インタビュー集『ひきこもる心のケア』を出版した杉本賢治(さん)に訊く
「ひきこもりを脱した人と言われることに違和感がないわけじゃない」
(聞き手:北方ジャーナル・武智敦子記者)
「世間やメディアに違和感」
■ 10代と20代の頃にひきこもりを経験されています。
杉本 10代後半に対人恐怖症で外に出られなくなって苦しみ、20代の頃は宗教団体の学生幹部になり指導力がないことに直面して逃げ出し、ひきこもった経験があります。これは個人的な事情を反映していますが、ひきこもりを問題として意識するようになったのは、2009年に自助会「SANGOの会」に参加するようになってからです。
■ 今回出版した『ひきこもる心のケア』の序文に、ひきこもり現象は社会とのミスマッチにあると書いておられますね。
杉本 ひきこもりをめぐる世間の目やマスメディアの取材、あるいは記事化されたものに多少の違和感を覚えてきました。ひきこもり問題の暗闇の部分だけをクローズアップしても突破口は見えないし、二次被害とまでは言わないけれど、当事者が読むと二重に苦しい。
■ メディア報道によりひきこもり像がステレオタイプ化されている。
杉本 ひきこもりという言葉の枠組みの中に縛られているというか、固定化されているという印象があった。自助会などで話を訊き、その蓄積の中で思うところもあり、このままでいくと煮詰まるなと感じていました。
■ それを払拭したかった。
杉本 それだけじゃないんじゃないかと。自助会でハンドブックつくりや会報誌のインタビューに携わるようになり、その流れの中で生活困窮者の自立支援に取り組む釧路の支援者と出会ったことで、支援者と被支援者の関係性の問題などに対して意識が高まりました。
■ 『ひきこもる心のケア』は、会報誌でインタビューした札幌学院大学の二通諭教授や村澤和多里准教授(現:同大学教授)の勧めで書籍化が実現した。
杉本 2011年9月から会報誌のインタビューを始めました。去年(2014年)の春に今までのインタビューを起こしたものを収録した『ひきこもりを語る』を自費出版し、これが波及し書籍化に漕ぎ着けることができました。
■ 「ひきこもり支援の最前線」「ひきこもりゆく『心』」「発達障害とひきこもり」「社会的排除とひきこもり」をテーマに道内外の10人の専門家にインタビューしています。和歌山県岩出市の紀の川病院ひきこもり研究センター長・宮西照夫さんの、当事者が育っていくには「ひきこもり臭」のある先輩が必要だと語っているのが印象に残りました。
杉本 「ひきこもり臭」はユーモアがあっていいなと思いました。宮西先生は文化相対論の人。いい意味でひきこもりを「違う文化に属する」と言い切っています。だから同じ「文化の人」を連れてくればいいんじゃないかと。「自分はひきこもりは分からない」と当事者を引っ張ってくるんですが、金曜の夜にはコアなメンバーと雑談するのが息抜きとも話しておられた。学校のマジョリティでない人との接点が楽しいんだなと思いました。
「社会が自由にならなければ」
■ ひきこもりを輩出する日本の社会をどう思いましたか。
杉本 これは難しい問題ですね。函館の支援者の方が、不登校は学校を離れれば楽になるけど、大人には「働かない」という選択肢がないと話していました。だから、ひきこもり問題は難しいと。生活のために働くという束縛から逃れられない。とは言え、ここ十数年位の間にすごく社会が息苦しくなっているのは間違いないですよね。今回の安保法制もそうですが行き詰っている感がある。
本の中で安岡譽先生(精神科医、北海道精神分析研究会会長)が、個人心理の病理が先にあるのではなく、まず、集団の病理が先にあるという話をされていますが、やはりそういうことになってきていると思います。例えば、学校のいじめ問題は間違いなく大人が作っている社会を、子供がデフォルメするような形で行動している。能力社会の反映が学校に先鋭化された形で出ていると思うので、逆に学校が自由になるには社会が自由にならなければならない。
■ 映し鏡のようなものだと。
杉本 そう。大人が作っている社会の中で学校は運営されているので。学校を離れて精神的に落ち着いた子供がどうやって社会参加するかという大変さはあるけれど、今はフリースクールなどの社会資源もある。学校に見切りをつけた子供のほうが大人と接点を作りながら早く成熟していくのも確かじゃないかと思います。僕が10代で外に出られなくなった頃は逃げ道も抜け道もなかった。でも、選択肢はあってもそれを選べない親御さんがいるのかもしれないけど。
■ 情報が届いていない。
杉本 あるのは分かっていても、怪しげなものと考えていたり、どこを選べばいいのか分からないのかもしれませんね。
