「ひきこもりUXフェスティバル」というものに参加してみた。
今回は第2回目で、1回目は360人もの集客があったという。「なんじゃそりゃー?」である。「ひきこもり」と「ひとだかり」。最も組み合わせとして相性がよくないじゃん、人酔いして具合が悪くなる人がいないかしらん?あるいはひきこもりの人だけがくるわけじゃないとすると、親とか、支援者とか、研究者とかが集まるのかしら?そんないくつものクエスチョン・マークを抱きながら今回の第2回目に参加することにしたのはこの会議を運営している元当事者の人たちに個別インタビューをさせてもらいたいという、もうひとつの目的もあったから。そのやりとりの過程で「当事者目線でレポートを書いて欲しい」という依頼を受けることに相成ったわけである。
場所は「大田区産業プラザpio」というところ。羽田空港から京急線に乗って蒲田駅に降りればすぐの場所だ。おまけに蒲田駅は羽田からえらく近い。駅から二つ目。午後1時5分羽田着のフライト疲れがとれないまま、あっという間に会場に着いた。関係者控え室で昼食をいただいてる間、運営者の林恭子さんが挨拶に来てくれたり(ものすごくしっかりした人です)、ひきこもり名人の勝山実さんが「俺の弁当どこ?」と姿を現したり(午前にトークステージの仕事をこなしていたのだ)。
自分が会場に着いたのは午後1時40分頃だったので、昼食をいただいたあとは「交流スペース」で2時から始まる横浜の自助会「STEP」会合にまずはお邪魔。交流スペースは3つあって、その中には「ひきこもり居酒屋」もある。「STEP」世話人の近藤さんによる例会の進め方ガイダンスを聞きながら、自分は自己紹介のみで次のトークステージに移動する。会場はメイントークステージのみならず、3つの交流スペースや各種団体のブースも出ているので、やはり会場全体にざわつきがあり、なかなかおちついたひきこもり自助会ペースは作りにくく、近藤さんも大変な部分もあったんじゃないだろうか。自助会、人もだいぶ集っていたし、声も丁度真向かい一番後ろ側にいた自分には聞き取りづらかったりしたので(当方の聴力が衰えてるせいもあるが)。
さて、2時15分から始まった「働く」のトークセッションへ。おお、そういえば今回のUX会議のメインテーマは『生存戦略』だったのだ。心に響くテーマだ。「働く」トークのゲストは日本財団の竹村利道さん。主催者側の聞き手は恩田夏絵さんと室井さん。障害者とともに働いてきた竹村さんは高知で「与える」福祉ではなく、障害者とともに一緒に作る福祉を目指して活動してきたらしい。(夜の仕事も拒まないスタンスだったそうな〕。明るく、快活そうな人だ。
私は恩田さんの不登校・ひきこもりに関する支援の問題意識の立て方にうなづくことが多かった。「何かをしてあげる・社会へ引き上げる」関係ではなかろう、「支援する側・支援される側」の関係性ではないだろうと。恩田さんが言うには、それまで自分が手を携えたいと思える人がなかなか見つけられなかったけれど、竹村さんはそれに該当する人だったと。(この、『ひきこもり業界枠』以外の接点を見つけることの意味は大きいのではないかと。それはこのあとの話し合いでも思った)。そして働きかたには「いまある社会の本流に寄り添っていくこと」か、それとも「全然違う生き方を志向する働きかた」か、二つではないかと。
竹村さん曰く、働くことは「対価を得る、ということではないと思う。でもやはり働くって大事なことだ」と。社会人とは「社会に関心を持つ人」「社会につながっている人」ではないかと思う、と。それは自分も聞いていて、もっともだと思った。「外圧的な働きかたはしなくていい」とも言っていた。実はこの「働く」議論は、次のセッションで話が出たハンナ・アーレントの議論にもつながるものだ。
このあとあたりから、恩田さんの側からスリリングな展開が始まる。「仕組みをもうちょっと変えるべきでは。『普通』や『本流』でない仕事もあるでしょう。いまあるものに戻そうというのではダメ、別の方向を探しましょうよ」と。
