書かれてましたでしょうかね?学力コンプレックスみたいなものもあるのかなと。

 

金子:うん。

 

杉本:北海道で言えば北大がいちばんトップなんですけど。僕が卒業した大学の生徒さんとか監修者が元いた栃木の大学では学力コンプレックスがけっこう強いらしいんですよ。「自分はこの程度」みたいなことを先に決めてしまうみたいなことがあるらしくて。それはいったいどこで基準が先取りされてしまうのか。一生懸命バイトも学校も通っているんでしょうから、それだけでも充分立派じゃないかって思うんですけどね。

 

金子:学歴のところは・・・そうだな。社会福祉に集まる学生はまたちょっと別かもしれないです。そもそもそこにあまり対抗してない子が多いですけどね。

 

杉本:それほど自分の問題にはしていない?

 

金子:そうですね。

 

杉本:であれば、いいですね。

 

金子:最初からそういう進学校をめざす受験などから距離を取ってきたような子が多い印象があります。

 

杉本:いいですね。じゃあわりと別の問題意識を持って学びに来る子が多いですか?

 

金子:問題意識があるかは分からないですけどね()。何か人の役に立ちたいとか、親を助けたいとか、そういう子が多いですけど。すごく純朴な感じです。

 

杉本:へえ、そういう話を聞くと…。純粋ですね。まぁ問題意識は探ればあるんでしょうけどね。キッカケのようなものが。自分自身のことだったかもしれないし。

 

金子:そうですね。やっぱり家族のことが大きいですよね。

 

杉本:そうか。家庭がなかなか大変だっていう。

 

金子:それです。

 

杉本:そうすると奨学金で学びに来ている学生さんもひじょうに多いですか。

 

金子:半分以上がそうですね。

 

杉本:半分以上…。じゃあ借金も、やっぱり日本学生機構から?

 

金子:もちろんそこがいちばん多いですね。ほとんどそうだと思います。

 

杉本:ふ~む、そうか・・・。卒業しても借金を抱えて……。

 

金子:卒業と同時に400万の奨学金と、あと年金も払わないで猶予してもらったりしているので、それも払わなければいけないという相談はよく受けますけど。

 

杉本:じゃあ免除とか。若年猶予の制度を使うと、30歳までは猶予されますね。

 

金子:追納したらいいのかどうかという相談が。

 

杉本:追納と言っても極端な話、10年は追納できませんよね。100万単位以上。しかも借金も抱えて。無理ですよね。しかし人の役に立ちたい人がなんでそんな苦労を若いうちから背負わなければならないのか……。

 

金子:そうですよ、ほんとに。

 

杉本:おかしいですよね。それでアナキスト、栗原康さんのように憤ったりする若者はいない()

 

金子:いないですね。それはいないです(笑)。

 

杉本:金子先生が怒った方がいいんじゃないですか()

 

金子:あぁ、そうですね()。怒りを通り越して、疲れてきています…。でもそういう奨学金問題とか教育格差といった問題があったとしても、それは自分の個人的な問題、自分の家庭の問題だと置き換えすぎちゃうんですよね。社会問題としての教育や福祉という話をしても、なかなか話が通じないし、それが政治とかには向かわないんですよね。

 

杉本:あぁそうなんですね。でも構造上の問題だという認識はしているんですか?

 

金子:はい。だからこそ、諦めみたいな感じになっちゃうんだと思います。変えられないものだって。

 

杉本:諦めかぁ……。う~ん。なかなか展望が見えにくいですね(苦笑)。

 

金子:でも何かしたいので、ボランティアをやったり。学生の間では特別支援学校に行って勉強のサポートをするとか、そういうのが流行っているんです。生活困窮世帯の子どもたちに勉強を教えるボランティアとか、NPOがやっている学習支援や放課後デイサービスに行ってみるとか。障害者の就労支援の手伝いに行くとか。

 

杉本:すごくモラリスティックですね。本当にモラリストの人が多い。

 

金子:そうですね、真面目ですね。

 

杉本:ねぇ。何か素敵です。

 

金子:そのボランティア団体「マカロン」というのもこの間、学生が持ってきて。ボランティア団体を立ち上げたと言う話で。

 

杉本:自分たちで?

 

金子:はい。宣伝してもいいですか?て。子どもとキャンプに行きますとか、交流支援をしますとか言ってました。

 

杉本:すごいな~。自主的に始めたんですか。

 

金子:そうです。

 

杉本:先生のゼミの学生?

 

金子:違うんです。そういう話はよく転がってます。

 

杉本:最近よく子ども食堂とか、学習支援もそうですけど、子供の貧困に対する問題はマスコミでもだんだん大きく取り上げられ始めていて。こちらもそうなんでしょうけど、子供に目を向ける学生さんが多いんでしょうね。

 

金子:そうですね、入りやすいんでしょうし、自分たちが経験してきた「何か」とつながるのかもしれませんね。

 

杉本:先生が授業で教えている貧困な人たちとの関わりはどうですか。

 

金子:ホームレスとか、元受刑者という意味ですか。

 

杉本:そちらには向きにくいのかな。やはりちょっと大変かもしれないですね。で、意識的に学んでいる人は子供に対しても向き合い方として、「してあげる」ということは子供に対して失礼じゃないかという問題意識は持たなくてはいけないということはありますよね。

 

金子:そうですね。

 

杉本:それはいわば先生が専門にしている貧困の対象になる人たちに対して、いろいろ「してあげる」存在であるとか、子供扱いしてしまうような態度とか、上から目線、パターナリズムという問題とも繋がっているような気がするんですよね。

 

金子:ここの学科で特別支援学校の教諭免許状を出しているんですよ。社会福祉士養成と同時に障害児教育のコースがあって。それで特別支援学校に行って実習をやってくると、障害児の視点で権利擁護しなくてはならないという考え方をわりとしっかり学んでくるんですよね。それでけっこう教員採用に通るので、教員になっていくんですけど。ちゃんと障害児の視点で、教育を上から押しつけてやるというよりは、どういう障害があってもその子の学習権を保障しなくてはいけないという視点で教育に携わろうとする学生が一定割合いますね。それは良いことだと思っています。つまり、特別支援教育の世界では、福祉に比べてまだ障害のある児童・生徒が一番大事だという空気感がしっかりあって、それを教育実習の中で体験することができているようですね。

 

杉本:うん、うん。

 

金子:福祉はどうか分からないのですが。むしろ教職の方が案外そういうことに気づく学生がいる感じがします。

 

杉本:それはやはり教育という問題の中に入っていく人たちの意識のレベルの高さかもしれないですね。

 

金子:あとは福祉よりも学校というのは守られているといいますか。職場環境も特別支援の方はきちんと基準があって人員配置もされていて、公務員の世界なので。まだ余裕があるのかもしれないですね。

 

杉本:なるほどね。

 

金子:福祉業界はもう本当に人がいなくて、給料も安くて、その中でフルで働かされていて、やっぱりそういう中で身体拘束とか職員による虐待ということが起こってきていますよね。底辺労働になってギスギスした職場になっちゃっているような気がします。

 

杉本:高齢者はどんどん増えてきていますしね。

 

金子:当事者視点なんて言っている余裕が無くなっちゃっているのかもしれないです。ケースワーカーもすごい状況ですから。給付管理だけして、なるべく自活させろと上からの方針でやっているので。

 

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