■ 今でも学校に行かなければ負けと考える保護者は多い。
杉本 笑っちゃうしかないですよね(笑)。学校に行ったって負け組とかあるわけだから。僕が和歌山で出会った人は、有名な国立大学を中退し当事者として外来に来ていました。本にも書いていますが、優秀な付属小中学校に入学してから友達がいなくなり、そこから先は孤独な大学生になる。やはり親は見えてないんだろうな。だから、フリースクールなんかが怪しいものと捉えられる。とは言っても、僕もそんなに自由な人間じゃないので(笑)。
■ でも、自由を求めている。
杉本 あがいているだけで、吹っ切れていると思ってないんだな。知り合いに不登校を経て自由にフリースクールに通えた人が居るけど、適わないなと思う。生命力の部分で負けている。僕のように全社会から否定されていると思い込んだり、ある宗教団体に属して自己投入するような遠回りはないから。
「突破口を皆が考えている」
■ どのような人たちにこの本を読んで欲しいですか。
杉本 最近の自助会はひきこもりだからというよりも、居場所がないから来ている人が増えています。そういう人たちには届くだろうなと思っているけど、ある意味ひきこもることに対して理論武装を与える可能性もあるかも。
■ なぜですか。
杉本 「専門家がこういうこと言っているじゃないですか」みたいな形で。だって、僕自身もひきこもりのステレオタイプを払拭したいというのがモチベーションとしてありますからね。副作用としてそういう可能性もないわけじゃない(笑)。僕が自費本を出版した時に、非常に理知的なひきこもり経験のある人から「これからひきこもりたいと思っている人に届く本じゃないですか」と言われた。上手いことを言うなと思いました。『ひきこもる心のケア』が精神的な癒しになるか、「やはり私はひきこもります」に至るのか ーそこまで波及力があるかどうかはわからないけど(笑)。
■ 心がズタズタになるというか限界に達するまで我慢するよりは「ひきこもって何が悪い」という開き直りも必要かもしれません。
杉本 正直、僕はそれくらいの居直り感覚はありますけどね。でも常に矛盾した思考があって、そう言い切った途端に「まてよ」と真逆の考えが浮かんでしまう。それで安心しきっていいのかな、
どうなんだろうって。
■ 狭間で揺れ動いている。
杉本 だから僕は何もしなくていいとは思っていないんです。しんどい場所はあり過ぎるけど、やはり仕事好きだという人もいる。それをひっくり返すのは間違っていると思っているんです。この間、テレビを見ていたら「(ひきこもっていると)安心だ」という話があったけど、あれは基本的には逆説ですからね。
■ 安心してひきこもっているわけではない。
杉本 どこに突破口があるかはみな考えているし、考えることも苦しいという人もいるんだろうな。今、自助会に来ているメンバーもどうやったら戦略的に社会参加できるんだろうということは考えています。社会の主流を一旦離れてしまったが、どうやって社会に参加するか。履歴書を書いて働けば済む問題ではないから、ある意味皆そこで苦しんでいる。でも、悩み苦しみながらも結構生き生きしているというか。
■ 根っこの部分にある将来への不安から逃れることはできない。
杉本 それでも、自助会のメンバーは昔と違って随分しゃべれる人が増えたと思います。でもやはり、皆繊細です。ジェントルマンでとても優しいということはすごく感じます。
■ コミュニケーション能力に長けた当事者が増えていると。
杉本 今は自己啓発的な世界もそうかもしれないけど、自分をどう表現するかってことにすごく注目するじゃないですか。それこそ、湯浅誠さんあたりから、感情的にも熱くならず冷静でコミュニケーション能力も高い人たちが「間違っているものは間違っている」と言い始めているわけですよね。オックスブリッジじゃないけど、そういう人たちは新自由主義的なグローバル企業ではなくNPOやNGOに行く。自分を売り込む才能を持ち、どう発信するかというスキルを持った若い人たちが日本にも沢山出てくると思います。自助会のメンバーも恐らく叩かれてきているし嫌な思いも沢山経験してきているんです。社会的な立場とか役割、所属を手にした人たちの世界で生きていけない人たちが、今後の社会の可能性を作る。そう敢えて言ってみるというか。
「自分は何も変わっていない」
■ その一方で家から出られない人がいるのも事実で、長期高年齢化が問題になっています。
杉本 僕は年齢がその世代に近いということもあり、そういった強調のされ方が強迫のように思えてアンチテーゼがあったのは事実。でも最近、親の会などに参加するようになり、リアルとしてそういう話を聞くとやはり深刻だなと思います。