応じる竹村さんは「普通」じゃないほど素晴らしいものはない、普通じゃない体験を経た上での、普通じゃない仕事を作ればよろしい」と。「こういう場からそういう人が現れてくるような」。
会場からは「当事者の人たちは自分の問題を深いレベルで考えて言語化できる人がいる。そういう研究者たち(当事者研究を極めようとする人のこと?)が集まる店を作れないか」という趣旨の提案も。このあたりから、僕の頭の中でいまある普通の仕事群に適応を目指していく方向ではない仕事。それって何があるだろう?どのような方向でありえるだろう?とグルグル回転を始める。
このトークセッションは壇上にある人たちと、持ち時間終了後30分間アフター・トークする時間があるのだけど、僕も自ずと興味を惹かれてそのまま居残り。気がつけばかなりの数の人たちがアフタートークにそのまま移行している。「ひきこもりと働くこと」のテーマは非常に関心度が高い事柄なんだな、と改めて実感した。ネットを使って新しい仕事を作れないか、ひきこもりの人が苦手とする輪(家族の輪、仲間の輪、近隣の輪〕から離れ、輪の外側に仕事を作れないか、など。僕も発言させてもらって、ひきこもり体験が貴重な時間だったとしても、普通の社会側がそれを受け入れ難い状況ならば、ひきこもり体験を生かす方向を考えるしかない。それが「ひきこもりとはなんだったのか」という視点での研究者や支援者へのインタビュー本の作成の試みだったとお伝えした。ただ、あの場では伝えられなかったけれど、ひきこもり当事者間の間での共通認識があったとしても、その外側の社会に広い接点を持つ理解者との出会いがないと、仕事へ展開していくのは現状ではやはり難しい。まさにUXフェスのメンバーはその意味では各自がそれぞれ社会的認知を持たれている人とつながりや接点があって、そういう人脈を持つ人たちとの合わせ技でフェスを成立させていると思うので、「仕事を作る」という目標を考える際には、今回の運営者たちのような動きかたがひとつの指標、ロールモデルになるのではないかと思う。もちろん彼らのような活動力を持つのは難しいので、等身大の自分でどう接点を持てるかという話です。
アフタートークの際、竹村さんは「お金にできる形はあるかな?」とつぶやいていた気がするが、もしベーシックインカムが導入されたとして、「それでもひきこもりと呼ばれる人は働かないのか」ということに自分は興味がある。ぼくはそれなりにひきこもりの人は「働くと思う派」だ。竹村さんがいうように、「社会に関心がある」し、「矜持」が欲しいからだ。ただ、「矜持」と言ったとき、日常においてつねに人には矜持が必要か、ということもある。矜持を求め続ける強迫観念というのもあるだろうから。
そのような、働くテーマに話が尽きない熱気が残ったまま、トークステージのラストは「生きづらさ」。ゲストスピーカーは精神科医の泉谷閑示さん。主催者側聞き手は林恭子さん。林さん自身が泉谷さんのカウンセリングを受けていたことがある人。まず林さんから生きづらさの理由の一つとして「自己肯定感」が持てないということがあるのでは、と問いかけ。それに対して泉谷さんは自己肯定の反対は自己否定。このように「マルかバツか」の思考を「二元論」という。私はこの二元論の苦しみから離れるお手伝いをしている、と。これがおそらく泉谷さんの心の悩みに関する解きほぐし哲学のメインであろうと全体の話を聴く中で再考したことだ。
先ほどの「働く」のテーマでも出た「普通」ということば。その普通という「大通り」は人為的に作られたものだ。だから大通りからずれたとしても、私(泉谷)は大通りに戻らない道を勧めている。つまり「自分だけの道」を歩むことを勧めている。大通り以外の道はモデルがないとしても、モデルというのは邪魔なものでしょ?大通りから離れて歩んだら林さんのような人が生まれる。そういうことです、と。