■ 目をそらせない現実としてあるわけですから。
杉本 ひきこもりのライフプランとか、そういう形で商売してほしくないと思いつつ、僕自身を含めて、生きていくことをベースに考えると、親亡き後をどうするかは真剣に考えなくてはならないと思います。理想を言えばだけど、当事者が自分たちの問題として考え話し合えれば一番正解だと思っています。
■ もっと主体的に動くべきだと。
杉本 人がひきこもりは大変で云々というのは、やはり僕は間違っていると思う。当事者自身が情報を調べるなどして活動し、危機感を持ってどうするかを考える。あるいは一人が無理なら、誰かと一緒に考えるというのが正解だろうと思っているけど、事実、家から出られない人もいるわけですから理想論過ぎるかもしれない。いくら(当事者会などに)「ひきこもり臭」の人たちが集まったところで、僕らもそういう人には会えないわけですから。地域的なアウトリーチという啓発活動があり、そこに元当事者が行くのは現状では効果があることじゃないかなと思っていますが、直接働きかけるのは難しい。
■ 親御さんの苦悩を聞いてもその辺りは深刻だと思います。
杉本 僕のような人だとか、なぜ自分がひきこもっているかを語れる青年もいる一方で、自分自身の問題として語ることさえ辛いという人もいる。だから、当事者同士で会っていても、どこまで触れていいかは難しいし、気を使う部分もある。ただ、僕自身に関してはひきこもりを脱した人という風に言われることに少し違和感がないわけじゃないし、自分の中では一貫して特に何も変わっていない。色々な人に押されているんですよ、やんなくちゃいけないと。でも、それは支援者に押されたわけじゃないです。
「自助会などに参加した方が」
■ ひきこもり問題へのアプローチも当事者同士の交流から。
杉本 友達との会話、あるいは友人の動きに刺激を受けて焦って動いたというのかな。僕はいわゆるモラトリアムの延長がずっと続いていたんだけど、改めてモラトリアムチックな人たちと出会ってここまで来た。ただ、何かを表現しないとやっていけないという気持ちがあり、自然な流れの延長線でもあったんです。だから、当事者は自助会などに参加する方がいいと思っています。現実に随分変わったり、ものすごい勢いで変化した人も見ていますし。
■ 人と関わることで内に秘めていたものが一気に吹き出す。
杉本 個々様々に違うんですよね。自助会に来なくなったので落ち込んでいるのかなと思ったら、一息充電し、また戻ってくるという人もいます。当事者にしか分からない世界を持っているので、判断はできないなと思います。問題は刺激を与える人と出会えるかということです。村澤先生がアジール(駆け込み寺的なもの)という言い方をしていますが、避難場所として三々五々集まっている幹になる部分があり、枝葉は仲良くなった人。色々やって傷ついたら幹の部分に戻ってくる。そういう居場所を用意したら、あとは自然発生的に発展して気の合う人と何かを始めようというようなやり方です。
■ そうしてご自身も活動の場を広げた。現在はインタビューサイトの運営もされていますね。
杉本 意外な喜びだとかもあったりするので、どこまでできるかどうかは分からないけど続けていきたい。あと、若い人にはモラトリアムを復活して欲しいという気持ちもあります。
■ 『モラトリアム人間の時代』(小此木啓吾著、1978年)の影響で、モラトリアムは肯定的には評価されなかった。今の社会は若者たちに早く大人になることを暗黙のうちに求めていますから、むしろモラトリアムも必要では。
杉本 今はモラトリアムという言葉も「何ですか?」という時代ですよね。五月病とかスチューデントアパシーなんて言葉もあったけど。ただ、自分のモラトリアムはあと1年かなと思っています。親ももうじき90歳になり、そういう問題もある。それにしても僕の精神状態は子供っぽいんだよね。気楽というか、気持ちは20代なんです(笑)。
■ モラトリアムは卒業しますか。
杉本 深刻に考えると社会の壁が分厚いと思っているけど、意外とニッチというか抜け穴はあるかもしれない。それで上手く行ったわけではないので断言はできませんが。それでも、この歳になり親がかりでどこまでも生きますよ、と開きなおっていいのかというという気持ちはあるんです。お金にはならないけど、こうして本を出すこともできた。自分で言うのもおかしいけど、新しいアプローチにはなっているんじゃないかなと思います。
(2015..9.21)
※ この記事は『北方ジャーナル 2015年12月号(第44巻第12号 通巻554号)』より転載させていただきました。