林さんの次の質問は、これも「働く」テーマのトークステージと絡むけど「とりあえず考えてばかりいないで、まず働いてみたら」と巷間よくいわれるアドバイスについて。泉谷さんは自分はその意見から「働く」についてとことん考えてみた。実は「働く」には三種類がある。その三種類を「働く」という言葉ひとつにまとめてしまうから話がややこしくなる。哲学者、ハンナ・アーレントはその三種をまずlabor(労働)、work(仕事)、action(活動)にわける。そして、後者に向かうにつれて人間らしいものになる。古代ギリシャでは労働は卑しいものとされた。だから生きる以上しなければならない労働は奴隷にやらせた。良し悪しは別として、労働だけが中心だと人間は生きることに意味を見出せなくなる。いまはlabor中心の社会だけれど、workやactionの中にある「意味」を感じたいと人は思っているはずだと。
次に「好きなものがない、好きなことが見つからない」という声もよく聞く、と林さん。泉谷さん曰く、そういう人は多い。でも好きなことは考えても出てこない。むしろその前に嫌いなこと、やりたくないことを自分の中でハッキリさせることのほうが先決だ。「ノー」が生き物の最初の自己表現である。みんな頭の声ばかり聞いて、心の声を聞かない。心の声の最初のものは「ノー」なのだ、と。
林さんはその意見に同意しつつも、でも「心のノー」は怖い。そう思ってしまうのにはどうしたら?と。泉谷さんはもちろんそういうことはある。でも、「心のノー」を無視した関係性は壊れるときは壊れるものです、と。続けて林さんより、そういう進み方は泉谷さんという伴走者を得たから進めたけれど、心の中の声を出す勇気を与えてくれる人がいないときはどうしたら?と。泉谷さんはそういう声を出してきたかつての人びとの言葉を参照にすれば良い、と(本、音楽、美術等のアートなど〕。
「心の声」に絡めて林さんから「とはいえ、この会場に来られた人はなぜここに来られたのでしょうね?」と。それに対しては「大通りを歩くくらいだったら死んだほうがマシだ」と思っているからじゃないですか、と。「だって、大通りを歩いているのは死体ばかりじゃないですか」となかなか過激なご発言。「人は自分が生きたいと思う道を行くんだ。自分が人生の最後に『面白かった』と言って死ねればよい」と。これは結構うなづけるというか、最後の希望というか。例えば大通りを守るように生きてきた自分の父親を考えてみると、昔の価値観に縛られたままの老境で、日々がつまらなそうで、わがまま放題の様子を見ていると、正直『こうはなりたくないよなぁ…』と思うわけなのですよ。親に対して何と残酷な思いだ、と言われるかもしれないけれども。
さて、アフタートークでは「日本人の自分としては、自分の本音と建前の区別が分からなくなっている気がする」というご意見あり。それに対して泉谷さんは「わがまま」を復権させるべきだ。麻痺を解除するために、我慢からちょっとずつ離れてみることが必要、と。
精神科医志望の医学生から「泉谷先生みたいになるにはどうしたら?」。「まず一個の人間になること。技術だけじゃなく、「そうか」と実感できる方法で。すべて真っさらなところからカウンセラーになって欲しい。私自身、もう勉強はいい、と思っている。フロイトもユングももういい。それよりも知識じゃなく、「目の前の人がわかること」が大事だと思っている」とのお話でした。
私自身がもう27年精神分析という名目で特定の先生と長いセッションを続けている存在なので、泉谷先生の話しに全く異議なしだ。小手先のテクニック的な話は一切なく、一貫して本質的なことしか話されなかったので、その点も信用ができたし、実際「揺らがなさ」において自分のセラピストに良く似ている。この境地まで至ると最早「存在が語る」世界だな、と思った。つまり人として本物だなと思ったのである。著作本のとおりの人だった。
ただ、個人的にアフタートークのときに質問させていただこうと思ったのだけど、泉谷先生のカウンセリングを受け始めた当初の人にも今日の会合のような本質的な話をされるのだろうか、ということだった。でもほかの人に対する質疑のやりとりを聞いて、特にあえてこの場でそのことを聞くこともないな、と思い直した。そこは人を見て機を見ながら対話をしていく根本は持たれているだろう、と直感したからである。
以上、自分が見聞したのはそんな感じで、結局メインのトークステージとアフタートークが中心で、別のコーナーである交流ステージやブースの徘徊はほとんどできなかった。(最後に「ヒューマン・スタジオ」でコミュニケーション・ロボット?の説明を伺ったくらい)。でも、「働く」「生きづらさ」のトークセッションは相互に絡み合う内容だったし、自分の関心が結果的にそのふたつに強くあったので、そちらに貼りついてしまったのは致し方なかった。もともと広く浅くものを見るタイプではないこともあるし。特に泉谷先生のラディカルな発言の数かずは、ほかのもろもろの課題を超えて、その課題群の底流に流れる本質をついていく話でもあったと思うので、聞くに値するものだった。ひきこもりだけの話ではない。文字どおり哲学的な話題だったから。
トークステージを聞きながらも背後では交流スペースやブースからの声が飛び交い、話が聞き取れないことは全然ないけど、ガヤガヤした中で講演?を聞くという感じではあった。こういう体験も初めてだった。うるさいなと思わないでもないが、不思議と煩わしいほどのこともない。いつも講演やシンポはシンと静かなところで聴くのが通例なので、時にそれらは肩が凝らないでもない。それを思えば肩のこらないメインステージのありようも新鮮なものだなと思ったけれど、「やっとこここに来れた」人などにはどうであったろうか。始終ざわついている雰囲気はきつい人もいただろうか。それとも肩がこらず良かったろうか。
このフェス、ひきこもりからけっこう元気になった人にとってみれば文字どおり「お祭り感覚」を堪能できて、一体感を感じ満足して帰路につけたと思うけど、勇気を持って何とか足を一歩踏み入れたような人。そのような人にとり、「ああ、元気な人ばかり。やはり自分は駄目だ」と思い静かに去った人もいなかったろうか。どんなイベントにもある、そんな「自分に合う、合わない」ムードの受け取りというものがあると思うけど、その辺のフォローまで配慮するというのはさすがに難しいことだろうとは思う。
あと、新たな人との交流は可能な場だっただろうか。初めて来て、普通の交流スペースでじっくり誰かと新しい出会いの交流は可能だったろうか。手前にブース、奥にメイントークステージ、真ん中に交流ブースがあるけれど、「非交流スペース」というスペースに行くというのもまたしんどそうだし、交流スペースの隣は「ひきこもり居酒屋」で、最後に一番賑わっていたのは(とはいっても落ち着いた賑わいだけど)その居酒屋だった。だから、帰りに顔見知りの人と挨拶を交わしたのはそのスペースが多い。
トークステージのアフタートークはテーマに強い関心を持つもの(僕のようなもの)が集まるわけだし、結局「新しい出会いの場」としての機能、ひきこもり親和群らしい、ゆっくり個別に親交をゆるやかに深めていくスペースの機能は持てたのかしら?そこが少し気がかりに感じたけれど、そこまでは認識できなかった。その点はのちのアンケートなどで見えてくるだろうか。
そして、ブースは、上記の通り申し訳ないけれど、ほとんど見ることができませんでした。自助会も再び参加したかったけれど、叶わなかった。
結論を言えば、当事者発信、発信に伴うテーマ設定はうまくいったといえるんじゃないだろうか。午後から参加した自分にはそんなに偉そうなことは言えないけれど。少なくとも自分が聞いたトークセッションではメインテーマである「生存戦略」の片鱗は感じた。ただ、もう少し「働く」テーマをじっくり聞きたかった。それこそ泉谷さんの紹介したアーレントの考えを含めつつ、どう考えるかという深め方もあるだろう。するとテーマの絞り方が必要になってしまうかな?
しかしこう考えるとフェスという枠組みの中でもひきこもりをテーマにすると膨大かつ深く広い考慮点があるな、と気づく。人集まりに苦手の人も勿論いるはずだし、そういう人たちにとっては入口の安心感を求める希望から、自分みたいに馬鹿者、つまりフェスの場でさえも物事を深く話したいという野暮な厄介者までいる。純粋にお祭りとして親交を深めたいという人もいただろう。おお、これぞまさにフェスの多様性というものでもあろうか。何でもかんでも配慮配慮というわけにもいきますまい。でも、最後に主催者側から「この場所に来れない人たちにも思いをはせてください」旨の発言があったのにはホッとした。それは本当にみな心にとどめおかないといけないと思う。
一回目のこのイベントも、二回目のおしゃれカフェももちろん遠方住まいの僕はしらない。今回のフェスの雑感だけれど、長々書いて何となく気づかれているとも思うけれど、少し「何でもアリ」過ぎたのではなかったろうかと正直思う。確かにフェス=お祭りを志向したのであればそれは正しいだろう。しかし、片方にはひきこもり当事者のUX(User Experience)の思いを伝えるという真面目な側面もある。それを具現しているのはまずメインステージでのトークセッションであり、そのセッションを共有した聞き手との間でのもう少し話したいことの広がり、深さに向き合うことでもあるだろう。それにはアフタートークの部分が短すぎた気がする。
自分は聞けなかったけれど、午前の「親子問題」、午後最初の「性的マイノリティ問題」を含め、どこからでも入り口を、という趣旨は非常にいいのだけど、これを一日で全部やるのはやはり幕の内弁当的ではなかったろうか。実際問題、「ひきこもりと○○」の課題ひとつだけで半日語り合っても全然構わないと思うくらいだ。実は「交流スペース」という存在もそのデスカッションの熱を徐々にクールダウンしながら相互に交流が始まる、という流れが実はもっとも自然な気がする。まあ、余りにリアルな理屈を展開するのも主催者の人たちに気の毒な話。実際、ひきこもり契機が新たに発見されるものが現在多くなっている気がするので、そのさきがけ的なテーマをリアルに展開したという意味ではあとあとまで価値あるものだろう。
ただ、テーマが多様であるとしても、これは聞き手としても想像外だったけれども、「働く」というテーマと、「生きづらさ」のテーマは意外とかぶる話が多かった。今後同じようなことをやる場合、ゲストスピーカーと打ち合わせを重ね、事前に話が被りそうだと思ったら、二つをひとつにまとめるのも手ではないだろうか?それこそ、アーレントの労働観というものがあるのだ、というところから「働く」常識を改めて考えなおすのを二人のゲストスピーカーを合わせてやってみても良かったのかもしれない。
また、ブースには個人的にはそれ程触手が動かないだろうな、という自分なりの感触があった(すみません)。でもこれは難しい。フェスの賑わいには必要な要素でもあるだろうし、多様性の証でもあるだろうし。要は僕が自分の目が狭くて、いろいろ楽しむという傾向が弱いせいもあるだろう。でも、例えばメイントークと親和性のあるブースがあるなら、トークの終わりに、「このトークに近いNPOがブースを出してますよ、ぜひ話を聞いてみてください」という呼びかけとか、逆にブースの人がアフタートークで何かヒントになることを話す、というやり方もあるかもしれない。
何かいろいろと注文、要求みたいなものを加筆してしまった気がしますが、かなりハイレベルな要求をしてしまっているわけで、大きなイベントを主催、運営するというのはどんな社会でも大変であるだろう。それを元ひきこもり当事者側の人たちが主にやっているということを考えれば、どんなにすごいことかと思う。もう、運営の人は「どうでえ!」と胸を張ってお天道様のど真ん中を歩いてください(笑)。いや、これは冗談ではなく、本当のことです。
ちなみに第2回目の参加者は400人くらいとのこと。前回を超えましたね。関係者の皆さん、本当にお疲れさまでした。はてさて、この集まりのうち、当事者の人はどれくらい集まったんんだろうなぁ。
杉本賢治